怖いことは見て見ぬふりをするのがよい。

 溝島先生は、僕を保健室に連れていくと言って、図書室の方へと歩き出した。僕は、学校で怪我をしたことがないので、保健室に行く機会がほとんどない。ほとんどというのは、昨日、ユータが体育の時間にボールを顔面にぶつけて鼻血を出したからだ。鼻血くらいなんてことないと思うけれど、ユータは痛がっていたし、かわいそうだったから一緒に保健室に行った。

 そのとき、保健室は職員室の向かいにあった。溝口先生は僕の手を引いて図書室へ向かっているけれど、そっちには保健室はない。

 保健室の場所が違うと声を出そうとしたら、喉が渇いて声の代わりに何回かセキがでる。そうすると、溝島先生は心配そうにしゃがみこんで、僕と同じ高さで僕の顔を見て、「保健室で少し休もう。その間にお母さんたちに連絡するからね」と言う。

 まゆ毛をハの字にして僕をみる溝島先生の顔は、子供を心配する大人の顔だ。けれど、僕はセキが出ることよりも、溝島先生と一緒に保健室じゃない保健室へ行く方が怖かった。

 だから、何度も首を振って、元気だとアピールした。でも、声を出そうとすると口の中が渇いてしまってセキになってしまう。

「矢内君。君は自分が元気だというけれど、顔色がとても悪い。それに、声だってうまく出せないじゃないか。先生たちは君たちが元気に学校生活を送れるようにご両親から預かっているんだ。だから、調子の悪い生徒を放ってはおけないんだよ」

 溝島先生の言い分はわかる。でも、先生が行こうとしているのは保健室じゃない。職員室に連れていかれたときも、先生たちは何かが変だった。僕はそれが怖い。

 それに、僕は元気だから、お母さんとお父さんに連絡するのはやめてほしかった。

「先生、ここ、保健室じゃない」

 何回かセキがでたけれど、頑張って声を出した。溝口先生は目を丸くした。

「何を言っているんだい? 保健室はここだよ」

「違うよ、昨日は職員室の前だった」

 口に出してから、溝口先生の顔が怖くなった。丸くなった目は僕のことをじっと見ていて、ほっぺたがプルプルと震えている。怒っているようにも見えたし、何かを我慢しているようにも見えた。

 何も言わないで、僕を見る先生が怖くて、僕は回れ右をして職員室の方に戻ろうとした。保健室は職員室の向かい側にあるんだから、間違ったことはしていない。

「矢内君」

 何歩も進まないうちに、溝口先生の声が聞こえて、肩を掴まれた。先生の手はアイスクリームみたいに冷たくて、スライムみたいにやわらかいのに、力は強い。気味が悪くて、僕は思わず立ち止まった。

「矢内君。君は、何か悪い夢でも見ている。保健室は前からあっちだよ」

 先生は僕の両肩を掴んで、後ろへ引きずろうとする。怖かったけど、ここでついていっちゃだめだと思った。

「君は調子が悪いせいで少し混乱しているんだ」

 肩を掴んで僕を引っ張っているはずなのに、右耳の後ろで溝島先生の声がする。振り返るのが怖くて、僕はまっすぐ廊下の先をみた。図書室からもその先のトイレからも、廊下の曲がり角からも誰も出てこない。

「君の話は混乱しているんだ。先生といくつか確認してみよう」

 左肩に置かれた手が離れて、僕の前にのびてくる。先生の手は携帯電話を持っていて、左手の親指と人差し指だけで画面を操作した。

「ほら、まずはこれ。この子のことを知っているかい?」

 画面に映ったのはクラスの発表準備をしているときの僕たちの写真だ。先生が拡大したのは、トシの顔だ。

「トシ。見辺坊史(ミベマチ‐トシ)君です」

「そう。見辺坊君だね。君のクラスメイトだ。それじゃあ、これは?」

「牛田、牛田楽(ウシダ‐ラク)君です」

「なるほど。ギュウタ君だね。それじゃあ、彼女は誰だろう」

 三つ目の写真も、授業風景を撮った写真なのはわかった。けれど、先生が拡大した女の子が誰なのかはわからない。クラスの子じゃないと思う。

 首を横に振ると、先生は別の写真を見せる。先生は他にも何枚か写真を見せてくれたけれど、3枚に1枚くらいは見覚えがない子が混ざっている。

「ほらね。25人しかいないのに、君はクラスメイトの顔が思い出せなくなっているんだ。さっき、登下校で一緒になるはずの生徒のことを思い出せないと言っていただろう。だから、少し心配になってしまって、君を休ませた方がよいと考えたんだよ。何しろ、回遊会の話を聴いたら大人だって冷静にいられない。」

 溝島先生はそういうけれど、見覚えのない子たちは違うクラスの子だ。おかしいのは僕じゃなくて先生。でも、先生の腕は僕の肩を掴んでいるし、携帯を持っている左手もすぐに僕を抱きかかえられる。連れていかれる。

「先生の言っているコトわかったでしょう。だから」

「トイレ」

「ん?」

「僕、トイレに行ってきます、ガマンできないんです」

 本当はトイレなんて行きたくない。ただ、目の前にあったトイレを見て思いついただけだった。それでも、溝島先生は少し考えて、僕の肩から手をはなした。

「ああ。それなら行っておいで、図書室の隣にあるでしょう。先生はここで待っているから、必ず戻ってくるんだよ」

 僕はなるべく駆け足にならないようにトイレに向かう。もちろん、トイレに入るつもりなんてなかった。本当はその先の階段をかけおりて、学校の外に逃げ出すんだ。

 今日は何かがおかしい。職員室の先生たちもみんな僕の知らない子の話を聴いてきたし、溝島先生は気味が悪い。一階に下りれば校庭に出るための玄関がある。そこから逃げ出してしまおう。

 僕は、トイレを横切ったところで、かけだした。転ばないように気を付けて、一段とばしで階段を下りる。前にトシと練習しておいてよかった。後ろで溝島先生の声が聞こえた気がしたけれど振り返るつもりはない。

「おや、矢内じゃないか。どうしたそんなに慌てて」

 玄関の前で、僕の名前を呼んだのは猫谷だった。なんだかたくさんのプリントを抱えて僕の顔を見ている。猫谷がいたら玄関を開けられないし、そもそも校庭に出ようとする僕を怒るだろう。

 もたもたしていると、溝島先生が階段を下りてくる。困った。

「先生、あの」

「落ち着きなさい。さっきは職員室で質問攻めにあって疲れただろう。保健室に行ったんじゃなかったのか?」

 その保健室の場所が違ったんです。口に出そうとしてまよった。

「まあいい。矢内がきちんと答えてくれたおかげで、教頭先生たちも納得してくれた。明日の参観日は行うが今日は授業を切り上げて集団下校をする」

 集団下校? なんで急に。

「理由は君たちが考える必要はないんだ。下校途中には回遊会の人たちもついてくれる。これは先生たちの問題だ。それだけ元気なら、矢内も教室に戻ろう。保健室に声をかけにいく手間が省けた」

 猫谷はそう言って、僕の頭をぽんと軽くたたいた。いつものめんどくさい猫谷よりも少しかっこいい目をしている気がして、僕は猫谷に頷いた。集団下校に紛れてしまえば、溝島先生も僕を保健室に連れて行かないだろう。そんな予感があった。

「おや、猫谷先生。ああ、矢内君そこにいたのですね」

 だから、溝島先生の声が聞こえたとたん、ふるえて動けなくなった。

「溝島先生。どうしましたか? 矢内君は元気そうなので集団下校の班に加えようと思います。一人一人帰すには手が足りませんからね」

「集団下校、ですか?」

「そういえば、先生は矢内を保健室に連れていくのに席を外していましたね。教頭先生の決定です。校長も了承済み。本日は授業を切り上げて、回遊会の方々の協力要請を受け入れる方針となりました」

 溝島先生が後ろで怖がったのがわかった。猫谷は回遊会に会ったら先生たちに報告するようにと口酸っぱく言っていたけれど、実際に回遊会の人たちに会っても怖がらない。

 大人たちは回遊会を怖がる人と怖がらない人がいる。回遊会が何をしている人たちなのか知らないけれど、溝島先生が怖がるなら、たぶん悪い人たちじゃない。

 僕は、猫谷の後ろに回って、溝島先生の様子を伺った。猫谷は何か言いたげだったけれど、そのまま溝島先生の方へ向き直った。

 溝島先生は震えた声で猫谷に話し始める。

「矢内君も熱はありませんでしたので、問題ないと思いますよ。私も集団下校の班に加わるのですか?」

「そうですか。矢内。教室に戻るなら2階だろ。慌てるにもほどがあるぞ。初めにお前のクラスに寄るからついてきなさい。溝島先生は校内で回遊会への対応をお願いします。詳しい班割りは職員室で三枝先生が行っています。まもなく回遊会の方々も到着しますから、急ぎでお願いします」

「は、はぁ。わかりました。それじゃあ、矢内君。猫谷先生の言うことを聞いて、ちゃんと家に帰るんだよ。調子が悪くなったらすぐに誰かに言うんだ」

 溝島先生はそう言って下りてきた階段を上っていく。先生の姿が見えなくなって、僕は思わず大きく息を吐いた。猫谷に見られている。そう思って慌てて見上げたけれど、猫谷は口を真横にキッと結んで僕を見ていて、小言は言わなかった。

「矢内。保健室にはいかなくていい。クラスで班分けを説明したらそのまま教室にいなさい。君たちの班は一番早く出発することにする。それと、回遊会の人に教室まで来てもらうことにします。クラスの皆は自警団が来たと大騒ぎすると思うけれど、回遊会の人が説明を終えたら、彼に話しかけて私が自分の名前を伝えるように言ったと話しなさい。あとは回遊会と越住(コエズミ)先生の言う通りに」

 いつもの調子で説明をすると、猫谷は僕の手を握って教室に向かって歩き出した。猫谷がいつもと違うのはなんでかわからなくて、また溝島先生みたいに変なところに連れていこうとするのかと不安でうまく歩けない。何度か躓きそうになったところで、猫谷がしゃがみ込んで僕を見た。

「何があったかは聞かないけれど、こういう時のコツを一つ教えます。君たち子どもは自分の気持ちをきちんと受け止められないし、コントロールができません。

 けれど、こういう時に焦っていると良くない。防災訓練のときの私の話を覚えていましたか? 君は、あんまり真面目に聞いてくれなかった気もしますが。なにせ、この街では大地震は起きていませんからね」

 地震がないのに訓練をするのは変なんて話、猫谷の前でしたことがなかった。なのに、そのことを知っているのに驚いた。

「それくらいわかりますよ。先生ですからね。いいですか、災害時に一番危険なのは慌てることです。でも、怖いものは怖い。

 だから、怖いことがあったら見て見ぬふりをするのです。ずっとふりを続ける必要はありません。そうですね、今日であれば、家に帰ってご両親と会うまでは、ピクニックだと、何も怖いものはなかったと思い込んでください。人間は意外に単純なので、こういう思い込みが利くんです」

 説明をしているときの猫谷は小言をいうときと同じ顔をしているのに、なんだか優しく見えた。怖いことは見て見ぬふりをする。

 廊下に溝島先生はいない。これなら頑張れる気がする。僕は猫谷の顔を見て小さく頷いた。

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