引越(了)

「その本棚だけは引っ越し先に持っていきたいんです」

「それじゃあ、運びやすいように解体しますね。組み立て家具だから、引越し先でもすぐ組み立てられると思います。一応、外したところが分かるように天板とか留め具つけておきますんで」

 部屋のほとんどのものを廃棄することにした。管理会社が手配したのは引越業者ではなく便利屋だった。20代くらいの手慣れた作業員二人が、依頼内容にも関わらず、一つ一つ要不要を確認し、廃棄家具も丁寧に解体して運び出していく。

 1年間過ごした部屋も家具が消えるだけで雰囲気を変える。もはや、この部屋に私と水香が暮らした面影はない。あれほど手放しがたかったのに、私は2時間前の部屋の様子ですら正確に思い出せない。

 3か月前、私は部屋をそのままにして逃げ出した。思い返せば、隣にいた水香は水香ではないことに気づいていた。それでも直視できず、私は海の見える土地を目指した。彼女が快復するという幻想を見て。

 今も隣に水香はいない。彼女を模していた蛭子も存在しない。正真正銘、私は独りきりだ。それでも、3か月前に比べて心は落ち着いている。水香のいない日々に適応し始めているのなら、彼女も安心して眠るだろう。

 本棚の梱包を終え、作業員たちが部屋をでる。引越業者は呼んでいない。駐車場まで梱包された本棚を降ろすのは一苦労だ。新居から台車を持ってきたがダンボール3箱になるとは意外だった。水香はこれをどうやって搬入したのだろう。あのころ、私は忙しくて引越のほとんどの作業を水香に任せきりだった。それが理由というんけではないが、この本棚だけは自分の手で運びたい。

――新居に住むなら家具は全部取り替えてもいいかなって思っていたの。

――でも、この本棚は持っていきたいな。別に、棚に思い入れがあるってわけじゃないのだけれど、それでもこれは私の夢を受け止めてくれた棚だから

 結婚前、この本棚には各地の海の写真集、海洋生物の図鑑などが並べられていた。山間部で生まれた水香が憧れた海が詰められていた。

 私は新天地でこれに何を詰めていけばよいだろうか。

――大丈夫。怖くない。

 海に潜ることが怖かった私にかけた水香の言葉だ。あの日、彼女の言葉と共に消えていく蛭子をみて以来、私は水香の言葉を思い出すことが増えた。

 私にとって水香のいない生活は、海に飛び込むのと同じなのかもしれない。

「怖くはないさ。大丈夫」

 私は本棚を部屋の外に運び出し、908号室の扉を閉じた。


*****

「いいんですか? そのまま行かせて」

 ロジェ微睡床の駐車場に戌亥坂大海が現れる。何やら大きなダンボールを三つほど車に乗せて、彼は蛭子の現れた部屋を後にした。

 こうして蛭子の接触者の様子の監視に付き合わされたが、卒塔婆沙魚も後藤田強矢も引越の様子を見守るだけだ。休日を半日も潰して四方が同行する意味はあったのか。

 同期と先輩とはいえ、観測班に対する仕打ちが酷すぎる。抗議の声をあげようとすると二人は顔を見合わせ車に積んだ機材の確認を始めた。

「二人とも何をする気ですか? 戌亥坂大海はもう随分と先に行ってしまいましたよ」

「用があるのは戌亥坂じゃないんだよ」

 細かい説明はなく、卒塔婆から機材を詰め込んだリュックを押しつけられる。卒塔婆と後藤田は声も交わさず車外に出て、四方に視線でついてこいと促した。釈然としない。同僚間のコミュニケーションが足りていない。

 不本意ながら同行すれば、彼らはロジェ微睡床の管理人室に立ち寄り鍵を借りる。管理人も回遊会が訪問することを予め知っていたのか揉めることすらない。

 ここまでくれば、四方にも卒塔婆たちが何をしようとしているのか察しはつく。予想通り、たどり着いたのは908号室。卒塔婆が住人のいなくなった部屋の扉を静かに開ける。

「発端が私だから連れてきたんですか」

 こんな休日出勤があるなら報告書に真面目な所見など書かなければよかった。

「次の入居が決まる前に確認するべきだろ」

 そういえば、そんなことも報告書に書いたような気がする。だが、それは今回観測された蛭子の類型なら形式的に書かざるをえない話だ。

「否定しませんが、子産みの実例だって話してくれれば同行を嫌がらなかったですよ」

 卒塔婆は四方の返答に首をかしげた。いつものようにフードをかぶっているせいで表情は見えない。それでも、眉をひそめて訝しげな表情をしたのだと四方は思う。

 残業代もでない業務を、窓井四方が積極的に引き受けるだろうか。無理矢理連れてきて興味を惹かせた方が確実だ。どうせそんなことを考えている。概ね当たっているが少々、いや、結構失礼だ。

 仕事の方針はかみ合わないのに卒塔婆に先読みされたことが悔しくて、四方は舌を出して反抗的な表情をむけた。既にリビングの扉を開けた後藤田が四方の顔を見てため息をついた。

「遊びに来ているわけじゃあない。子産みの現場は危険なんだろう? 窓井」

 やれやれ。この先輩は私の報告書をきちんと読んでいないな。これだから、巡回員は意識が低い。

「危険というほど危険ではありませんよ。おそらく、ここに蛭子はいない。そもそも子産みというのはですね」

 子産み。それは、観測班が分類した蛭子の形態の一種。現実に漂流後に子を成す。つまり、分離、分裂以外の形で新たな個体を産み出す個体を意味する。

 蛭子は本来異界に存在する。現実の影響を受けて様々に変化するが、異界と異なる環境である現実での繁殖はできない。

 回遊会が、蛭子の探知ではなく、異界の接岸を示す波の探知という悠長な対処法を取り続けいても世間に蛭子が溢れない理由はここにある。

 一見すると子産みは蛭子の生態を覆した存在だ。そのため回遊会内でも危険視する者は多いが。もっとも四方からすれば、子産みは他の蛭子にない特性を持つに過ぎず、世界の危機を呼ぶ代物では決してない。

「観るべきところはリビングではありませんよ。あるとすれば浴室でしょう」

 四方の前で棒立ちの卒塔婆をよけて浴室に入る。四方の話にフリーズしているのだろうか。そうだとすればちょっと嬉しい。休日出勤を強いた罰だ。

 観測機など構えるまでもない。脱衣場は乾いているのに湿り気を帯びた空気が溜まっている。戌亥坂大海は一昨日からホテル住まいで908号室の水道は落とされている。水気がないのに湿り気を帯びるはずはない。

 この湿り気の原因は浴室、蛭子の本体、子産みが潜んでいた場所にある。

「あれは蛭子か?」

 四方の背後から浴室をのぞき込む後藤田が怪訝な声をあげる。卒塔婆の報告書にあった蛭子にも浴槽の一角にあるものと同様のものが付着していた。ゴツゴツとした岩状のフジツボは、磯なら自然だがマンションの九階にある浴槽には不釣り合いな光景だ。

「子産みは現実世界で繁殖できる個体ではないんです」

「何の話だ?」

「彼らは他の個体より異界の波を多く溜め込む事ができるにすぎません。子産みの繁殖は、子産みが溜め込んだ異界の中で行われる、どこにも例外的要素なんてない。おそらく、異界における日常風景なんです」

 振り返ると後藤田が難しい表情をしている。廊下に目を向けると、卒塔婆が廊下にもたれかかってこちらをみていた。

 細身で長身。フードで顔が隠して腕組みをしていると性別がはっきりしない。それでいて立ち姿に違和感がないのは狡い。

「浴室にあるのは、あの蛭子が集めていた異界の波の残り。それを除去すればこの部屋には異界の影響はないということか」

 後藤田よりも早く、四方の解説もなく答えを口にする。わかっているなら四方を連れてくる必要がなかったではないか。

 彼女はフードの奥から私に答え合わせを求めている。癪に障るが嘘はいけない。だから、私は彼女の問いに頷く。

「ですから、あのフジツボを掃除したら晴れてこの部屋の引渡は完了です。異界の除去は観測班の仕事ではありませんので、お二人でどうぞ」

「今日は活躍どころがまだない先輩に譲りますよ」

 二人から梯子を外された後藤田強矢は盛大にため息をついた。


 住人がいなくなった、908号室に、あの遺体袋の気配はない。ほんの少し開けられた窓から入る空気が、住人と異界の記憶を押し出していく。

 こうして908号室も生まれ変わっていく。


-誰だって毎朝生まれている 了-


 

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