第2話 踏みつけたくない

 いつも通り庭に出て花壇を見渡すと、お隣さんの花壇になにやら緑色の点があった。おそらく種子が芽吹いたのだろう。自分のところにはなくて残念だったけれども、この四つの花壇の中で初めての芽吹きは、自他を度外視して喜ばしいものだった。


 お隣さんの掃き出し窓が開く。えんから降りて歩いてくる手前に私は思わず言葉を掛ける。


「お隣さん、芽が出ていますよ」


 するとお隣さんは走って来て、なにも言わずに芽を踏みつけた。


「え!」


 私は思わず声を上げた。だって、折角芽吹いたのに。私の花壇ではなかったけれど、先の喜びまで踏みにじられたようで胸が苦しかった。


「教えてくれてありがとうございます」


 お隣さんは丁寧な口調で頭を下げた。私もつられて頭を下げる。


「あの、どうして踏みつけたのですか?」


 すると彼はキョトンとした顔で口を半開きにして固まってしまった。


「なにか変なことを言っていますか? 私」

「もしかして図鑑を貰っていませんか? この花壇に種が蒔かれたとき、ベッドのサイドテーブルに置かれていたので、みなさんお持ちかと思っておりましたが」


 そう言えば、あったような気がする。同じくサイドテーブルに。


「いえ、貰ったのですが、目を通してなくて」

「そうでしたか。最初に芽吹く種子にはお気を付けください。頑丈で、切ることも引っこ抜くことも出来ませんが、こうして踏みつければ成長は止められますから」


 ニコッと笑われたが、笑みを返すことは出来なかった。咲く花がたとえきれいでなくても、愛情を持って育ててあげたいなあと思った。




 私が花壇を訪れたとき、すでに斜向はすむかいさんが世話をしていた。そしてやはり、せっかく出た双葉を踏みつけている。目が合うと会釈をされて、つられて私も会釈を返した。


「いやあ、なかなか強くてかなわんですわ。お宅も踏んでおいた方がいいですよ」


 言われて初めて気が付いた。自分の花壇にも双葉が生えている。念願の発芽に胸が高鳴る。しかし昨日のお隣さんの雰囲気と合わせて考えると、喜ぶと変に思われるだろう。さらにここで私が踏むのを拒否しようものなら、怒られてしまうかも知れない。


「よく観察してからにします」


 私は腰を落として双葉を見つめた。


「そうですか」


 斜向かいさんが芽を踏みにじり、水撒きを終えて帰っていくのを見送って、私はもう一度双葉を見つめる。

 黄緑の葉っぱはぷっくりしていてかわいい。水を掛けるとピンと弾いて、嬉しそうだった。とても踏み潰す気にはなれなかった。




 次の日もその次の日も、私は双葉を踏みつけないで水をやった。周りの花壇には足跡ばかりが残り、花は咲いていない。それがちょっとした優越感だった。みんな選り好みをしてせっかく吹いた芽を潰すからいけないのだ。自業自得だ。道徳心を身につけた方がいいと思った。


 お向かいさんが心配そうな顔をして私を見て来た。


「あの、もしかしてそれ、踏みつけてないんですか?」

「え? ああ」

「悪いことは言わないですから、それは早めになんとかしておいた方がいいですよ」


 あら。もしかして羨ましくてそんなことを言っているのかしら。そうだとしたらなんて浅ましい忠告なのだろう。自分の花壇に花が咲かないからって。でも、ここで私がなにを言っても平行線になってしまうだろう。無駄な争いはしたくない。


「そうですね。ありがとうございます」


 そう言って私は花壇から離れ、掃き出し窓から部屋の中に戻った。




 ある日、お向かいさんの花壇に芽が生えていた。今度はそれを踏みつけることはせず、ホッとした表情になり、如雨露じょうろで水をやり始めた。


「良かったですね」


 私が素直な気持ちで言うと、彼女もにっこり微笑んだ。


「ありがとうございます」


 またある日、お隣さんとはす向かいさんの花壇にも種子が芽吹いていた。


「おめでとうございます」


 私はまたも素直な気持ちで言葉を贈る。


「ありがとう」


 彼らはニコッと笑うと気持ちよく返してくれた。


 それから数日が経つと、ついに花が咲いた。お向かいさんの花壇だ。その次の日にはお隣さんの花壇で、そのまた次の日には斜向かいさんの花壇でそれぞれ花が咲いた。私は何日も前に芽が吹いたと言うのに、茎が太くなっていくばかりで全然開いてくれなかった。


 ふと気づくと、それぞれの花壇にはまた新しい芽が生えていた。私の花壇を除いて。これらの芽もまた、私の花よりも先に開くのだろうか。そんなまさかと思いつつ、焦りと不安は拭えなかった。


「あの、もしかして、その花育てていませんか? 悪いことは言いませんから、早くなんとかした方がいいですよ」


 私の花壇の唯一の希望を指して言う。なんだろう。お向かいさんは自分の花壇が上手くいっているからと言って、人の花壇に口を出して来るような人だったのか。私の希望をむしり取ろうとしているのだとしたらあんまりだ。


「ありがとうございます。ただ今日はもう疲れてしまったので、休みます」


 彼女に新たな忠告をさせる暇を与えず、私はそそくさと部屋に戻った。

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