接触
包丁を手放した手に毛布を渡してやると、戌亥坂大海は毛布を引き寄せ身を護るかのように自分の下に引き寄せた。身体は震えているが、瞳からは部屋に侵入したときに比べて怯えが消えている。
不法侵入者とはいえ、室内に他人が現れたことで意識が逸れたのだろう。持続してもせいぜい数分。すぐにこの異常な状況に慣れ、再びアレに対する恐怖と、どこからか侵入してきた沙魚への不信感に苛まれるだろう。
念のため包丁は手放させたが、ベッドの周りには大きめの陶器の破片や重そうな辞書など、凶器になりうるものが多々残っている。彼女に背を向けていられる時間はそう長くない。
だが、部屋の中心に陣取ったこいつはなんだ。
908号室のリビングの天井には他の部屋と違いシーリングファンが取り付けられている。そのシーリングファンの中央部、回転軸の部分に巻きつけられた白い縄。縄は真下の黄色い巨大な袋の上部に巻き付けられ、袋を固定している。問題はこの袋だ。大きさは概ね170センチから180センチ。
見た目は寝袋に近い。だが見る限り、ビニールが固く寝心地がよいとは思えない。どぎつい黄色の表面は薄汚れた液体で汚れており袋を中心に部屋に穢れがまき散らされている。
どちらかといえば遺体を運ぶために用意された袋という印象が強い。
グゥー ヴゥー
唸り声のような音と共に袋の端々から液体が染み出る。袋の中に何かが詰まっていて外の様子を伺っている。袋の外に出たいと動いている。だから、袋から音がする。
そんな想像がかき立てられる。しかし、音がする、液体がしたたる以外に袋が動きを見せることはない。シーリングファンに吊り下がりゆっくりと回転するだけだ。
ならば、特に悪いモノではない、例えば発酵に失敗して腐ってしまった干物のなりそこないのようなものだろうか。シーリングファンに吊り下がって回転しているのは、乾燥させるため。だからこそこの袋は動かない。
戌亥坂の怯えた様子や、名刺の裏側の文字が読めないところを見ると、この希望は通りそうにない。それに、この部屋は沙魚が侵入する以前から酷く荒れている。床中に散らばる陶器や硝子の破片。リビングの壁際にある棚や机は平静を保っているが、袋の後ろには、何か重たいもので叩き割られた硝子テーブルの残骸があるし、本棚や机もよく見ると赤黒い液体で汚れている。それらの汚れは、いずれもシーリングファンから放射状に伸びている。
まるで意味が分からない。日々、回遊会の仕事として、こうしたモノを見慣れている沙魚ですら、この袋には近づきがたい。
それでも、袋の目的を知るためには近づき検分するしかない。まずはシーリングファンに絡まった縄を切り落とし、袋を床に落とすところからだろう。手早く正体を確かめて、処理を済ませてしまわなければ、戌亥坂がもたない。
銛と反対側の腰につけた狩猟刀を手に取る。戌亥坂が息を呑む音が聞こえる。刃渡り21センチ、鉈状のそれは街中で持ち歩く必要がない。侵入者が狩猟刀を構える姿に怯えるのは戌亥坂が正常である証ともいえる。
沙魚は袋に近づき、躊躇うことなく狩猟刀で縄を切断する。縄の結び目が一つ切れると、袋は自重に耐え切れず床へと近づいていく。更にもう一か所、結び目を切断したところで、ごとりと音を立てて壊れた硝子テーブルの方へと倒れこんだ。
続けて袋の中身を改めようと一歩近づくと、突然袋が横に転がった。
グゥー ヴゥー グゥー ヴゥー
先ほどまでと少し違うトーンの音が響く。
「なんだ、起きてるんじゃないか。寝たふりをするなんて趣味が悪いゑびすだな」
ゑびす。沙魚の言葉に反応し、袋の上部、縄で縛られていた側だけが立ち上がった。戌井坂が引き攣った声を上げる。
ヴゥー ヴゥー
先ほどまでとは違い、音は立ち上がった袋の先端から発せられている。袋の中に入っているせいでうまく動けないのか、持ち上げた上半身を何度も左右に揺らし、袋はゆっくりと沙魚たちの方にその向きを変えつつあった。
これでほぼ波の発生源が908号室、目の前の袋の中身であるとほぼ確定した。
「戌亥坂さん、もう少しだけ我慢していてください。叫び声は上げない、ベッドから下りない。守るべきはその二つだけです」
立ち位置を変えながら戌亥坂に声をかける。視界の端で戌亥坂が頷いているのがみえる。そして、袋は沙魚の靴が硝子を踏む音と、彼女の声に合わせてその頭部を動かしている。
部屋中に物が散乱しているのも、おそらくこのためだろう。こいつは音で外の状況を把握しているのだ。初めからこの部屋は狩り場として整えられていた。もしかすると、戌亥坂大海すら、撒き餌だった可能性すらある。
「誰から教わったんだ。手際がいいじゃないか」
だが、相手が悪い。
株式会社回遊会 巡回員 卒塔婆沙魚は、ゑびす狩りのプロなのだから。
*****
海岸部の集落には、寄り神信仰というものがある。海から流れ着く漂流物が集落に恵みを与えるという考え方だ。
例えば、海岸線上に鯨が現れると、その年は豊漁になる。流れ着いた遺物が吉報を呼ぶといった話は探せば数多く聞くことができる。これらの話のどれだけが真実だったのかは定かではないが、海に生きる者にとって、海流や生態系、環境の変化を示す兆候だったのであろう。そして、海の向こう側との情報交換が不確かだった時代においては、兆候そのものが信仰の対象とされ、漂流物そのものが御神体となった。
寄神信仰を持つ集落のなかでは、漂流物を「ゑびす」と呼び福の神として祀った地域もあるのだという。
ところで、現実において、漂流物が流れ着くのは海からとは限らない。気流に乗って流れ着くもの、人の往来によって流れ着くもの。そして、現実とは異なる場所から流れ着くもの。
漂流物は、私たちの生活に益をなすもの、あるいは害をなすもある。すべての漂流物において共通するのは、漂着先の環境を変化させるということだ。
もちろん、単体ではさしたる変化は起こらないこともある。だが、劇的な変化を起こし、現実を歪めてしまうこともある。
株式会社回遊会は、漂流物による環境の変化を制御することを理念としている。異界からの波に乗り現れる漂流物、蛭子(ゑびす)の探知・捕縛を目的として設立された企業であり、巡回員は蛭子捕縛の実働部隊である。
*****
「このコートは近所の人が持ってきて、まあ質の良いコートだから高めで買い取ってもいいかなと思って買ったんです」
リサイクルショップの店員は、流れるように仕入れの経緯を話してくれるが、彼が
笹崎の目を見ることはない。何か他の資料を確認しながら話してくれるというのであればおかしな話ではないが、彼の視線は、終始、笹崎以外の客がいない店内を彷徨っている。
嘘をついている。笹崎の身分を聞いて、カウンターに置かれたコートが回遊会のコートである可能性に気づき、慌てているのだろう。笹崎や沙魚が身に着けているこれは社の制服であり、社員にのみ貸与されている。
社外、リサイクルショップなどで売られることは社として問題視しており、過去に警察に協力を要請し、流通経路について調査を依頼した来歴がある。回遊会側からの要請も強かったため、警察はかなり“力を入れた”調査を行ったらしく、古物商界隈では話題になったらしい。
原則的に商品が流れ着いたリサイクルショップに非はないのだが、調査過程でいくつか故買屋が見つかり摘発されたとも聞く。この店員も“自警団 回遊会”の噂を思い出したのだろう。壁を登っている沙魚の姿から目を逸らしたい、今のような状況では便利だが、どことなく釈然としない。
「その回遊会さんが引き取りたいというのであれば、そこはお譲り……いやお返しいたしますよ。でもお返しだと代金はいただけないのかな……ああ、それはちょっと」
怯えられるとこちらが悪いように思えてくる。それに、店員は店に並べた商品と笹崎のコートが同じものだと思っているようだが実際には全く違う。回遊会のコートと見た目を似せた模倣品に過ぎない。
これに関していえば、回収する必要がない。
どうやって場を収めようか思案していると、左耳につけたイヤフォンマイクが雑音を捉えた。電波を拾うために店先にでると、雑音が消えのんびりとした声がする。
「あーあー。ロジェ微睡床の対応にあたっている巡回員の皆さま聞こえていますか? こちら観測班、窓井四方(マドイ‐ヨモ)。観測班、窓井四方です。聞こえていたら応答をお願いします」
「笹崎だ。何かあったか」
「あ、笹崎主任。ご機嫌麗しゅう。本当は卒塔婆ちゃんと話したかったんですが」
なら沙魚の名前を呼べばよい。このオペレーターは話したい相手の名前を絶対に呼ばない。ロジェの外壁を見上げるが彼女らしき姿はない。無事に908号室にたどり着いたらしい。
「笹崎主任は卒塔婆ちゃんと別行動中ですよね。卒塔婆ちゃんのこと、ちゃんと追いかけていますか?」
「何が言いたい。沙魚は波の発生個所の調査中だ」
「あーじゃあ座標の情報に間違いはないんですね。笹崎主任以外の巡回員も聞いてください。巡回員、卒塔婆沙魚。ロジェ微睡床上層階付近……どこにいるの?」
「908号室に入ったはずだ」
「908号室、908号室にて波の発生原因を特定。蛭子と交戦状態に入りました。発生個所が一般人の居室であることから、室内には卒塔婆以外にも住人がいる可能性があります。付近の巡回員は速やかにサポートに入ってください。どうぞ」
「蛭子だって?」
波。回遊会が独自に観測しているそれは、現実とは異なる領域、異界と呼ぶべき場所から現実への干渉を示す現象だ。波が観測された場所では、遅かれ早かれ異界からの漂流物、蛭子が現れる。海辺に暮らす人々には福の神と崇められたその用語は、回遊会においては、現実に干渉する異物、多くの場合、人間に害をなすモノを指す。
笹崎は腕時計の時間を確認した。波が観測されてから2時間弱。908号室を訪問してから30分。波が蛭子を連れてくる時間には幅があるが、それにしても早い。経験上発生から4,5時間は蛭子が観測されることはない。
それに、笹崎たちが訪問した時、住人である戌亥坂大海は波の影響で精神に支障をきたし始めていたが、それでもパニックには陥っていなかった。あの時点で、部屋に交戦状態になるような蛭子が存在したとは思えない。
「こちら笹崎。窓井。沙魚からの連絡はないんだな」
「ありません。というか連絡できないんだと思います。交戦信号が入った直後にイヤフォンの電源が切れたので、電波が遮断されたか卒塔婆ちゃんが電源を切ったんじゃないかな。そういう手合いってことですね」
これだから観測班は。波や蛭子の発生は探知できるのに肝心の蛭子の情報や戦況となるとぼんやりしている。結局、いつも走り回るのは巡回員の笹崎たちなのだ。
「ほかに誰か現着した巡回員はいるか?」
共同入口に回って9階まで上る。908号室に到着するまで何分かかるだろうか。沙魚は巡回員のなかでも経験豊富だが、部屋の住人を保護しながら無事でいられるかは、蛭子の出方にもよる。今更ながら沙魚を独りで行かせたことを後悔する。
「こちら後藤田(ゴトウダ)。鹿場(シカバ)と共に到着。鹿場が入口付近にいた巡査の対応をしています」
通信に割り込んできた若い男。巡回員の一人、後藤田強矢(ゴドウダ‐ツヤ)。卒塔婆の一期先輩だ。
「後藤田。今どこにいる」
「5階の踊り場を過ぎたところです。なんでエレベーターは止まってるんですか」
階段を駆け上がっているらしいが、後藤田の声に乱れはない。頼りになる部下だ。
「終わったら管理会社に文句つけておくよ。急いで登ってくれ。908号室は階段を上がってすぐだ」
「笹崎さんは何処にいるんですか」
「マンション裏のリサイクルショップで模倣品売りを詰めているところさ」
「なんでそんなことしてる……って、沙魚は何処からその部屋に入ったんですか?」
後藤田は沙魚の教育係だ。彼女が何をしたか察しがついたのだろう。声のトーンが変わった。
「窓からだよ。908号室の住人は怯えていて警戒心が強い。玄関は施錠されたままかもしれないが、なんとか入ってくれ。後始末は私がする。こちらはこちらでサポートの準備を始める」
「なんとかって。了解。反省会は俺も出ます」
最後の言葉は沙魚の無謀ぶりに対する怒りか、笹崎の監督不行き届きを咎める声か。いずれにしても語調が強い。
「反省会ができるよう、さっさと追いついてくれ」
相手は地上30メートル近い場所にいる。今この瞬間、笹崎ができることは沙魚と戌亥坂の無事と後藤田の一秒でも早い現着を祈ることだけだ。
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