確認
下を見ると地面が遠い。ここから飛び降りるとただでは済まないだろう。608号室の窓につけられた柵に掴まり、卒塔婆沙魚は途方に暮れた。
7階以降の窓枠には、柵がついていない。柵を踏むか、柵を掴まないと流石に力が入らない。見上げた時に確認しなかった自分の不手際ではあるが困りものだ。これでは908の窓枠までたどり着けない。
窓を叩いて住人に窓を開けてもらえれば先に進めるかもしれないが、都合の悪いことに608も708も空き室だ。窓の外で声を上げても808まで届く保証はない。
6階まで上るだけで時間を使っている。戌亥坂の様子からみて一度降りて別の方法を考えているうちに何か良くないことが起きる。
そもそも、他の方法が取れるなら壁に上らず笹崎と警官を説得していたのだ。
周囲を見渡してもロジェ微睡床の外壁に利用できそうなものはない。7階以降にも排気口のフードはついているが、経験上、フードは沙魚の体重を支えることができない。利用できるとすれば隣のマンションのベランダだろうか。ロジェ微睡床の隣にたつマンションは12階建で各階にベランダがある。隣のベランダを伝って上層階に上り、ロジェ微睡床の屋上に降りれば、屋上から908の窓に降りられる。
だが、ベランダを伝い上層階へ上るのは、ロジェ微睡床のように平面に所々、柵が取り付けられた外壁とは勝手が違う。ベランダの上には当然上階のベランダの床が存在していて、各階の柵を蹴り上げるだけで上層階の柵に到達できるとは限らない。ひとたび失敗すれば6階下のコンクリートとお見合いをすることになる。
それにベランダまで到達すること自体も難しい。柵を力いっぱい蹴って飛んだとして、ベランダの5メートルほど手前で沙魚の身体は落下するだろう。落ちる前に壁を蹴って距離を稼ぐにしても限界はある。
ここは道具に頼ろう。腰につけた銛を取り出し右手に構える。本来の用途とは異なるため、笹崎には厭味を言われるだろうが仕方がない。
銛の先端は本体についている発射機構で数メートル先に飛んでいく構造になっている。先端と本体は丈夫なチェーンで繋がっており、沙魚の全体重をかけた程度で壊れることはない。銛をマンションの壁面に打ち付ければ、そこを起点に沙魚の身体は空中に留まるはずだ。6階から6階に飛び移ることはできずとも、5階のベランダにはたどり着ける。あとは銛と壁を伝って上階のベランダにあがり、銛を上階の壁に向かって発射する。これを繰り返していけば9階まで上ることができるはずだ。
608の外柵に両足を乗せて立ち上がる。銛は右手に少しだけ身を屈める。
1、2、3。
タイミングを見計らい、外柵を蹴る。金属が揺れる音が沙魚を背後から追い抜いていく。宙に浮いた以上、止まることはできない。落下に合わせて一度ロジェの外壁を蹴り飛ばす。身体は微睡床の外壁から離れるが、幾分か隣のマンションに近づく。
銛を突き出し、先端をマンションのベランダに向けて発射する。予定通り、6階のベランダ横の壁面を先端が射抜き、銛本体を掴んだ沙魚の身体は振り子のように5階のベランダへ向かっていく。
思ったより勢いがついていてベランダ内に転がり出かねない。眼前に近づくマンションの壁を何度か蹴り、勢いを殺してベランダの柵に足をかけた。
激しい音に、マンションの住人がベランダに近づいてくる。住民への状況の説明は難しい。客観的に見れば不法侵入者だ。顔を合わせる前にさっさと上ろう。
5階のベランダから足早に飛び出し、銛を頼りに上階へと飛び上がった。
*****
昔から魚肉ソーセージのビニールを剥くのが苦手だ。両端の金属部分に挟まれている剥き口を掴み引き下ろすだけでビニールは剥ける。けれども、実際には金属部分に挟まった剥き口を掴むことができない。結局、先端を切り落とすか無理矢理剥がそうとしてソーセージを折る羽目になる。
もしかすると、正しい剥き方なのかもしれないが、どうしても剥くたびに失敗したという意識が拭えない。いつの間にか魚肉ソーセージ自体が嫌いになった。
眼前の袋のチャックもまた、魚肉ソーセージのビニールと同じように剥けない。冷たい感触とまとわりつく臭い、想像される中身への不安、色々な要素が影響して身体が震えて手が上手く動かない。加えて、チャックの間に何かが噛んでいてほんの数センチ下げるだけで止まってしまう。その度に私の体重が袋にかかり、シーリングファンが軋み、袋が揺れる。
もし重さに耐えきれずシーリングファンが落ちたなら、私はこの袋と床に這いつくばることになるだろう。揺れる度に液体が滴り落ちる音がする。努めて足元は見ないようにしているが、音が、噛むチャックが、袋の中身を想起させる。
この段階に来てもなお、部屋に袋が吊されている理由は思い出せない。自分の名前すら表札を見るまで出てこなかったのだ。きっと中を見るまでわからないのだろう。それなのに、どういうわけか中身については確信がある。言葉にはできないが、その確信が私の身体を震わせている。
袋の中身を言葉にしたり、明確な思考にすれば二度と開くことはできないだろう。何を考えるべきなのかもわからない。私はただ、噛むチャックを上げ下ろしする機械人形のようになっている。
全てが悪循環だ。これでは何も進まず、やがて私はこの袋と床に倒れこみ袋の中身のようになっていくのだろう。それならいっそ、ソーセージと同じように袋の下を破いてしまえばいい。
チャックがあるからチャックを開けなければいけない道理はない。
とても良い思いつきだ。私はチャックから手を放し椅子を下りた。軍手を介して伝わっていた袋の冷気から解放され、指先に血が巡り温まっていく。袋を破る方法なら、直接触ることも少ないから、こんな目に遭う必要もない。
キッチン戸棚には何本もの包丁が刺さっている。一番大きな包丁を取って、袋へ戻る。袋の下部からは汚れた液体が垂れているが、どこまで中身が詰まっているのだろうか。例えば、袋の下10センチのところを切る分には問題がないのか。袋に切れ目を入れた途端、自重で袋から中身が漏れ出てくるだろうか。いや、袋は吊るされているのだ。中身だけが漏れ出てくることはないだろう。
左手でぬれた袋の端を持ち横に伸ばす。ぬるりとしていて気味が悪い。とにかく早く済ませてしまうべきだ。右手に持った包丁の刃を袋にあてる。刃を押し込もうとしても吊り下がっているせいで袋が揺れて滑ってしまう。二度ほど失敗し、突き立てるのではなく、袋をの表面に刃をあてて割いていく方が確実だと気付いた。袋の表面を包丁で撫でるようにして切れ込みを入れる。
何回か包丁を当てていくと、ビニールの被膜に切れ目が入った。
グゥー ヴゥー
袋の中からしばらく聞こえてこなかった声が聞こえて、私は袋から飛びのいた。包丁が手から滑り落ち、フローリングの上で金属音を響かせた。自分の心臓の音が耳に響く。部屋の隅にへたり込み、私はシーリングファンに吊り下がる袋を見上げた。下から見上げているせいで、今までより袋が大きくなったようにみえる。
シーリングファンは起きてから今まで変わることなくゆっくりと回転を続けており、袋も変わらず回転している。包丁の傷が少しずつ私の視界から外れていく。
それ以外は何の変化もないし、例の声もしない。
私の行為を咎めたのだ。傷をつけるな、触れるなと、袋の中の何かが訴えている。
ならば、私はこの袋が何であるかわからないまま、混乱を抑える方法もないまま、ただここで怯えていろというのだろうか。なんでそんな目に遭わなければならない。
異常なのはどう考えても袋の方だというのに。
中身を傷つけないようになどと考えているからダメなのだ。私は震える両脚を引きずり、落とした包丁の方へ這っていった。軍手を脱ぎ、包丁の柄を握る。まずは袋にこれを突き立てる。そして一気に引き下ろす。それでこの状況は変わる。
何度か叩くと脚の震えは収まった。リビングの壁を支えに身体を起こして、袋に向き直る。腰のあたりに包丁を構え、その切先を袋に向ける。
グゥー ヴゥー
また声がする。やはり、この袋は私の行為を咎めている。包丁で中身を傷つけられるのを嫌がっている。だからなんだというのだ。中身を改める。それの何がいけない。
「私は何も悪くない。何も悪くない。何も悪くない」
もう、限界だ。私は袋に向けて大きく一歩を踏み出した。
視界の端に誰かが現れ、私の腕を強い力で抑えたのはそのときだった。
「戌亥坂さん、やめておいた方がいい」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、私は、腕を掴んだ人物をみた。私を掴む手は細く、白い。手首から先は、緑色のコートに隠れている。彼女はフードで顔を隠していて、表情は見えない。
だが、私を掴む力は強く、私を袋の方へと近づかせまいとする意志があった。
「玄関から入れてもらえないと思って、強引な手を使って正解でした。覚えていますか? 回遊会の卒塔婆沙魚です」
彼女の後ろに明け放った窓が目に入った。ここは何階だっただろうか。
「袋の中身は確認しなくていい。それより、お渡しした名刺持っています?」
卒塔婆は、自分が部屋にいることも、部屋の中に袋が吊り下がっていることも無視して名刺の話を始めた。何がなんだかわからない。
「戌亥坂さん落ち着いて。名刺です。思い出せないならもう一枚差し上げましょう」
私の手を掴んでいるのと反対の手で彼女は私の前に名刺を差し出した。「株式会社回遊会 巡回員 卒塔婆沙魚」。名刺に書かれた名前は確かに玄関でもらったものと同じだ。
「確認してほしいのは私の名前ではなくて裏側だ。戌亥坂さん、この名刺の裏、なんて書いてあるか読めますか?」
「これ、文字なんですか」
グネグネとした線が絡まっている悪戯書きにしか見えない。文房具屋のペンの試し書きコーナーで見かける落書きのようだ。
「なるほど。これで確認は取れたから理由はできた」
確認? 疑問を口にする前に、卒塔婆は私の腰に腕を回し、両足を払った。バランスを崩し倒れこむ私を腕の力で押さえこみ、抱え上げる。
「暴れないで、包丁が落ちたらあなたが怪我をする」
行動は理解できないが、相変わらず、彼女の声は優しい。卒塔婆はそのまま私をベッドまで連れて行き寝かせる。
「包丁は手放してくれるとありがたい。あれのことは私に任せるといい。貴方は何も悪くない。ただ、ほんの少し夢と現実が混ざり合っているだけだ」
彼女は私の耳元に顔を近づけ囁いた。彼女の行為がむずがゆかったが、どういうわけか袋に怯えて高鳴っていた鼓動が収まっていく。言われた通り彼女に包丁を渡し、ベッドの上で小さく丸まった。
「それでいい。ほんの数分、そうしていてほしい」
卒塔婆の願いに、私は小さくうなずいた。
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