齟齬

 聴き取りを終え、窓井から蛭子の話を聴いた私は憔悴して見えたのだろう。

 窓井と後藤田からは施設に一日宿泊しても構わないし、帰宅するにしても車を出すと申し出を受けた。けれども、部屋自体の整理は終わり、袋は片付いているといわれると、私は自宅に帰りゆっくりと眠りたいと口に出していた。

 聴き取りのときに自分のことを語っていた私の言葉と違って、これは本心だったと思う。今朝がたから908号室には良い思い出がないが、それでも自分の家で身体を休めたいと私は願っていた。


 ロジェ微睡床から回遊会までは車で30分ほどだったと思う。移動中、頻繁に停車していたことを踏まえるとそう遠くにいるわけでもない。徒歩でも二時間もかからず家路につけるだろう。私の見立てを告げると窓井が眉間にしわを寄せつつも頷いた。窓井の説明による、施設からロジェ微睡床までは5キロ程度らしい。それを聞いて、私は歩いて自宅まで戻ることを決心した。


 施設を出た時には18時を回っており、自宅までの道は夜に向けて薄暗くなっていった。街灯が点灯をはじめ、通行人にスーツ姿の人物が増えてくる。彼らは皆、一日の仕事を終えて帰宅の途に就こうとしている。スーパーマーケットには大勢の人が出入りし、今夜の食材や日用品を買い集めていた。

 そういえば、あの部屋の冷蔵庫には何が入っていただろうか。回遊会では食事を断ったので、冷蔵庫が空なら夕食はない。

 部屋から持ち出してきた鞄にはクレジットカードといくばくかの金銭が入っている。今夜の食事だけならなんとかなるだろう。


 スーパーマーケットは夕食時のタイムセール中だった。私は安売りの野菜や肉に群がる客に押されて、店の奥へ奥へと進んでいた。弁当と飲み物でも買って帰ろうと思っていたのに、気がつけば、鮮魚コーナーに追いやられている。

 鮮魚コーナーの魚は陸にあげられて相当程度時間が経過している。当然ながら目に光はなく、魚を物色する私たち客の姿を捉えることはない。

 本当に、彼らは私たちを見ていないのだろうか。ふとそんな考えがよぎり、背筋がざわついた。鮮魚コーナーに漂う匂いは、今朝の匂いとどこか似ている。

 蛭子。異界の波に乗って流れ着く漂流物。それは、この魚たちのように、水辺からやってきたのではないだろうか。だから、あの袋からは刺激臭と共に、海の生臭さが漂っていた。

 海。袋。崖。船。連想に吐き気を催し、私は、近くに見えた惣菜売場に向かって歩を進めた。揚げ物と弁当で済ませて、明日、改めて部屋の検分をしよう。

 袋のことを忘れるためには、私自身の生活を取り戻すのが重要に違いない。総菜売場で目についた惣菜をよく確認することなく手に取り、かごに入れた。牛肉のコロッケ、3つで150円。魚ではないことにほっとしたが、不意に目が涙で滲んだ。

 魚売り場の匂いで袋の刺激臭を思い出したのかもしれない。


*****

 助手席の後輩はいつも顔を隠しているフードをあげている。後藤田が彼女の顔をしっかりと見たのは実に2ヶ月ぶりくらいだろう。

 多くの人の帰宅時間にぶつかり、路肩に止めた後藤田の車の横を、大勢の通行人が通り抜ける。彼らの視線は、助手席に座った卒塔婆沙魚の顔を追う。特に悪いことをしているわけではないが、後藤田は自然と身を屈め、ハンドルを握る両手に力を籠めてしまう。

「大丈夫。後藤田先輩が何か犯罪に関わっているとは誰も思っていない」

 こちらの内心を見透かしたような沙魚の発言。沙魚なりのフォローなのだろうが、心ここにあらず、投げやりな口調のせいで、余計にいたたまれない。

「そんな心配はしていないよ」

 実際のところ、後藤田自身にも、フードを上げた沙魚と共にいる際のいたたまれなさの理由はわからない。ただ、彼女の隣にいることが何かの犯罪にあたる。そんな考えは今までよぎったことがない。

「ならよかった」

「よかった、のか? 俺の勘違いかもしれないが、かなりの人に見られているんじゃないか」

 沙魚の顔は目立つ。肩にかかるほどの長さにそろえられたアッシュグレーの髪。切れ長の目に筋の通った鼻、きつく結ばれた口元、細い輪郭。後藤田は世の女性評に疎いが、おそらく彼女の顔は美人と呼ばれる分類に属する。

 彼女自身、フードを上げているときに周囲の目を惹くことは承知のはずだ。何しろ、入社時、自らフード付きの制服を希望したくらいなのだから。それが、今日はどういうわけか積極的にフードをあげている。

「別に通行人は問題じゃない」

「それはそうだが……」

 合理的な選択だと言われればその通りだが、どうにもしっくりこない。それに、何よりも、口では問題ないと言いつつ、明らかに不機嫌なのは沙魚自身、見られるということにストレスを感じている証拠なのではないだろうか。

 もっとも、本人に尋ねれば、この場にいること自体のストレスだと剣呑な視線を投げられる。数分前までの窓井四方との会話を聴けば、後藤田もそれくらいはわかる。


「それで、尋ねられたから戌亥坂に蛭子のことを伝えた?」

 解離性健忘。戌亥坂の記憶の欠落に対して示された診断は、蛭子に遭遇した市民にはよく見られる現象であり、時間の経過と適切な治療でショックが和らげば欠落した記憶は戻ると言われている。

 だが、今回に限っては後藤田も窓井も医師の診断に引っかかるものがあった。何かを見落としている。その感覚は、窓井四方に戌亥坂大海に蛭子のことを教えるという選択を取らせた。

 沙魚が窓井の選択を知ったのは、戌亥坂が回遊会の施設を後にして20分後のことだ。後藤田は休憩室を横切った際に、沙魚が窓井を問い詰める風景に出くわした。

 教育係を務めた後輩が、同期社員に蛭子捕縛用の銛を突き付けている。あまりに物騒な光景に、後藤田は持っていた書類を床に落としそうになった。

 まったく、この二人は何をやっているんだ。

「戌亥坂さんから懇願されたんです。元はといえば、卒塔婆ちゃんが908号室で蛭子という言葉を使ったから、下手な興味を惹いたんじゃないですか」

「面談のログは見た。面談時、蛭子という言葉を先に使ったのは君の方だ」

「それは、事情の説明に当たって必要だった」

「必要ではない。少なくても、君はその言葉を使わなくても事情を説明できる。だから、観測班なのに聴取担当を任されている」

 沙魚の発言は正鵠を射ている。回遊会はその構成員に明確な職務分掌を与えている。観測班は波と蛭子の動向を観測するが、現場に出ることはないし、関係者聴取などでも別室からモニタリングするのが基本とされている。これは、回遊会が観測班に求めていることが波と蛭子の観測と解明であり、その他の能力を切り捨てた人員で構成されているからだ。だが、窓井はその中でも珍しく、事情を知らない第三者に対しても回遊会の対峙する現象について説明ができる。

「だからって、必ず蛭子という言葉を使わないで説明するのが最善手とは」

 窓井の発言に、沙魚の銛がほんの少し窓井の瞳へと近づいた。

「ボロが出たぞ」

 これ以上は流石に見ていられない。後藤田は二人の下に駆け寄った。


 後藤田の停車位置の斜向かいに位置するスーパーマーケットは、帰宅前の買い物客で混雑している。出入りする客の数が多く、注意を怠ると誰が入って誰が出たのかわからなくなる。戌亥坂大海が店内に入って約15分。早ければ既に店を出ている可能性もある。

「窓井。このスーパー、他に入口がないのは本当なんだよな」

 不安に駆られてスピーカーに声をかけるが、助手席からの視線が痛い。

「間違いありませんよ。正面の入口以外は従業員出入口しかありません。こちらの尾行に気づいた様子がないなら、従業員出入口から出ることはないと考えてよいと思います」

 物理的には入口が二つじゃないか……窓井の予測は概ね間違いない。だが、今、その予測を口にする窓井の神経に後藤田は胃が痛くなる。

「もし戌亥坂がスーパーの誰かと知り合いだったらどうするんだ」

 沙魚の問いはもはや言いがかりに近い。可能性のレベルならありうるが、回遊会は戌亥坂大海を疑っているわけではない。

「大丈夫ですよ。従業員出入口には監視カメラが付いていますからね。ほら、出てきたんじゃないですか?」

 ダッシュボードにつけたカメラが向きを変え、レンズがズームに切り替わる機械音が響く。カメラの向こう側で、窓井が戌亥坂を見つけたらしい。カメラの方向に目をやれば、確かに買い物袋を提げた戌亥坂大海がスーパーから出ていく姿が見えた。

「ほらね。問題ないでしょう。後藤田さん、卒塔婆ちゃん。そのまま追跡をお願いしますね」


「窓井の話も聞いてやってくれないか」

 沙魚と窓井の剣呑な雰囲気に割ってはいったとき、後藤田は自分の発言が沙魚の機嫌を損ねたことに気が付いた。

「むしろ、彼女が話したがらないのが問題だ」

 あくまで銛の標準を外さずに沙魚は後藤田に視線を向けた。その視線に耐えられなくて、窓井をみると彼女は彼女で左の口角を上げ目を細めて後藤田を見ていた。自分から面倒ごとに首を突っ込むのは信じられませんね。そんな言葉が聞こえてくる。

「まだ報告書も仕上がっていませんし、沙魚に担当を任せるかどうかも決まっていない。それなのに勝手に面談ログをみてやってくるのがいけないんです」

「戌亥坂の件は悠長に構えていていいものではない。時間が欲しいなら戌亥坂を家に帰すべきではなかった」

「現場の勘ですか。それ、ちゃんと笹崎主任に伝えました?」

「それとこれとは」

「関係ありますよ。あの人は今回直接蛭子と対峙していない。笹崎主任は卒塔婆ちゃんよりも経験豊富ですが、それでも直接遭遇していない案件は、データで判断するしかない。あなたが持った違和感が正しく伝わるとは限らないんです」

 今度は沙魚が黙る番だった。銛を向ける手が緩んだのをみて、窓井は柄に手をかけて沙魚の手を降ろさせた。そして、コートのポケットからインカムを取り出し沙魚に渡す。

「いいですよ。笹崎主任にも管理部にも私が話を通します。このまま後藤田さんに同行してください。後藤田さん、車の準備できているんでしょう」 

 急に話を振られ、後藤田はただ頷くしかなかった。だが、頷いた後に気が付く。もしかして、この状況で沙魚を連れていくのか?

「悠長にしていられないというのは、卒塔婆ちゃんと同意見です。特別に歩きがてら説明してあげますから、後藤田さんの指示に従ってください。卒塔婆ちゃんの中で状況が整理できたら私に話しかけてください。私も残業で気が立っているんです」

 

******

――診断の結果、出生や住所、現在の仕事に関するエピソードについては問題なく話せることがわかりました。対して、卒塔婆沙魚、後藤田強矢両名が対処した蛭子については一切記憶がなく、関連して二日前からの生活の記憶が抜け落ちている。

 戌亥坂大海はこの数日間、自分がどこで何をしていたのか全く覚えていない。蛭子が発生した部屋にいたという事実と合わせて、医師は解離性健忘の可能性が高いとの結論を出しました。いつもの通り、蛭子に遭遇した際の心理的負荷が記憶を一部欠落させたという論法です。

 したがって、発生場所の消毒が完了次第、身柄は解放。施設による継続的なカウンセリングを薦める以外のサポートは必要ないと判断されました。笹崎主任は医師のこの判断と、後藤田さんが蛭子を駆除した事実を基に、後藤田さんと私の戌亥坂大海への聴取で問題がなければ解放するという指針を立てました。


 ですが、私は笹崎主任の判断に少し疑問があった。

 1つ。波の観測から蛭子の漂流までの時間が短すぎる。経験則上、観測可能な波が現れてから蛭子の漂流までは最短でも4時間と言われています。原理は解明されていませんが、波の観測と蛭子の出現時間のラグがこれより短くなることはほぼない。ところが、ロジェ微睡床908号室には波の観測から2時間も経たないうちに蛭子が現れている。

 観測班の検知が遅れただけ? さすが卒塔婆ちゃんですね。目の付け所が正しい。でも、908号室で計測された残留反応からみても、今朝観測された波は908号室突入時において発生から3時間以上は経過していない。

 つまり、あの蛭子は漂流が早いイレギュラーだったか、今回の観測以前に既に漂流しなければ908号室に存在できない。

 確率だけなら、ほとんどのケースにおいて後者です。でもそうすると2つ目の疑問が出てくる。もし、蛭子が観測以前に908号室に漂流していたなら、戌亥坂大海は今日まであの蛭子と同居していたことになります。卒塔婆ちゃんが現着したときの様子からして、戌亥坂が数日間も同居できたとは思えない。

 ならば、蛭子がイレギュラーだった? それは結論が早すぎる。戌亥坂の症状は、むしろ蛭子が以前からあの部屋にいたという仮説を裏付ける。医師は生年月日や職場などの記憶は確かだと判断しましたが、戌亥坂の記憶は部分的に整合性がない。例えば、勤め先。確かに、申告された勤め先に戌亥坂大海の雇用暦はあるが、プログラマではなく経理業務を担当していた。しかも戌亥坂は3か月前に転居を理由に退職している。

 ロジェ微睡床908号室は確かに戌亥坂大海名義で借りられているが、管理会社曰く、今月末には明け渡すことになっていて、既に戌亥坂から管理会社に鍵の返却がなされていた。今日、あの部屋に戌亥坂大海がいたこと自体が不自然だ。

 戌亥坂の記憶は908号室、蛭子に関わる部分以外でもこうやって欠落し、別の記憶にすり替わっている。

 そして、もしそうなら、あの蛭子が袋の形をして、足元に破片状に擬態した自分の一部をばら撒いていたことも全く違う捉え方ができる。

 卒塔婆ちゃんも知っている通り、蛭子は漂着時、その形質と出現場所に関連性を持たない。でも、時間経過と共に起きる変化はそうじゃない。漂流自体に意図はなくとも、漂流後は意図をもって形質を変化させる。

 おそらく、蛭子は、戌亥坂大海の記憶を基に908号室で袋になったんです。あの形状には何らかの意図があった。


 確かめるのに最も手っ取り早いのは戌亥坂本人に聞くことです。あの蛭子は何なのかと。ですが、戌亥坂は蛭子のことを正しく認識できない。少なくても聴取で振り向けても、蛭子に関する有益な情報は出てこない。

 だから、戌亥坂大海には一度ロジェ微睡床908号室に帰ってもらう必要がある。記憶を取り戻してもらい、908号室で何が起こっているのかを確かめるためにね。

 さて、事情は話しました。どこで何が起きるかわかりませんからね、後藤田さんには予定通り戌亥坂大海の尾行を行ってもらいます。あとは卒塔婆ちゃんの現場の勘と、私の観測の間にどの程度齟齬があるのか、そのうえで、私のプランを止めるべきかどうか。後藤田さんの隣で考えてください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る