慎重と逡巡の違い

 校内の検索にあたり、学校側が提供した見取り図は詳細だった。各階の構造と、各部屋の現在の用途が細かく記されている。更新されたのは半年前。教頭の言葉を信じるならば、それ以降、教室の用途変更はない。

 見取り図にある通り、校舎の3階右側T字路には手洗場が設置されている。他に手洗場があるのは各学年の教室付近、つまりH型の校舎の左側だけ。3階右側に手洗場があるのは、3階右側部分が教室として使われていた名残らしい。手洗場横の教室が美術室なのは有効利用を模索した結果だ。

 見取り図の検索済みの部屋に印をつけていると、見慣れない人物が階段を上り、手洗場に現れた。その人物は階段を上り切ると周囲を何度も確認している。どうやら相手は古淵に気づいていない。座っているのが手洗場の端で、照明を消すと暗くて見えにくいからかもしれない。

 結局、こちらに気付かないまま美術室へと向かおうとするので、古淵は慌てて声をかけた。検索済みの部屋に入られては仕事が減らない。

「どなたかいらっしゃるのですか?」

 こちらが視認できていないのか、その人物は首を伸ばして美術室を確認している。

 もう一度大きく声をかけると、古淵が手洗場にいることに気付き、慌てて首を戻した。身長は165センチから170センチ、白衣を着た中肉中背の成人。肩まで伸びた髪は内跳ねで目元や顔の輪郭を隠している。性別はわからない。

 他の教員は胸に名札を吊り下げていたが、白衣の下に名札はない。

「失礼ですがどなたですか?」

「教頭先生から聞いていませんでしたか?」

 身元を明かさずに立ち上がり一歩前に出る。窓の横に立ち日光を浴びると少し暑い。固い靴底が床に辺りコツンと音が響いた。

「回遊会の巡回員、古淵旱といいます。生徒の集団下校の補助を行います。今は……校舎内に取り残された生徒がいないか確認しているんです」

 相手は回遊会と聞いた時点で近づくのを止めた。

「回遊会、そういえばそんな話もありましたね」

「職員室では見かけませんでしたが、どちらにいらっしゃったんですか?」

 教員かすら怪しいがどうでもよかった。背負った袋を下して右手に持ち直し、更に一歩、相手に近づく。相手の鼻先まで概ね3歩。それでも顔がわからない。

「体調を崩した子を集団下校させるか保護者に連絡するか決めかねていたんです」

「へぇ。それじゃあ、保健の先生だ」

 相手は保健のミゾジマだと名乗った。口はよく見えるが、表情はわからない。

「先生は今から保健室に行くところなんですか?」

 ミゾジマは頷く。しかし、見取図では保健室は2階、職員室の向かいにある。階段を上る必要も美術室側の廊下を確認する必要もない。

「そうなんです。調子を崩した生徒を別途送るわけにはいかないのでしょうか」

 様子を見てみないことには何とも言えませんと答えてやる。すると、ミゾジマは保健室への案内を申し出た。いわく、保健室は美術室とは逆側の廊下、図書館の隣にあるという。見取図では被服準備室となっている。

「教室の配置が複雑でわかりにくいですよね。色々と改装が続いているもので」

 足早に保健室もとい被服準備室に向かうミゾジマに、距離を詰めることなくついていく。やはり、廊下に響くのは旱の足音だけだった。

「30分ほど前に一人、調子を崩してしまった子がいたんです」

 ミゾジマは引き戸を開ける。美術室はカーテンが閉められても室内の様子がわかったのに、扉の奥は黒く塗りつぶされたように暗い。こちらですと案内するミゾジマの身体が闇に溶けるように室内へ消えていく。

 旱は咄嗟にミゾジマの左手首を掴み、無理やり身体を引き寄せた。そして、闇から出てきたミゾジマに右手の金属刀を振るう。刀袋が床に落ちるのとミゾジマが刀の餌食になるのは同時だった。


*****

 巡回員は回遊会の従業員に過ぎない。回遊会は特殊なビジネスをしているが治外法権ではない。そのため、荒事を担う巡回員も社の存続が危ぶまれる行為をすれば処分される。例えば、人に似た漂流物を処理するときの手順を無視する場合など。

 だが、旱は被服準備室に消えるミゾジマを前に手順を無視することにした。

 

 金属刀はミゾジマの下腹部から胸をえぐり取る。ミゾジマは被服準備室内にうつぶせに倒れ込むが音はしなかった。

 振るった刀に異常がないことを確認し、旱は準備室に立ち入った。壁際のスイッチで灯りをつけると、倒れたミゾジマが羽虫のような音をたてながら床を這っていた。手首、足首は這うために直角に折れ、既に人間の動きから逸脱を始めている。

 準備室の窓は暗幕で塞がれガムテープで目張りされていた。室内が暗い理由がわかれば話は早い。旱は騒ぎが漏れないように背後の扉を閉める。

 その間にもミゾジマは両手足を動かし中央の机に這い上がっていた。机の中心で身体を縮めこちらを振り返る。髪が乱れ露わになった顔には目がない。目の位置にある浅いくぼみが左右に動き、鼻らしき部分は顔にめり込んだり膨らんだりを繰り返している。半開きの口から垂れた舌先では眼球二つ、旱を睨み付けている。眼球だけなのに睨み付けているようにみえるのは、表面に瞼のような薄い膜があるからだ。

 両手の指先は吸盤のように丸く変化し、リズミカルに机を叩いているが室内には羽音のような音だけが響いている。

「それはミゾジマ先生の姿なのか?」

 擬態としては完全に失敗している。口をついた疑問にミゾジマの頭部が右に傾いた。首を傾げるジェスチャーだろうか。中途半端に人の真似がうまい。

「調子を崩した子がいたんです。声をかけたんですが、どこかに行ってしまって」

 その姿なら誰でも逃げる。廊下で遭遇したときから既に人間から外れていたし、この蛭子は擬態の参考にすべきモデルを間違えている。

 とはいえ、蛭子に弁明を求める必要はない。旱はミゾジマに近づき勢いをつけて刀を振るった。刀が机の天板を割ったときにはミゾジマの身体も左右に割れていた。

 ミゾジマの身体から灰色の体液と共に赤黒いゼラチン状の塊が流れ落ちる。体液は水分を失い風化するが塊は机上に残ったままだ。

「ああ……面倒くさいな、これ」

 この蛭子は

 残留物の状態は漂流直後にしては消化が進んでいる。どんなに早くても数日。

 頭をよぎる面倒な展開にため息が出た。とにかく、まずは笹崎に報告を……いや。

 旱は、無線のチャンネルを回して、笹崎以外の個人回線を探すことにした。


*****

 応答したのが音色なのは幸運だ。沙魚なら抗議されるし、強矢は問答無用で笹崎に繋ぐ。旱のわがままを聞いてくれるのは、音色と浮木のどちらかだ。

 不運なのは音色に報告を押し付けているうちに、ミゾジマの左半身が動き出したことだ。左半身は机から滑り落ち、旱から逃げるように暗幕下の洗い場に向かって器用に蛇口を捻った。

 動きが滑らかで周囲の光景から浮いている。まるでホラー映画だ。

 呆気に取られる旱をよそに、左半身は刀で切った断面で水を吸う。すると断面からブクブクと肉が盛り上がり右半身が形成された。

 再生する蛭子は何度も見ているが、いつみても羨ましい。惜しむらくは、左の手首足首は直角に折れているのに、再生された右半身は初めに遭遇した人形に復元していることだ。それでは全体として統率が取れておらず、再生能力の無駄遣いだ。

 一方で机に残った右半身は役割を終えたのか瞬く間に風化する。机上に残るトンカツ1枚、ないし2枚分程度の肉塊が旱の想像を裏付けた。

 

 混ざってしまった人間の身体はほとんど残っていない。それほど長期にわたって、この蛭子は校内に潜伏できていた。崩れた顔でうろついていたにも関わらず。


 何から何まで面倒だが、右半身も再生する分裂タイプでなかったことは幸運だ。

 音色との無線を切り金属刀を構える。ミゾジマは再生力に優れているがやわらかい。刀が当たれば肉は削げる。核に当たるまで刀を振るい続けるだけで駆除できる。

 導線上に机があるのは少し邪魔だが、天板は既に壊れているのでどうでもよい。床を蹴り、机に飛び乗ってミゾジマへの距離を詰める。

 机から飛び降りたところで洗い場まで残り5歩。

 刀を振りかぶり、そして半歩横にずれて顔面に飛んできた何かを避けた。

 背後でガラスの割れる音がなる。ミゾジマから距離を取って振り返るとドアの窓が割れていた。ミゾジマが投擲した? だが、そのような動きは見えなかった。

「やってくれるじゃない」

 窓ガラスが割れた音はどこまで響いているだろうか。班員が集まるならいいが、生徒や教員が集まると面倒だ。ミゾジマは旱の反応が嬉しかったのか、両手を胸の前で打ち合わせている。

 無音のジェスチャーは思っていた以上に腹立たしかった。投擲の仕組みを考えるまでもなく、旱は先ほどよりも速度を上げて接近し、ミゾジマの肩を横薙ぎにするように刀を振るった。

 ミゾジマは腕と肩を割かれて再び倒れるはずだった。

 だが、突然刀は弾かれて、刀の重さに引き摺られるように旱は左にバランスを崩した。それを狙ったかのように、ミゾジマの左腕が旱の腹部に突き出される。

 咄嗟の判断で右手を振り下ろし、左腕に手刀を叩きこむ。ミゾジマの左腕は手刀の勢いで折れて、床に向かい、床板と接触した指が粘土細工のようにひしゃげて潰れた。どうやら床板の硬さには負ける程度の柔らかさらしい。

 ミゾジマが潰れた拳を見つめている間に、ミゾジマの入っている洗場から距離を取る。水で身体を復元できるなら突き出した手を何度も伸ばして旱を襲う選択肢もありそうだが、そういった応用はしないらしい。その代りミゾジマは威嚇のつもりか鼻を大きく膨らませた。刀を弾いた右腕も心なしか膨れたように見える。

 

 ミゾジマに知恵はないが刀を弾き飛ばした仕掛けが問題だ。手刀で軌道を逸らせられるし、既に二回、刀が身体を抉っている。触れることはできるはずなのに、何故、先の一回だけ弾かれたのか。

 膨れた右腕に目をやれば、両手指と同じ吸盤が浮き出ていた。ミゾジマの鼻が萎むのに合わせて腕が縮み、羽音のような異音が響く。逆に、鼻が膨らむと吸盤の付近から右腕が膨らんでいった。

「なるほど」

 利用しているのは風か。音もせず這うのはホバークラフトの要領。モーションなしで投擲をしたのも、足元と腕の吸盤からの排気で椅子を操った結果か。

 他方で、旱の腕力と刀の重量を押しのけるのには、相当な風が必要だ。室内で突風が吹いた記憶がない。現実の風でないのなら、ミゾジマが吐いているのは風と同じ現象を引き起こす異界産の何かだ。

 観測器が正常に動いていれば、窓井四方が即座に分析をしてくれたに違いないが、いまはそれを望めない。もっとも、吐き出された何かの知覚が困難でも、吸盤と鼻の動きで見分けられるなら怖くない。

 漂着物らしい特性だと思うが、他方でひどく中途半端だ。

――古淵先輩。30秒で着きます。大丈夫ですか。

 音色からの強制通信。ガラスが割れるのを見たのだろう。出来た後輩だ。

「着くころには終わってるよ」

 再度ミゾジマに接近する。ミゾジマは鼻を凹ませるが、タネが割れれば怖くはない。旱の刀はミゾジマの身体を何度も抉り、削られた身体は次々と灰化する。

 全体の4分の1、左肩と顔以外を削ぐと、背後で引き戸が勢いよく開かれた。

「鹿場、現着」

 音色の声と共に、旱の刀はミゾジマの凹んだ鼻を貫いた。何かを砕く鈍い感触と、ミゾジマから力が抜ける気配が、旱に蛭子の核の破壊を伝える。

「音色ちゃん。報告書は作るから、後で窓割ったことを一緒に謝ってほしい」

 後輩の顔は確認せず、刀が貫いたミゾジマの最期から目をそらさない。ミゾジマの顔は灰化し、緑色の球体が現れる。球体は刀に貫かれており、割れ目から砂を吐き出すとパキリと二つに割れた。洗い場のシンクが音を立てて蛭子だったものを受け止めた。

「笹崎さんに報告お願い。警戒度を上げてもらって。他に何が隠れていてもおかしくない」

 この学校の教員が何を考えているかわからないが、こんな雑な蛭子、回遊会でなくても、疑う機会はいくらでもあったはずだ。


 彼らは同僚の異常を見なかったことにした。その結果がこれだ。


 非番の仕事にしては、なんて面倒な。

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