訪問

 玄関の扉を開けると、すっかり見慣れてしまったササザキと、ササザキより頭ひとつ背の高いコートの人物が私を出迎えた。

「お待たせしました」

「いいえ。そもそも急に押しかけているのはこちらですから」

 ササザキが頭を下げると整髪料で後ろに撫でつけた白髪交じりの髪が視界に入った。そういえば、髪の毛は匂いを吸着しやすい。部屋の匂いだけ気にしていたが、服や髪から件の匂いがしているのではないだろうか。確かめたいが、ドアノブを握り、扉を半分開けた状態では確かめようがない。

「ところで、ええっと」

 ササザキが顔をあげ口を開きかけて言いよどむ。匂いや部屋の異変に気づかれかねない。沈黙は好ましくない。そうだ。名前だ。私はまだ名前を名乗っていない。

「戌亥坂大海(イヌイザカ‐ヒロミ)といいます」

「珍しい苗字だな」

 コートの人物のほうが興味を示した。やはり女性の声だ。

「いや、君だって十分珍しい苗字だと思いますよ。ああ、戌亥坂さんの苗字についてとやかく言いたいわけではありません」

 それはわかるし、むしろ話題にされる方が気になる人は気になるのではないだろうか。とにかく苗字談義で話が終わるというなら好都合ではある。とはいえ、私は自分の苗字が戌亥坂である謂れなどは何も知らない。

「卒塔婆」

「そとば?」

 だが話が盛り上がることもなく、唐突にコートの女性が声をあげて話は終わってしまう。

「卒塔婆沙魚(ソトバ‐ハゼ)という。分け合ってフードを取りたくはない。先ほどから笹崎(ササザキ)が失礼ばかりで申し訳ない」

 女性はそう言って深々と頭を下げた。先ほどの発言は彼女の苗字だったのだ。確かに、戌亥坂に比べて、苗字も名前も変わっている。

「笹崎に任せておくと、少々時間がかかりすぎる。私たちが確認したかったのは戌亥坂さんの安否だけだ」

「安否、と言われましても。この通り特に変わりはありません」

「そうですか。このあたりで波が観測されたのは事実だ。笹崎は嘘は言わない」

 そういわれても、回遊会の人間に顔見知りはいないし、ササザキもソトバも話が唐突で私には判断のしようがない。

「協定があるので詳細については話せないことが多い。ただ、波の出所がわかるまでは静かにしておいてほしい」

「それは、何か危険なものが出回ったとかそういう話なのですか」

「概ねその理解で大丈夫。気を付けるべきことは三つ。

 ひとつ、身近に説明できないモノ、買った覚えのないモノはないか

 ふたつ、身近に性格が変わったような知人がいないか

 みっつ、悪夢と現実の区別が曖昧になっていないか

 どれか一つでも思い当ることがあれば、この名刺の連絡先へ電話を」

 女性はそういって名刺2枚を差し出した。「回遊会 巡回担当員 卒塔婆沙魚」、「回遊会 巡回担当員主任 笹崎案」。二人の名前の右下には、同じ電話番号が三つ。名刺を裏返すと、崩れて読めない殴り書きのような文字が書かれていた。二枚の名刺とも同じ形をしているところを見ると、回遊会のロゴか何かだろうか。

「それでは、他の部屋の安否確認も必要なので、私たちはこれで」

 結局、卒塔婆に用件の説明を全て任せていた笹崎が話をまとめて彼らは立ち去った。私の部屋は角部屋なので、訪問は最後だったらしい、二人で何かを話しながら階下へと降りていく。

 とりあえず、部屋に入るという話にならなくて一安心だ。

 玄関の扉を閉じて、大きく息を吐いた。


*****

 起きてから今までおおよそ1時間程度だろうか。まるで悪い夢が続いているような状況で、心が休まる隙がない。

 まるで悪い夢の続きをみている。室内にある正体不明の物体。卒塔婆の告げた三つの気を付けるべき事項が頭をよぎった。今すぐにでも玄関を飛び出し、彼女たちに声をかけるべきなのではないか。

 だが、身体は私の想いとは反対にリビングに向かっていく。そうだ。まずはあの物体の正体を確認するところから始めなければならない。


 それに、もう一つ問題がある。

 玄関で卒塔婆らと対応したときのことを思い出す。あのとき、言葉に詰まった笹崎の視線を追って、私は戌亥坂大海という表札をみた。表札を見てイヌイザカヒロミと読むのだとわかった以上、私は戌亥坂大海のことを知っている。ここに疑いはない。

 けれども、私は表札を見るまでの間、自分が戌亥坂大海という名前であったことを意識しなかった。自室にいるとき、自分の名前を意識しない。それは特段おかしなことではないと思う。他方で、見覚えのないリビングの扉や、玄関のドアノブの食い違い、そして、部屋の中心でぶらさがるアレ。

 今の状況を全て合わせて考えるなら、戌亥坂大海という名を意識しなかった理由は自室にいたからではないかもしれない。

 私は、この部屋の住人ではない。すなわち、戌亥坂大海ではないという仮説。


 もし、私が戌亥坂大海でないのなら、当人は何処に行ったのだろうか。玄関にでるとき、靴は見当たらなかった。リビングの扉を開ける前に靴箱を開くべきかもしれない。いや、もっと単純に戌亥坂大海の居所を確かめる方法が一つだけある。


 リビングの扉を開き、部屋に踏み込む。やはり、部屋の中心ではシーリングファンに吊り下げられたアレがゆっくりと回転している。改めて見れば、ちょうど人間一人が入った寝袋のようにも見える。

 初めから薄々思っていたがこの袋の中身は。考えたくない言葉が頭をよぎり、身体が強張ってしまう。確かめるまではわからないし、確かめずこの袋と同居を続けるのは精神が持たない。

 大丈夫。確かめるまでは、この袋はただの正体不明な袋に過ぎない。自分に言い聞かせて、気合を入れるために太ももを一度叩いた。


 袋を開くにしても、まずは準備が必要だった。

 キッチンの引き出しをいくつか探ると、使い古した軍手が出てきた。私の手にはめるには若干サイズが大きいが、この際気にしてはいられない。ベッドの横のクローゼットを開く。クローゼットの中に吊り下げられた服から、黒い服を何着か取り出して、軍手と共に脱衣所へと運んだ。

 中身を改めるにあたり、気になるのはシーリングファンの下に染み出している液体だ。もし袋の中にも液体が残っているなら開いたときに液体が噴き出してくる可能性がある。汚れた服は着替えて捨てるのがベストだが、さっきのように誰かが訪問してくることもあるかもしれない。

 そうとなれば、なるべく汚れが目立たない服を着るべきだ。できれば合羽のようなものがあればいいのだが、どこを探せばそれが見つかるのかは想像がつかなかった。

 とりあえず、風呂場のシャワーが使えることを確認して服を脱ぐ。脱衣所の鏡に自分の裸体が写り、恥ずかしくなった。鏡のないところで着替えるべきだったか。

 けれども、あの袋が吊り下げられているところで着替えはしたくなかった。致し方ない。鏡に背を向けて手早く黒い服に着替えていく。服を着替え、脱衣所に入った時に見つけたマスクとゴーグルを身につける。最後に軍手を履き。鏡の方に向き直る。肌が隠せる部分は可能な限り覆い隠したし、黒い服なら液体が多少ついてもごまかしが効く。

 相当量被ってしまうと、刺激臭に包まれるためどうしようもないが、中身を検分し、方針を定め、シャワーに入るまで耐えられることを祈るしかない。


 既に起床から1時間半。鏡の前に置かれた時計は11時を回っており、部屋に流れ込む風も少しずつ熱気を帯び始めている。脱衣所からリビングを覗き、シーリングファンに吊るされたアレの前に立ってよく観察する。謎の袋だと思っていたが、一か所だけ、吊るされた袋の上下を分かつようにチャックが付いている。

 形状としては寝袋に近い。

 寝袋と断言できないのは、袋がビニール状の素材でできており、寝心地が悪いとしか思えないことからだ。

 それも、チャックを開けてみればわかることだ。

 リビングの端に置かれた椅子を持ってきて、袋の隣に置く。靴のままで椅子に乗り、チャックに手をかけた。

 室内の温度とうって変わって軍手から伝わる感触は氷のようだ。そのことが却って袋の不気味さを際立てる。

 もしかすると、これは単なる氷嚢で、せいぜい腐った魚が出てくる程度で済むのではないか。都合のいい考えをいくつも並べ、手の震えを止めて、私は慎重に袋のチャックを降ろし始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る