唄うアザラシ
若草八雲
誰だって毎朝生まれている
起床
グゥー ヴゥー
初めに聞こえたのは喉の潰れたような声だったと思う。
次に気になったのは鼻を突く異臭。
瞼を開けると刺さるような痛みで涙があふれて視界がぼやけた。
口を開いて息を吸い込み、喉と鼻に満ちた空気に耐えきれなくて咳き込んだ。
身体を丸めて咳が収まるのを待とうとしたが、変調の原因は部屋の空気だ。
悪化することはあっても改善されることはない。
掴んだシーツにはぼやけていたがいつもと同じ紫色のペンギン柄が見えた。
落ち着こう。昨晩と同じ部屋にいる。
涙で視界はぼやけているが、同じ部屋なら周囲の様子はわかる。体を起こし、ベッドの上で足の方へ這っていく。光の差し込むあたりに手を伸ばせば、クレセント錠に手がかかる。
窓ガラスをスライドさせると、潮の匂いが混ざる空気が飛び込んできた。息を吸い込むと少し意識がはっきりした。でも、ここだけでは風が通らない。壁伝いにベッドと反対側に進む。視界はぼやけたままなので本棚や机などの様子はよくわからない。
床に踏み出してみて自分が靴を履いたまま眠っていたことに気付いた。
靴の裏がなにかの破片を踏みしめる音がするので陶器や硝子製品を割ったのかもしれない。きっと、昨晩は片づけられないから靴を履いて寝たのだ。
部屋中に靴跡がつくから掃除が大変だな。新鮮な空気を吸えたおかげで平常心が戻ってくる。
部屋の真ん中を通り過ぎるとき、視界の端に何か丸くて太いものぶら下がっているのが見えた。
グゥー ヴゥー
声はその何かから聞こえているような気がするが、部屋に充満した空気が確かめる気力を削いだ。そのまま突き当りまで進み、もう一つの窓ガラスに手をかける。窓のすぐ先のビルが邪魔して景色は見えないが、空気は通る。一気に窓を開くと背後から窓に向けて室内の空気が逃げ出した。
思わず少し息を吸ってしまい、刺激に耐えられずその場にうずくまった。
この臭いはいったいなんなのか。目を閉じて口と鼻を手でふさぎ、可能な限り匂いが感じられないように息をひそめた。肺に届く空気に潮の匂いが混ざり始めると、意識も整ってくる。
ここにきて、起きてから今まで、鼓動が早かったのだと気が付く。胸を打つ音が減り、体温が下がっていく。風が少し冷たく感じるのは食事を摂っていないからか。それとも、外気温が低いのか。
外の様子がわかる窓を確認すればいいのだろうか。涙が止まった目をこすり、収まりつつ視界のぼやけを拭いながら、私はゆっくりと立ち上がった。
そして、室内の様子に言葉を失った。
*****
「あーもしもし? おや、おお。ようやく出てもらえた。留守だったらどうしようと思っていました。大家さんの鍵でドアを開けてもいいんですが、三室となりで連れの、ああ、この後ろのでかいのね。見えています?
これが鍵を一つ折ってしまってね。大家さんが怖いんですよ。だって鍵穴が鍵で埋まってしまったら開けようもないじゃあないですか。蝶番を外したから大丈夫? だからね君、それは異常なんだよ。いい加減反省しなさい」
インターホンのカメラの前で緑のコートを来た壮年の男が喚いている。男には連れがいるようなのだが、カメラには映らない。男曰く大きな人物だが、おそらくカメラに映らないのはその人物が大きいからではなく、男がカメラの前を陣取っているからだ。共用廊下はそれほど幅がないから、この男のように身振り手振りが映る位置に立つとインターホンカメラの前を横切ることも男の後ろに写ることもできない。
結局、ほとんどの場合カメラは塞がれたままでインターホンでの応対を迫られるから、カメラが役立つことはない。これが初めて役に立った瞬間かもしれない。
男は玄関の扉を開けてほしいようなのだが、どこのだれかを名乗らない人間に玄関を解放するほど、このあたりの治安はよくない。緑のコートが身分証とでも思っているのだろうが、そのコートはこのマンション裏のリサイクルショップに並んでいる。
リサイクルショップのことを話したら男はそちらに気を向けるだろうか。今は訪問者の応対をしている場合ではないのだ。
「身分。まだ名乗っていない」
男の声とは別の声が聞こえた。男がおっと失礼と大仰な振る舞いをやめてコートに手を差し入れた。おそらく、連れの声だったのだが、やはり姿は見えない。男の指示の通り大家のところへ向かったのだろうか。
「大変失礼しました。私はカイユウカイのササザキアンと申します。カイユウカイというのはですね」
回遊会。街に流れてくる“問題児”をあるべきところに戻すと標榜し、警察や消防と手を組んで手広く営業活動をしている。白い縁取りをした緑色のコート。それは、回遊会の会員が身に着ける仕事着であり、自警団のマークとして知名度を上げている。
「この辺で何か出たんですか」
もっとも、回遊会が標的にしている“問題児”というのを私は直に見たことがない。
「ええ。ちょうどこのマンションの付近でナミが観測されたので、皆さんのお部屋を回っているのです。お話だけでも少し」
拒否したらマスターキーで玄関を開けると散々騒いでおきながら、ササザキと名乗る男はカメラの前でゆっくりと頭を下げた。ナミが観測されたというのはどういうことなのだろう。
「では、開けていただけますか?」
それは、少し困る。室内は荒れ放題であるし、何よりも部屋の中心にあるアレをどう説明すればいいのか。私はインターホンから目を離し、真後ろにぶら下がるアレの影を確認した。
目が覚めた時に比べて部屋に満ちた刺激臭は緩和され、外から流れてくる潮の香りが心地よい。だが、部屋の中央にぶら下がっているアレの周りだけは異様な空気が漂っている。アレは天井につけたシーリングファンに結ばれてつり下がっている。シーリングファンの回転にそってアレもゆっくりと回っているが、全体像を見ると中央が膨らんだ魚肉ソーセージのようだ。
全体が黄ばんだビニール状の何かに包まれているので外からは中身がわからない。ただ、目覚めるまでの間、ゆっくりと時間をかけて染み出したのであろう薄黄色の液体がシーリングファンの真下に引いたカーペットを汚している。
カーペットにはそれ以外にも赤黒い液体や薄汚い汚物が付着している。誰が見ても只事ではないことは一目瞭然だ。それに、アレの真下以外にも硝子や陶器が割れて散らばっている。本棚やクローゼット、机など壁に沿って配した家具は整然としているのに、アレを中心に、部屋中が荒れているのだ。
これは、誰かを部屋にいれて良い状況ではない。
「あの、私たちも疑っているというわけではないのです。ただ、ナミが観測された以上、皆様の安全を確認したい。その、当局との協定などもありますので」
言葉は優しく柔らかいが、これ以上待たせるなら強行するという意思表示だ。
どうしたらいい。リビングと玄関の間には扉がある。擦りガラスがついているが扉を閉めてしまえば玄関からリビングの様子は見えないだろうか。
こういう事態になるまで玄関からこの部屋に入ったときにどのような光景が見えるのか考えたこともなかった。
「別に部屋中を改めたいという話じゃない。あなたの顔が見たいんだ」
躊躇していると、さきほどササザキを諫めた声がした。
カメラを確認すると画面のほとんどが緑色に埋め尽くされている。ササザキの声が聞こえて、画面の緑色がもそもそと動いた。画面から離れたのだろう。ササザキと違い、声の主はフードを被っていて顔が見えない。ただ、フードの陰から見えた鼻筋と口元から、女性のような印象を受けた。
「少し、待ってください」
ササザキだけよりも警戒心が緩む。一方で、誰であれ、アレの正体を改め、処理を終えるまではこの部屋に踏み込ませることはできない。
リビングの扉を閉めて息を整え、玄関の扉の前に立つ。これで、玄関からはリビングの様子が見えないし、幸いなことに例の刺激臭もない。
鍵を開けようとして私は立ち止まった。ドアノブの形状が覚えている形と違う。
玄関の扉はレバー式だった。だが、目の前のドアノブは丸い。確か握り玉式と呼ばれるノブだ。よく見ればデッドボルト式の鍵が二つ付いているが見覚えがない。
振り返って、リビングの扉を見た。私は、玄関からリビングの扉が閉まっているのをみたことがない。だが、本当にそれだけか。
この部屋、リビングの光景を、私は本当に知っていたのだろうか。
リビングに吊られている物体が昨日は存在しなかった根拠はどこにある。
ササザキたちが扉をたたく音に我に返り、私はゆっくりと、玄関の扉を開ける。
とにかく、今は訪問者をやり過ごすことから。
グゥー ヴゥー
リビングで鳴くアレの声が耳元に響くような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます