観察
蛭子との接触時、重要なのは蛭子と周辺状況の観察だ。異界の漂流物である蛭子は行動を読むことが難しい。可能な限り蛭子からの攻撃を回避しつつ、個体に関する情報を集めることで生存率を上げる。巡回員を始めたばかりのころ、先輩から何度も言い含められたことだ。
蛭子と遭遇するたび、沙魚はこの教えを思い出し、そして無理難題を話す先輩の憎らしい顔に怒りを覚える。
最も腹立たしいのは、彼の教えが決して間違ってはいないことだ。
*****
袋の半身を起こしほんの少し仰け反らせたかと思うと、蛭子はその身体を沙魚の方向へと突き出した。沙魚は咄嗟に狩猟刀の刀身を構え、蛭子の突撃を受け止めた。
勢いもさることながら重量がある初撃は、狩猟刀を折ることはなかったが、沙魚の身体を数歩後退させ、一撃で壁へと追い込んだ。次は後退する場がない以上、衝撃を逃す方法がない。
蛭子が再度身体を仰け反らせたのをみて、沙魚は横に飛びのいた。靴が足元の硝子を砕く。蛭子の身体が沙魚のいたはずの壁際に向けて突き出され、そして急角度で曲がった。
やはり、この袋の中身は、沙魚の位置を補足している。リビングの床すれすれに向かって凪ぐように振られた蛭子の身体は床に散らばったガラス片や陶器片を幾分か散らしたものの床に触れることなく動きを止めた。
沙魚が飛びのいた先は戌亥坂を運んだベッドの前だ。後退すれば戌亥坂にも累が及ぶ。それどころか次の一撃でさえ、戌亥坂の身体やベッドを破壊しないとも限らない。化け物と対峙する侵入者が自分の方へと飛びのいてきたことに驚いたのか、背後の戌亥坂の息が荒くなっている。蛭子の様子を観察できる時間は少ない。
この蛭子は音を使って周囲の様子を把握している。漂流時あるいはその直後に部屋を荒らし、足下に陶器や硝子の破片を撒いた。獲物は足下の破片で動けなくなるか、動いたとしても音が鳴るので見えなくても居所が掴める。
加えて、見た目から想像する以上に俊敏に動く。出方を見ながら戦っていてはこちらが負ける。
沙魚は、床につけた身体をずらし沙魚に標準を合わせ始めている。沙魚の周囲にはガラス片や陶器片がまだ大量に残っている。音がしない以上、動いていないと判断したのだろう。
数秒も経たないうちに突きが来る。沙魚は、蛭子が上体を持ち上げたのを見て蛭子へ駆け出し、その上部をめがけて狩猟刀を振るった。避けられることなく狩猟刀は袋の表面に当たる。ところが刃は袋を裂かずに表面を滑り、沙魚の左腕は蛭子にいなされた。
袋の表面についた液体が刃を滑らせる。そのことに思い至ったのは、袋の横をすり抜けてベッドと反対側、隣のマンションに面した壁へと走りこんだあとだった。ドンという音と共に、狩猟刀を振り抜いた位置の床に蛭子の身体が打ち付けられる。床は袋の形に凹み、袋には床に散乱したガラス片がいくつも突き刺さる。
起き上がる袋に動じた様子はない。刺さったはずのガラス片は溶け込むように吸収され、瞬く間に液体で汚れた袋に戻っていく。
袋も蛭子を形作る要素であり、意図して汚れた袋の形状を取っているのだろう。ガラス片を吸収するようだが、蛭子の表面の液体をなぞった狩猟刀には異常がない。
狩猟刀を構えなおし、身を屈める。破片を踏む音で位置が分かっても、音がしない変化にはついていけないはずだ。身を低くしたまま蛭子に向かって踏み出すと、予想通り、蛭子は半身を仰け反らせた。おそらく、蛭子は沙魚が初めに発した声の反響で背丈を判断している。相手の攻撃も一度はかわせるはずだ。
蛭子の突撃より低い姿勢から袋の中心を裂くように狩猟刀を突き出す。袋の中に刃が刺さる感触、そして、蛭子の突きに合わせて袋が裂かれる、はずだった。
蛭子は狩猟刀の刺さった途端、軌道を変えて袋の上部を床に叩きつけた。刃はほんの少し刃を裂いただけで終わり、床を引きずっていた下部のほうが浮き上がった。
気付いたときには、身体を強い衝撃が襲っていた。
*****
908号室の前に立ったと同時に、扉の向こうから重たいものが床に打ち付けられるような音がした。後藤田強矢はチャイムを鳴らすことなくドアノブに手をかけた。ノブを回して扉を押し引きしても動くことがない。扉の隙間を覗くと、ドアノブの上にデッドボルト式の鍵がかかっているのが見えた。
後始末はする。上司の言葉を思い出し、強矢は腰のポシェットから取り出した球を握り、中から染み出た粘土を扉に貼りつけた。
一歩下がり、ホルスターから取り出したスピアガンで扉を狙う。蛭子を仕留めるための道具にすぎず、鍵のかかった扉を開くほどの力はない。だが、回遊会が作ったスピアガンはとても頑丈だ。だから、こういうことができる。
スピアガンの引き金を引き、銛の切先を粘土を貼りつけたドアノブに衝突させる。衝撃が伝わり、粘土のついたドアノブが小さな破裂音と共に破損する。デッドボルトと扉の接続が切れたことで、908号室の扉のロック機能は無力化される。ノブを引けば扉が開く。
部屋に踏み込むと、締められたリビングの扉の向こうから大きな音が響いてきた。何か大きなものが壁あるいは床に打ち付けられるような音。沙魚が蛭子と交戦中との知らせを受けたが、どうにも酷い状況らしい。
様子を伺う暇もない。強矢はスピアガンを構えた。扉はこちら側に開かなければならない。都合が悪い。身体を蝶番の方へと寄せて、一気に扉を開く。開け放たれた窓から吹き抜ける風が、強矢を撫でる。
先ほど聴こえた音はない。代わりに「じゃらり」と気味の悪い音が鳴った。足元に目を向けると、リビングから廊下に向けて何かが広がった。
いる。
目視ではなく、経験で感じた。
「沙魚。後藤田だ。全力で避けろ」
スピアガンを構えてリビングに踏み込み、引き金を引く。視界に入ったそれが人間なのか蛭子なのかを確認する暇はない。ただ、そこにいた不審な影の頭部をスピアガンから放たれた銛が貫いた。同時にスピアガンのボタンを押し、銛に電流を流す。
スピアガンが打ち抜いた何かが硬直し、床に転がる。一見すると寝袋のように見えるそれは頭、あるいは足先がはいっている部位が吹き飛んでいる。裂かれた袋から赤黒いゼリーのようなものが溢れ始めているせいで、中身なのか判別ができない。
ゼリーが放つ刺激臭のせいで目が痛む。それだけじゃない。足元に散らばっている陶器片やガラス片も形が崩れて赤黒い液体を吐き出し始めていた。
「後藤田先輩。遅い」
振り返ると壁際で見慣れた緑のコートがしゃがみ込んでいた。彼女の足元では狩猟刀が大きなガラス片を突き刺している。そのガラス片も赤黒い液体を染み出させている。
おそらく部屋に入ったときの音は沙魚が壁に打ち付けられた音だろう。部屋中に散らばるガラス片が蛭子の一部だと考えた彼女は打ち付けられた先でガラス片の一枚に狩猟刀を突き立てた。もしかすると、部屋に踏み込んだときにはガラス片へのダメージで袋の動きは鈍っていたのかもしれない。
なんにせよ、声の感じからすると後輩は無事らしい。
ベッドの側には毛布を掴んで震えている住人がいる。
「その人は戌亥坂大海さん。保護の対象」
なるほど。見たところ怪我はなさそうだ。1人で対処したにはよくやった。
「大丈夫ですか。私は巡回員の後藤田強矢といいます。部屋の清掃とこれの始末は私たち回遊会の費用と責任で処理いたしますので、戌亥坂さんは私と共に一度部屋の外へ出ましょう。ここはどうにも臭くてたまらない」
回収班もこの光景には顔をしかめるに違いない。
*****
回遊会の巡回員と名乗る男女が部屋に踏み込んできて、袋は処理された。
私は後藤田強矢と名乗る男にマンションの外へと連れ出された。
マンション前のロータリーにはパトカーが一台と、緑色のバンが三台駐車しており、回遊会のコートを来た人間が何人も辺りをうろついていた。
全てにおいて現実味がない。マンション前のロータリーも、私には見覚えがなかった。部屋を出てからここに至るまで、共有廊下も騒ぎを聞きつけて顔を出した住人にも見覚えがない。
ロジェ微睡床。マンションの名前を意識したのは初めてだ。
戸惑う私を置いたまま、状況は変化する。私は後藤田にバンの後部へ連れられて行く。開いたトランクからは救急車のようにベッドと医療器具らしきものが見えた。
「卒塔婆が来るまでに袋に触れたり、何か怪我をしたところはありませんか」
私は何も答えず首を横に振った。怪我はない。袋に触れたことは話したくない。
「そうですか。念のため簡易的な検査をしましょう」
後藤田は私の反応に疑問を持たなかったのか、事務的に対応を進めてくれる。検査を進めていると、卒塔婆と共に部屋に訪れた笹崎案がやってきて身を案じてくれた。後藤田も笹崎も、あの部屋にあった袋のことを尋ねたいだろうに、二人ともそのことには決して話題にしない。
「部屋の清掃にもうしばらく時間がかかります。ただ、このまま私たちがここに出しゃばっていると目を惹いてしまう。戌亥坂さんも疲れているでしょうから、少し私たちの施設にて休憩を取りませんか」
笹崎の提案の通り、マンションの住人たちは建物に出入りしている回遊会のコートを物珍しそうに見ている。警官とまでは行かないがコートにバン、すべての物を緑で統一しているために目立つのだ。
あまりここには居たくない。私は笹崎の提案に頷いた。
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