侵襲
マンションにつくころには既に日は落ちて生ぬるい夜風が肌を撫でていた。ロジェ微睡床。9階建てのマンションは、正面に立つと暗闇から生えてきた高い壁のようで私の不安を煽った。共有廊下の窓から廊下を照らす蛍光灯の灯りが漏れ出しているおかげで建物自体は真っ暗ではない。それでも、部屋にあった袋のことを思い出すと薄気味が悪い。
玄関ホールに入り、郵便受けを確認しようとして手が止まった。908号室の郵便受けに貼ったネームプレートが、戌亥坂、その苗字が辛うじて読める程度まで掠れていた。これも付け直さなければならないな。郵便受けには何も書類はない。そういえば、今朝起きた時、リビングのテーブルには紙束が置かれていた。
昨晩の私が郵便受けから取り出したのではないだろうか。昨晩、私が部屋に戻った時、あの袋はそこにあったのだろうか。回遊会は、袋に怯える私を救ってくれはしたが、記憶の欠けた期間の私は何をしていたのかについて答えを示さなかった。
無理な求めだと思っているし、答えが示されないことに不満はない。ただ、エレベーターが9階に近づくにつれて、何も解決していないのではないか?という不安だけが膨らんでいく。
部屋の前に立ち、表札を確認する。朝と同じ『戌亥坂大海』という名前が掲げられている。朝は違和感のあった鍵も今は以前からこうであったという記憶がある。だが、その記憶が本当に自分自身のものなのか。その確信が私にはない。
玄関に入り、リビングへ進む。回遊会の職員が部屋を清掃してくれたため、土足で上がる必要性はない。窓井四方の言葉の通り、リビングはチリ一つ、蛭子の気配ひとつないほどに清掃されており、壁際の棚も、リビングに置かれた食卓テーブルも整然と並んでいる。なくなったのは袋が割った硝子テーブルくらいだ。
室内は静まり返っていて、朝のような刺激臭はない。11畳のリビングは1人で暮らすには少し広い。私は壁際のベッドに体を放り投げた。目を閉じて、深呼吸を繰り返す。慌ただしい一日だった。
テーブルに置いた食事を摂ってから休もうと思っていたが、瞼も身体も重くて身動きが取れなかった。少し眠ろう。目を閉じて、意識がおちるまで、ほとんど時間は必要ない。
*****
目を開くと灯りをつけていたはずの部屋が暗くなっていた。眠る前よりも身体が重たい。目にかかった前髪を払おうと右腕を動かすと、空気がまとわりつき、鉛のように腕が重たい。
まるで水の中にいるかのようだ。そう意識した途端、口の中に大量の水が流れ込む。吐き出そうにも水の勢いが強くて、あっという間に空気は吐き出され、私はおぼれた。肺の中に水が満たされる。身体の奥から朝の刺激臭がこみ上げてきて、激しい嘔吐感に襲われた。
ベッドから転がり落ち、胃の中のものを必死に吐き出す。とめどなく吐き出される海水は床に広がって、私の足元に海を創っていく。海面には親指ほどの大きさのビルや民家が浮かんでいて、アリのような人間たちが沈まないように必死に立ち泳ぎしているのが見える。彼らは頭上にいる私に助けを求めているが、私は胃の中の刺激臭を追い出すために、海水を吐き出し続けるしかない。彼らの上に海水が降り注ぎ、助けを求める声は私のうめき声にかき消される。
声をあげなくなった人々は沈み、または周囲の家やビルに流れ着き、その身体を投げ出している。あまりに小さいため、彼らがどのような風貌をしているのかわからない。広がっていく海の流れに乗って、親指に家がぶつかる。二階建ての民家。その屋根に仰向けに倒れた人間がいる。どういうわけか、その顔だけがはっきりと見える。
耳元で滝のながれる音がして、私は足元に広がっている海に飲み込まれていく。
自分の吐瀉物に呑まれていく、その不快感から、私は必死にもがき、水面に出た。部屋はすっかり海に呑まれており、壁も天井も存在しない。見渡す限り、あるのは海水と、沈みゆく街並みだけだ。海の中心には巨大な雨の柱のようなものがあり、ひっきりなしに空から海へ水を流し込んでいる。私の周りにも、何人もの漂流者が助けを求めている。ある者は神の名を叫び、ある者は自分の運命を悟り浮かび、ある者は周辺に浮かぶ建物に救いを求めて泳いでいる。誰もが共通しているのは、黄色い袋を被せられ顔が見えないことだ。
厚手のビニールで出来ている袋は、私以外の全ての人の頭を隠しており、彼らはみな海水で汚れたその袋のわずかな隙間から周囲の状況を確認し、呼吸をしている。
「鱶だ。鱶がいるぞ」
近くで男の声がした。鱶などどこにいるのか。辺りを見回しても、魚影はない。声に充てられて、周囲の人々にパニックが広がり始めるが、肝心の鱶がどこにいるのかは誰にもわからない。
――サメは人を襲わない。
慌てる人々のなかで誰かの声が聞こえた。聞き覚えのある声だったが声の主のことを思い出せない。見回しても、声の主は見つからない。皆、近くの建物に向かって泳いでいる。辺りで一番大きなマンションの上には、既に何人もの人影が昇っている。屋上の一室が安全だと、声を上げて周囲の人々を呼び集めている。
「鱶が来た。襲われる。みんな、逃げるんだ」
最初の男の声がして、近くを泳いでいた袋の人物が数人水中に引きずり込まれた。足元。自分の足元に何かがいる。その恐怖に、私は他の人々と同じようにマンションに向かって泳ぎ始めた。
遅いかもしれない、それでも足元にいる何かに襲われるのは勘弁だった。
――大丈夫。それはサメじゃない。ここに人食いなんていない
そんなことはない。だって、君は戻ってこなかったじゃないか。
足元の水が暗くなり、強い力で海中に吸い込まれる。私の身体は、他の袋人間と同じように、突然開いた海の中に落ちていく。水の壁が途切れたところには、汚れた黄色いビニールが見えた。
サメじゃない。けれど、それなら、あれは。
*****
身体が落下していくような感覚に引き戻され、私は目を覚ました。覚醒時に大きく息を吸い込んでしまったからか、心臓が高鳴っていて、視界がぼやける。何度も深呼吸を繰り返し、私はベッドから身体を起こした。部屋には明かりがついている。先ほどまでの光景は夢だった。
私は、回遊会の聴取を終えて部屋に戻ってきた。夕飯に買った弁当と惣菜をテーブルに置いたまま、疲れ切って眠ってしまったのだ。眠る直前の行動が思い出せるだけで、安心感があった。時計をみても帰ってきてから15分と経過していない。
まずは、食事を摂ろう。起きてから今まで、結局何も食べていない。そのせいで、余計に疲れが溜まっているのだ。立ち上がり、テーブルへ向かう。
そして、私はテーブルの上の光景に手を止めた。
夕飯に買ったのは、弁当と、牛肉のコロッケだ。どうせ今日はキッチンに立つ余裕などない。だから、そのままビニール袋に入れて机に放り投げていた。だが、卓上では白米が茶碗に盛られ、弁当に入っていた惣菜が更に盛り付けられている。牛肉のコロッケは別の皿に盛られており、皿に敷かれたキッチンペーパーが衣の油を吸ってシミを作っている。
眠っていた時間はほんの数分に過ぎない。玄関は鍵をかけていたし、部屋に戻ってきたとき、室内には誰もいなかったはずだ。
本当に?
耳を澄ませると、どこかで夢で聞こえた水の音が聞こえる。滝のように流れる水。リビングでもキッチンでもない。聞こえてくるのは玄関に向かう廊下側だ。廊下の先、水の音がするとすれば、浴室だろうか。帰宅時に物音はしなかった。
おそるおそるリビングと玄関を隔てる扉の前に立つ。朝は開いていた扉だが、さきほどは自分の意思で閉めた。玄関までの短い空間ではあるが、電気を消したあと暗闇が広がっているのが気になったのだ。だが、今はすりガラスの向こうにほんの少し灯りが見えている。廊下の灯りではない。灯りの位置からすればやはり、浴室だ。
浴室に誰か、いや、何かがいる。
緊張で呼吸が浅くなった。今朝遭遇した袋のことを思い出してしまう。浴室にまたアレが吊り下がっているのだろうか。足の裏が湿ったような感触がするのも、あの袋のことを思い出しているからか。水音は止まることなく続いている。今にもあの臭いが漂ってきそうに思えて、思考がまとまらない。足は既にびしょびしょに濡れて……濡れて?
扉の下から水が漏れ出してきている。部屋が海に変わっていく。先ほどの夢を思い出してめまいがした。違う、これは現実だ。誰かが浴室に居て、水を出し続けているせいで浴室から水が漏れているのだ。
朝から異常な光景を見てきたせいで、本当にこれが現実だと判断することができない。現実だとしたら、侵入者は何故テーブルの上の弁当を盛り付けたのだ。何故、浴室の水を流し続けているのだ。なにより、どうやってこの部屋に入ったのだ。
――名刺の裏。
回遊会の人々から渡された名刺のことを思い出した。確か、ポケットに入れたままだ。手を突っ込むと数枚の紙に手が触れた。そのまま掴み名刺の裏を確認する。
【ここが現実だ】
名刺の裏の文字は確かにそう書いてある。やはり、現実なのだ。なら、この部屋の異常は、あの袋によるものではない。
「サメはいないよ」
気を取り直して扉に手をかけたのと、声が聞こえたのはほぼ同時。耳元に響くような声に、私はノブを回すことをやめた。
「人を食べるサメなんていない。それは映画の観すぎなんだよ」
振り返ってもリビングに人影はない。扉のすりガラスにも変化がない。水音とリビングに染み出してくる水。それ以外、この部屋には誰も何もいない。
「ねえ。だから怖がらなくていいの。大海が思っているほど、海は怖くない」
そんなことはない。そうやって、結局君は。
君? 私は声の主に心当たりがある。解離性健忘。蛭子との遭遇で一時的に記憶が飛んでいる。生活が戻ればやがて思い出していく。医師や窓井の言葉を思い出す。
つまり、私は誰かのことを忘れている。欠けた記憶の先に誰かがいる。
「大丈夫。怖くない。だから」
扉に何かがぶつかり大きな音がする。擦りガラスの向こうの灯りが何かに覆い隠されて見えなくなった。代わりにガラスを覆うのは一面の黄色。
この色のことを私は知っている。水に混じって、あの臭いが流れてくる。
「大丈夫。大丈夫だから」
グゥー ヴゥー
扉の向こうから、あの声が聞こえてくる。どうして。後藤田と窓井は蛭子は駆除されたと言っていたじゃあないか。なんで、あの袋がそこにある。
袋は扉から少し離れると再び、扉にぶつかってくる。衝撃と共に扉が軋む。ガラスが黄色に塗り替えられる。それだけじゃない。今度は黄色の中に人の手形のようなものが見えた。薬指にはめた指輪がガラスにあたり、金属音を奏でる。
指輪? それは誰の手だ。
「違う。私はわるくない。それに、君は、私は止めたんだ」
まるで、扉の先に何がいるかわかっているかのように、私の口は弁明を吐いた。だが、行動と思考が合致しない。扉の向こうに何がいるのか、袋の中に何がいるのか、私は思い出せていない。
どうして袋がリビングに入ろうとしているのか、どうして食卓の弁当が食器に選り分けられているのか。蛭子。異界の漂流物とかいう化け物が何故この部屋に来るのか。私には何一つわからない。
そうだ。扉。この扉は廊下側に開く。それなら、扉が壊れるまでは耐えられる。ノブから手を放して後ろに下がった。手から滑り落ちた名刺が水上に落ちる。先ほどまで読めていたはずの文字が、ぐにゃぐにゃと崩れて見える。
扉の向こう側には、確かに化け物がいる。
電話だ。とにかく、まずは電話をすることだ。私は、携帯電話を取り出して、卒塔婆沙魚の名刺に書かれた番号を打ち込んだ。
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