調査
ロジェ微睡床(‐マドロミドコ)908号室を後にして、笹崎案と卒塔婆沙魚はマンションの階段を降り始めた。908号室の確認を持って、ロジェ微睡床の全室訪問は終了となるが、肝心の波の出所はわからない。
「さて、どう思いますか、沙魚さん」
6階を過ぎたころ合いで、笹崎は後ろを歩く沙魚に見立てを尋ねることにした。沙魚は立ち止まり階段の上方を見上げる。
「908で当たりだろう」
いつも通り答えだけの返答。だが、それだけで彼女の意図を理解できるのは笹崎の他数人、彼女に近しい同僚と上司だけだ。これでは今回の案件は解決できない。
「その根拠は」
「名刺の裏側が読めてなかった。相当進行しているし、早急に確認するべきだ」
笹崎も結論には賛成だ。しかし、一足飛びに結論をだせるのは沙魚や笹崎が回遊会の社員として現場に慣れているからに過ぎない。
「908の住人、戌亥坂大海さんの言質はとれていません。それに戌亥坂さんからは許可もない。この状況では名刺の裏は私たちにしか根拠たり得ない指標ですね」
コートから一枚名刺を取り出して沙魚に見せる。表には巡回員の名前と連絡先、裏側には社長直筆の【ここが現実だ】という殴り書き。巡回員には表より裏の殴り書きのほうが意味を持つが、部外者には理解しがたい。笹崎たちが名刺の裏の殴り書きを何に使っているか、社外で理解できるのは波の影響を受けた当事者くらいだ。
それどころか、社名と活動内容の不明瞭さと相まって宗教団体の証と揶揄される。
「じゃあ、住人の様子がおかしい。このマンションは玄関で靴を脱ぐフローリングタイプの居室で908も例外ではないのに住人は土足で生活している。フローリングに靴あとがあった」
面白い着眼点だ。戌亥坂が玄関を開けたとき、笹崎は戌亥坂の様子にばかり注目していて、フローリングまでは目を向けなかった。確かに、室内で異変が起きていることを示す事情ともいえる。
「ふむ。それで」
「戌亥坂大海の対応にも不自然なところがある。まず、笹崎の呼び出しに応えるまでの15分近く、室内で何をしていたのか」
「例えばたまたまシャワーに入っていたとか、料理をしていたとか。呼び鈴に応じない事情は人それぞれ。808のご家族なんて、ご兄弟の喧嘩でそれどころではなかっ
たじゃあないですか」
「908には一人しか住んでいない。玄関には靴がなかったし、笹崎の対応も戌亥坂だけで行っていた。それに、シャワー明けというには匂いが違う」
「確かに気になりましたね。少し饐えた、肉の腐ったような匂いがした」
「それから、気になるのは名前と表札だ」
笹崎らはちょうど3階まで降りてきていた。階段の踊り場の前には308号室がある。沙魚は笹崎を避けて前に出て、308号室の表札の横にたった。180センチを越える彼女の頭は表札とほぼ同じ位置にあり、見ているだけで縮尺が狂う。
「戌亥坂は名乗る前に表札を見たんだ」
「それが、どうかしたんですか」
「笹崎は名刺を見ながら名前を名乗るか?」
なるほど。沙魚の言いたいことはわかった。確証とまでは言えないが、それもあの部屋の様子を確認すべき事情の一つとなりうるだろう。
「まだ足りないなら、笹崎の呼び出しに応じた時に素性を確認しなかったこと」
「それはほら、このコートが知名度を上げたという証拠かもしれない」
「それはない」
沙魚が自分の携帯を取り出し、笹崎に写真を見せた。
「裏のリサイクルショップ。コートが中古品で売られていた。そんな場所でこのコートを着たからといって身分証明にはならない。あれは、中に入れたくないという意識の表れだよ」
「まあ、初めに比べると疑うにたる状況は揃っているように聞こえますね」
「907は空き室で確認済み。該当なし。808のご家族は室内を見聞したが該当なし。807の独り暮らしの大学生もはずれ。その他の部屋も確認済みだし、波の発生源に近い908だけが未確認だ。ここまで情報が揃えば充分だ」
沙魚の言う通り、波の観測はロジェ微睡床の上層階角部屋付近。消去法で見ても908が当たりなのは疑いない。
だが、残念なことに、回遊会自体は私企業である以上、住民のいる居室に許可なく踏み入るわけにはいかない。警察の力を借りるにしても、警察は裁判所からの令状がなければ強制的に踏み込めない。908の住人、戌亥坂大海に伝えた強制は回遊会が自警団として認識されていることを利用したはったりでしかない。
そして、残念なことに回遊会は行政機関には顔が利くが、司法、特に特に裁判所からは存在そのものについて信用されていない。いくら実績を上げても、令状申請の理由に波の件が混ざれば申請を却下する。そのため、警察も回遊会への協力、特に令状を必要とする協力に関しては波以外の根拠を求める。
沙魚の見立てはよくできているし、笹崎も反論するつもりはない。それでも、彼女の説明は彼女の経験則と知識が前提になっている部分が残る以上、そのまま警察の令状申請に使うのは難しいだろう。
「さて、どうしたものですかね。君の意見には概ね同意しますが、どうやって警察を説き伏せるのが早いでしょうか」
1階ホールを抜けてマンションの外に出ると、パトランプを回転させた警察車両が目に入った。まだ笹崎が到着したときに居た警官が乗っているのだろうか。あの警官は一緒に現場に当たったことがない。
――何を探しているのかもよくわからず、本部からの理不尽な指示で民間人を手伝っている。自警団として名が知れたからって調子に乗りやがって。
想像するに、彼の心境はそんなところだろう。
笹崎たちにとってはあまり芳しくない相手だ。
「908だと確定できればいいんだろう」
笹崎の態度から警察の協力を得られにくいと察したのか、沙魚は手首まで隠していたコートを腕までめくり、すたすたとマンションの裏へ向かっていく。
「待ってください。また妙なこと考えているでしょう」
沙魚は決断が早い。効果的な対応策を思いついたら躊躇うことなく先に進める、その性質は巡回員の仕事にとって有益だ。だが、彼女の行動を関係各所との摩擦につながらないよう“調整”を任される側は常に心労が溜まる。
裏に回ると各部屋の窓が見える。908の様子は高すぎて笹崎にはよく見えないが、建物の角に並ぶ窓の列をみて沙魚は首を傾げた。
「やっぱりおかしい」
「何がですか。何をやろうとしているのか、せめて事前に教えてください」
「窓だよ」
「窓?」
「908は窓が開いている。戌亥坂が玄関のドアを開けた時、リビングドアがひどくがたついていた。誰かがいるのかと思ったが、ガラスにそれらしき影はなかった。あのがたつきは高層階で窓を開けて強風が吹きこんでいたからだ。あそこは角部屋だから、この上の窓の他に、隣のビルの側にも窓がある。たぶんその両方が開いていてリビングを通り抜けるように風が入っている」
「それが何かおかしいんですか」
「おかしいさ。808の家族も言っていたけれど、高層階で窓を開けると風が強すぎて部屋中のものが散乱する。それに、ここは7階以上の全室に換気と冷房が標準装備でついている。住民に窓を開けなきゃいけない理由なんてないんだ」
あるとすれば、例えば、部屋が荒れても構わないほどに急ぎで換気をする必要性があった。戌亥坂からした饐えた臭いがよぎる。
「ですが、やはりそれも部屋に踏み込む理由にはなりませんよ」
「わかっている。でも、出入口はあるってことだろう」
沙魚が108の窓の前でほんの少し身体を屈めたのを見て、笹崎は彼女の意図を理解した。以前も似たような方法はとったことがあるが、後処理に困る。額に手を当てる笹崎の方を見て、フードの奥で沙魚が笑った。
「笹崎さん。フォロー頼みます」
こういうときだけ“さん”付けで呼ぶ。彼女の指導担当が教えた悪い癖だ。
沙魚はその場で数度小さくジャンプすると、108の窓枠についた柵に手をかけて、勢いよくその身体を持ち上げた。柵に足を乗せると、そのまま、もう片方の手で窓の上の小さな出っ張りに手をかけて柵を蹴る。器用なもので、彼女はその勢いで二階の窓の柵に手をかける。
長身ではあるがフードの下にあるのは華奢な身体のはずだ。それでも、沙魚は両手両足を器用に使い、ロジェ微睡床の壁を登りはじめた。
回遊会のコートを売っているという向かいのリサイクルショップの店員が、沙魚の姿に興味をもって軒先に出てくる。人通りは少ないが9階にたどり着く前に、店員以外にも彼女の姿を目に止める者はいるだろう。
はぁ。
笹崎は小さくため息をついて、リサイクルショップに体を向けた。店員は自分に近づいてくる笹崎に気が付いて、顔を引きつらせた。とりあえず、彼女の情報を基にコートの転売を締め上げておこう。
調査は手早く済ませてくれよ優秀な後輩。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます