薄明


「戌亥坂さん、回遊会の卒塔婆沙魚です。こちらで対処が終わるまでリビングから出ないで」

 名刺が読めなくなってから数分。卒塔婆たちはどうやってか部屋に侵入した。玄関に侵入した彼女たちはリビングの扉に突撃する袋と対峙している。

 そのはずだった。それなのに、彼女の声は全てを覆した。

「怖いものは全部、呑みこんでくれるから大丈夫」

 扉の向こう側で破裂音が聞こえて、シャワーの音が途絶えた。リビングに流れ込んだ水は、ビデオの巻き戻しのように廊下に戻り、フローリングが渇いていく。廊下の奥の灯りは消えて、人や化け物の気配もない。

 何が起こったのかがわからない。私は立ち上がって、食卓テーブルに手をついた。並べられていたはずの料理は消え去り、弁当と惣菜はビニール袋に入り、卓上に放置されていた。全ては幻覚だったのか? ポケットを探ったが名刺は見つからない。

「大丈夫。怖がらなくていい」

 彼女の声が聞こえて、リビングの扉が開いた。袋も水も出てこない。サメはいない。海で何かに襲われることはない。

 私はこの部屋に戻ってきた。私と彼女の生活はここにあるから。

 彼女の顔は思い出せない。けれども、彼女がここにいることはわかる。


*****

 海水は天井まで届いている。このままでは呼吸が持たずに窒息死するだろう。水の重さで背後の扉は開かないし、脱衣場から出てきた何かがどこにいるかわからない。

 焦りと混乱で正常な判断ができなくなる。そうして、地上9階のマンションで溺れて生を終える。廊下で水に呑まれ終える最期。まったく馬鹿馬鹿しい。

 目を閉じて足踏みをする。先ほどと感触は変わらない。水の抵抗力は存在しない。女の声が通信の邪魔をする前、窓井は何といった。

 908号室で波が観測された。異界の波。それは、巡回員である沙魚や後藤田にも目で見えるものではない。けれども、何事にも例外はある。

 脱衣場の女、あの蛭子を介して、沙魚は異界の波をみている。一瞬で廊下中に水が溜まるわけはない。異界に引きずり込まれたわけでもない。これは幻覚に過ぎない。

 この手法で人間を狩る蛭子はいくらでもいる。安っぽい手だ。

 沙魚は大きく深呼吸をする。空気が肺を満たす。フードを上げて目を開く。

「ここに水はない」

 言葉にすることで認知を強固にする。廊下を満たした水は消え遺体袋の破片と、その中央に赤黒い崩れかけの煮凝りのような物体が転がっている。壁などないはずなのに廊下に転がった物体の奥ではまだ廊下を水が満たしている。あの先に後藤田がいる。その証拠に水中で行き場を失ったドローンがワイヤーを絡ませ浮いている。

「どうして。海は全てを呑みこんでくれる」

「知らないね。ここは海じゃない」

 脱衣場から伸びていた手は、廊下に上半身をさらしていた。黄土色の肌の多くはフジツボが覆っている。異様に長い髪の毛は、水にぬれて煮凝りを隠そうと揺れている。表情は見えない。そもそも、そこが顔という保証はない。

「人食いサメはいない。海は全てを呑みこんでくれる。私は戻ってきた」

「誰の記憶から、何を学んだのかしらないが、ここはお前のいるところじゃない」

 蛭子は沙魚の言葉に身体を震わせた。フジツボの先から水が零れ落ちる。だが、その水は床に零れる前に消える。異界の波を貯めているだけで本物の水ではない。人の形を取ろうとしているが、うまく人の形を創れていない。

 早く処理しなければ、後藤田の身が危ないし、異界の波に人間を巻き込む等、逃がせばどこで被害を及ぼすかわかったものではない。

 袋に使った銛を腰に戻し、両手に狩猟刀を構える。髪の毛が生えた位置が顔とは限らないが、一刀両断するには良い目安だ。水を呼び込む以上に相手方の抵抗はない。気配でわかる。初めからそこまで力のある蛭子ではない。

「人の真似事はやめろ」

 蛭子に近づき、頭部と思われる部分に、狩猟刀を振り下ろす。ずぶり。泥に刃を突き立てたような手ごたえがして、首が落ちる。すると、玄関側に満ちていた水も音を立てて流れ出し、玄関のドアに貼りついた後藤田が現れた。

「溺れずに生きていましたか。先輩」

「なんとかね。よく幻覚だって見切りをつけたな」

 後藤田は膝を床につけ肩で息をしている。必死に息を止めていたらしい。

「いくら水が噴き出てきたって廊下だけ水槽みたいにはなりませんよ。寝室のドアは開けっぱなしなんだから」

「なるほど。それで蛭子は」

「あの通り。乾いたら土塊になる」

 脱衣場の女は廊下に転がる煮凝りを抱えてうずくまっている。落ちた頸は原型を失い崩れ始めており、床に湿った土をばらまいていた。

「水香(ミズカ)? 水香、なのか」

 リビングの扉が開き、戌亥坂大海が廊下に顔を見せた。彼は扉の付近にあるスイッチを押して廊下に明かりをつける。光に照らされた蛭子は、壊れて打ち捨てられたマネキンのようにもみえる。戌亥坂は朽ちていく蛭子の下に駆け寄り、崩れ落ちた。


*****

 戌亥坂水香。妻の名前です。私と水香は1年前に籍を入れました。元々同じ会社に勤めていて……いいえ、配属部署が違うので顔を合わせることはほとんどありませんでした。

 私と水香が出会ったのは会社の近所にあったダイビングスクールです。水香はそこで講師をしていて、私はダイビングを習う生徒でした。お互いに同じ会社に勤めていることを知ったのは、結婚を決めてからです。変わっている? そうでしょうか。

 結婚を機に会社を辞める、転職するということは考えていませんでした。共働きのほうが収入は安定しますし、水香は会社では担当のプロジェクトが佳境に入っていたんです。ただ、そのせいで彼女は域外のダイビングにいくことが難しくなっていた。だから、ゆくゆくは会社を辞めてダイビングの講師をしながらダイビングに出かけたいと話していました。わたしも彼女の夢に異論はなかったので、入籍後6カ月ほどで、彼女は会社を辞めることになりました。

 そのころ、ちょうど某社にて豪華客船クルーズのツアー募集が開始されました。立ち寄り先には彼女がダイビングしたいと夢見ていた海もあった。それが彼女にとっては転機になった。仕事を辞めてダイビングに生きる。水香は選択したんです。

 私、ですか。私は実は海が怖くて。意味が分からないですよね。ダイビングには興味がある。けれど、海は怖かったんです。足元の自由が効かない。何があってもすぐに逃げられない。未知の生物たちは私よりも俊敏に動き回る。そんな環境は想像しただけで怖かった。

 水香にはよく、人食いサメなんていないから、怖がることはない。踏み出してみれば私が見たかったものがあると言われていたんですが、そのときも足が竦んでツアーには参加できなかった。

 ツアーの後はどうなったのか? 不幸なことに水香の参加したツアーの船は座礁して多くの死者を出しました。半年前、ニュースになった海難事故があったでしょう。あれが、水香が参加したツアーだったんです。

 それでも、救助された人々の中に水香はいた。彼女は海難事故から1週間が経って、ここに戻ってきました。ただ、すべてが元通りとはいかなくて、水香は事故のショックで記憶に問題が生じていた。彼女は毎朝記憶を失って、ツアー当日の朝に戻ってしまうんです。私に海の良さを語り、荷物をまとめ出かけようとする。

 私がどんなに止めても、怖いことは何もないと、あの時と同じ顔をして出かけようとする。でも、出かけられないんです。彼女は玄関を開けると同時に意識を失って倒れてしまう。そのまま夜まで寝込んでしまう。

 医師に診せようとは思いましたが、水香は頑なに嫌がりました。だから、私はこの部屋を退去して別の町に越すことにしました。

 ただ、そこからは私の記憶がおかしいんです。退去の日、新たな家に着くまで、水香は私の隣にいた。それなのに、目覚めると家のどこにも水香はいない。海難事故の救出者リストに彼女の名前はなくて、新居にはツアー会社の方がやってきて、妻の、水香の死を告げている。まるで悪夢でした。だって、水香はあの時かえってきて。


 ええ。わかっています。皆さんが水香を、水香の形をしていたもの、蛭子というのでしたね。それを駆除してくれたおかげで、記憶は戻ってきましたから。水香は生きて戻ってこなかった。私は908号室に水香が戻ってきたあの日、安置所で彼女の遺体を確認したんです。

 黄色いビニールに包まれて、辛うじて人の形を保っていると言われました。上半身は残っているから、身元を確認してほしいと。

 水香は、確かにあの事故で命を落としていた。おかしかったのは私の記憶だったんです。

 新しい家に越してからはそうなんです。水香の姿がない代わりに、起きると寝室にあの遺体袋が転がっている。私は遺体袋の中を改めようとして意識を失うんです。

 夜になると遺体袋はなくなっていて、私は1人で夜を過ごします。でも、朝には前日のことを覚えていなくて、寝室の遺体袋と対面する。

 今日、卒塔婆さんが来た時と同じです。

 私は、新居に越してから3か月。毎朝同じことをしていたのです。こんな悪夢を見るのは、引っ越しをしたからだ。そう思って、明渡予定日より少し前にこの部屋に戻ってきた。それが3日前のことです。けれども、一度この部屋を出た後は水香が戻ってくることはなかった。

 それはそうですよね。水香はもうずっと前にいなくなっていたのだから。


 でも、私のこの記憶も明日の朝には消えてなくなっている。ああ、でも蛭子は駆除されてしまったのですよね。それじゃあ、明日の私は、水香と会うこともできないし、そのことを知っているのでしょうね。


 それでも朝は繰り返しやってくる。それを止める権利は私にはない。

 大丈夫ですよ。ここに人食いサメはいない。踏みだせば怖くない。妻がそう言っていましたから。

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