破袋

 戌亥坂大海はスーパーマーケットに立ち寄ったのち、まっすぐロジェ微睡床908号室へと戻っていった。

 尾行中に戌亥坂が鍵を持っている件につき管理会社に確認したが、合鍵を持っているのではないかという。契約時に渡した鍵は、管理会社に返却しているらしい。

 明渡前なのに鍵が返却されるのも奇妙な話だが、曰く、賃借人に不幸があっての転居で、5カ月前から決まっていたという。戌亥坂の方から、次の賃借人が決まらないなら家賃を払うので部屋をそのままにしておいてほしいと申し出があったのという。既に戌亥坂は908号室で暮らしておらず、明渡前の数日間、管理会社が鍵を渡し、業者が荷物を撤去する段取りになっている。

「後藤田さん。戌亥坂の家族のことって聴取できていませんよね」

 運転席でハンドルを握る後藤田は、暫し考え、頷いた。

「どうしてですか」

「窓井に検査結果が回ってきた時点で、戌亥坂は自分の家族構成について記憶していなかった。いや、それだと語弊があるな」

「“家族”という単語自体を忌避していたというのが正確だと思います。私たちも質問をしていますが、おそらく本人は尋ねられた事実すら認識できていない」

 後藤田の代わりにスピーカーから窓井四方の返答があった。後藤田の報告に反応を示さないから帰宅したかと思ったが、一応仕事はしているらしい。

「家族構成については聞き取れているの」

「本人曰く、両親は既に他界。姉と兄が一人ずついますが遠隔地に住んでいて交流はないそうです。戌亥坂の勤め先が持っている雇用情報も同じ」

「兄と姉は健在?」

「管理部から連絡を取ってみたら無事につながったようです。ご両名とも健在です」

 なら、管理会社の言う不幸とは誰のことだ。

「結婚相手、妻じゃないかな」

 後藤田はハンドルに手をかけフロントガラスからロジェ微睡床の上層を眺め呟いた。唐突な発想で、沙魚は考えが追いつかなかった。スピーカーの向こうの窓井も同様だろう。小さな声を上げて、そのまま返答が途切れた。

「後藤田さん、今なんて」

「だから、管理会社のいう不幸だよ。両親は当の昔に他界している。兄弟姉妹は健在。なら配偶者、妻がいたってことだろう」

「会社の雇用情報にはそんな人はいませんでした。聴取中も指輪はなかった」

「不幸があったなら結婚指輪を外していてもおかしくない。というか、既婚者でも指輪をつけていない人はいくらでもいるだろう。笹崎さんだってそうだ」

「え。知らなかったんですがそんな話」

 窓井が呆気にとられた声を上げた。沙魚も笹崎が既婚者だという話は初耳だ。

「必要ない情報だからな。俺だって聴いて驚いた。今年で結婚20周年だと思う」

 20周年。上司の意外な面をみた。

「お前たち、笹崎さんをなんだと思っているんだ。まあ、とにかく戌亥坂も表向き結婚を明かしていなかったんじゃないか」

「待ってくださいよ。後藤田さん。でも職場には通知しませんか。ほら控除とか」

「共働きなら優先度が低い。それに、戌亥坂の妻は会社の同僚だ。結婚に至る経緯によっては言い出しにくい関係かもしれない」

 後藤田が新情報を口にするが、追いつけない。

「窓井はともかく、沙魚も納得いかないという顔なのが解せないんだが」

「私はともかくって何ですか」

 後藤田は窓井の反論には耳を貸さない。彼女が他人に興味がないと知っているからだ。その代わり、後藤田は沙魚の、育てた後輩の反応を見ている。

「戌亥坂に妻がいたという想定はわかります。消去法で考えればそうなる。ですが、会社の同僚だったというのは」

「戌亥坂の記憶の齟齬だよ。経理部門に勤めていたのにプログラマーだと話していた。雇用履歴を照会したときに、気になってプログラマーの退職者リストも確認したんだ。戌亥坂が会社を辞める3か月前に退職したプログラマーに1名女性がいる」

「それが戌亥坂の妻?」

「おそらく。あの部屋も一人暮らしには少し広い。浴室の向かい側にも部屋があるのに、リビングにベッドを配置しているのも不思議だった。おそらく寝室なんだ。妻が死去したため使いたくなかった」

「流石に妄想が激しいと思います」

「そうか? 沙魚はあの蛭子をみて何も思わなかったか」

 蛭子? やはり話が見えない。後藤田は話を続けながら手元の装備を確認し始めた。沙魚は、蛭子の出現タイミングと、初めに訪問したときの戌亥坂が気がかりで908号室の再調査を考えていた。しかし、後藤田はその先を想定している。

 後藤田が仕留めた蛭子との関連性はわからないが、戌亥坂大海の帰宅に伴い908号室に蛭子が出現する。それが、後藤田が戌亥坂を尾行することに同意した理由だ

「あの袋、戌亥坂は寝袋と言っていたが、寝袋にしては質感が悪すぎる。あんな硬いビニールでは暖も取れないし眠れない。それに見覚えがあるんだ。あれは人の身体を入れて運ぶために作られた袋だ。但し、中の人間は生きていない」

「遺体袋ですか」

 後藤田は頷く。その結論は、沙魚も腑に落ちる。だが、一般市民の部屋に出現する蛭子が遺体袋の形を模しているというのは異様だ。

「あのデザインの袋は、ある海運会社がよく使っていてね」

 後藤田は回遊会に入社する前、海運業界にいたという。会社の具体名は出さないが、おそらく前職で見たことがあるのだろう。

 半年前、大規模な海難事故。世間のニュースに疎い沙魚でも思い当る。客船の沈没事故。航路を見誤り座礁したとされているが、実際には海上に生じた大規模な“波”に巻き込まれ、船内に大量の蛭子が漂着したことが原因の事故だ。

 沙魚にも後藤田が何を考えていたのか分かったような気がした。

「窓井。波の観測は続けているな」

「はい。まだ波は観測されていませんよ」

「そのまま観測を続けてほしい。何か変化があったら連絡を。それと、半年前にウチが関わった客船沈没事故の被害者遺族名簿を検索してくれ。おそらく、戌亥坂大海または戌亥坂性の女性がそのリストにいる」

「え? どうして」

 窓井には予想がつかない。窓井は後藤田の前職を知らないし、あの事故の直接の担当者ではなかったから。沙魚は違う。だから、後藤田は沙魚にはわかると言った。

「いいから。私と後藤田さんはこれから908号室に向かう」

「ちょっと待って卒塔婆ちゃん。まだ波は観測されていないし、戌亥坂に異常が生じた反応はない」

 それはおかしい。今度は後藤田の思考に追いついた。回収班は蛭子の改修と共に908号室の消毒を行っている。だが、後藤田が破壊した玄関ドアについては回収班では修繕ができない。あの部屋のドアは鍵がかからない状態なのだ。

 何も知らないまま帰った戌亥坂は部屋に滞在するのをためらう。回遊会に何らかの連絡があってもおかしくない。にも拘わらず、彼が部屋に戻ってから30分。一切のトラブルも起きていない。つまり、戌亥坂に現実とは異なる部屋が見えている。

 車を出たのと、沙魚の携帯電話が震えたのはほぼ同時だった。画面に表示されているのは戌亥坂大海が申告していた電話番号だ。

「もしもし? 戌亥坂さん」

「卒塔婆さんですか、名刺が崩れているんです。部屋に、袋が。あの袋がいる」

 切羽詰まった戌亥坂の声に、沙魚は後藤田と顔を見合わせた。


*****

 908号室の入口は、予想通り鍵が壊れていた。だが、どういうわけかノブを引いても扉が開かない。ドアを引こうとすると、何かが内側へドアを引く感触がある。戌亥坂からの電話は10秒も経たずに切れており、以降、何度かけてもつながらなかった。今朝とことなり窓が開いているとは限らない。

 沙魚が迷っているうちに、後藤田はドア横の窓ガラスにスピアガンの柄を打ち付けてガラスを割る。窓に取り付けられた格子をどうするのかと思ったら、適当に粘土を取り付けて数歩窓から後退した。

「耳を塞げ沙魚」

 躊躇なくスピアガンを粘土に打ち込み、格子の中心を爆発させる。破裂音は小さいから周囲の部屋に聞こえるほどではないのかもしれないが、相変わらず後藤田のやり方は荒っぽい。

 後藤田が壊れた格子と窓の間から身体を滑り込ませて中に入る。仕方なく沙魚も続いた。窓枠に残ったガラス片で身体やコートを傷つけそうだったが、運よく無傷で室内に入ることができた。

 玄関横の部屋はやはり寝室らしい。奥に二つベッドが並んでいる。シーツや布団はなく、金属のフレームとマットレスだけのベッドは、管理会社の説明に合致するし、ベッドの数はこの部屋の住人が複数人であったことを裏付ける。

 ベッド以外には収納用のクローゼットと化粧台があるが、どちらも使われている様子がない。化粧台の写真立てが気になったが、共同廊下の灯りだけでは確認ができなかった。

 後藤田は寝室の扉の横に構えて廊下の様子を伺っている。部屋に入るまでは気が付かなかったが、廊下では何か重たいものが壁に打ち付けられる鈍い音が響いている。それに、耳障りなノイズのような、おそらくシャワーの音が聞こえる。

 後藤田が指でこちらに合図を出す。3、2、1。使い慣れたカウントを終えて、後藤田は勢いよく扉を開き、廊下に躍り出た。沙魚も身を屈めこれを追う。

 扉の向こうに見えたのは、巨大な筒のような影だった。リビングの灯りを覆ってしまっている為、細部がわからない。だが、今朝908号室に突入したときと同じ刺激臭がした。眼前のものは、今朝のと同様に遺体袋を模した蛭子だ。頭部と思われる場所に銛を投げることを躊躇する必要はなかった。考えをまとめる間もなく、沙魚は遺体袋に向けて銛を放った。

 スピアガンは袋を打ちぬいたのだ。射出用の銛だって勢いが劣るにせよ、袋を貫通する。沙魚の読み通り、銛は遺体袋の頭部に刺さった。

 袋が身悶え、頭部を左右に振る。袋の重量に身体が引きずられそうになり、沙魚は寝室の壁に足をつけて力任せに銛を引く。勢いに負けて袋が仰け反りリビングの扉から離れるのを見計らい、後藤田が袋に向かって小さなルアー状のドローンを投げる。ドローンは後藤田の手首につけられた操作盤の指令に沿って袋の周りを囲むように回転し、その後ろにつけていたワイヤーを袋に巻き付ける。

 袋は、沙魚の銛と後藤田のワイヤーから逃れようと前後左右に身もだえるが、ワイヤーは身もだえるほどに袋に絡まり、ドローンが後藤田の背後、玄関ドアの方へと向かって飛ぶのに合わせて袋に食い込んでいく。


グゥーヴゥー


 すっかり聴きなれた音を立て、袋が抵抗を見せる。

「このまま引きちぎるぞ。沙魚」

 扉の向こう側、リビングにいる戌亥坂に執着しているのか、食い込んだワイヤーが身体を傷つけるのも構わずに、袋はリビングに向かおうとする。後藤田はその勢いを利用して、袋をバラバラにする算段だ。

 沙魚も後藤田の意図に沿って頭部に刺した銛を引く手を緩めない。袋がワイヤーの締め付けに耐え切れず、切れ目が入り始める

 今朝遭遇した蛭子と同じなら袋の中身は柔らかい。袋が切れてしまえばあっという間にばらばらになるはずだった。

「戌亥坂さん、回遊会の卒塔婆沙魚です。こちらで対処が終わるまでリビングから出ないで」

 寝室の入口を過ぎて、袋は更に玄関の方向へと引きずられていく。後藤田の操るドローンの駆動音が響く。ワイヤーでバラバラにするならドローンとは反対側に袋を引っ張る方が有効だ。沙魚は廊下にでて、袋に刺さった銛を持ち直し引き寄せる。袋が切れ始める前と違い、袋からの抵抗はほとんどない。沙魚とドローンに真逆に引っ張られ、袋はまもなくバラバラにちぎれようとしていた。

「サメは人を食べない。でも人はサメを食べる」

 ドローンの駆動音と浴室からの水音に混ざって、女の声が聞こえた。

「サメは怖くない。海も怖くない。本当に怖いのはヒト」

 声の主を探ってもそれらしい者はいない。袋が声をあげている? だが、袋の向こう側に立っているはずの後藤田が声に気付いている様子はなかった。

「大丈夫。海は怖くない。怖いのはヒト」

 声の主を探そうと後ずさりすると、靴がぴちゃりと水音を立てた。銛を引く力を弱めることなく、足元に目をやると数センチ程度、水が溜まっている。廊下に接していたはずの寝室の床は濡れていなかった。いつの間にこんなに水が?

 水。袋はリビングと玄関の間、ちょうど脱衣場と思われる位置にいる。脱衣場の奥、浴室と思われるところから洩れている白熱球の灯りが揺らぐ。

 袋以外に、何かがいる。

――卒塔婆ちゃん。聞こえていますか? その部屋で、波が

 インカムに窓井の声が届くが、返答前に途切れてしまう。

「怖いものは全部、呑みこんでくれるから大丈夫」

 今度ははっきりと、インカムから女性の声が聞こえる。


 破袋は一瞬だった。ワイヤーを引くルアードローンの駆動音が小さくなり、袋は抵抗をやめてバラバラになった。破袋の寸前、窓井からの通信があったが聞き取れず、後藤田は袋からあふれ出た水に押し流されて玄関の扉に叩きつけられた。およそ袋に入っていたとは思えない量の水は、瞬く間に廊下を埋め尽くし、後藤田の首元まで達する。口に入った水は塩辛く、海水のようだった。

「沙魚、大丈夫か」

 廊下の反対側にいるはずの後輩の名前を呼ぶも、返答はない。代わりにインカムを通して女性の笑い声が響く。玄関のドアノブにかけた右手は何かにからめとられ、後藤田はそのまま水中に引きずり込まれた。

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