Go out

 開いたアルバムの左右のページを埋めていた写真は、直近のものではない。撮影された季節も場所もばらばらだ。作品の整理用だったらこんな並べ方はしない。展覧会写真のピックアップにしても、被写体が不統一。わけが分からなくて、一番初めのページに戻った。

 頭から順に、ページをめくっていく。それらはどれ一つとっても、私の記憶の中に鮮明に残る景色。

 アルバムに貼られていたのは全て、私が詞と一緒に行った撮影旅行の場所の写真だった。


 初めて二人で行った真夏の京都。繁る濃緑の葉が柔らかに光を透かす貴船神社の参道。宵闇の中にライトアップされた黄緑の木々が幻想的に池に浮かぶ高台寺の庭園。その隣は青い日本海に鮮やかな緑が接する初夏の白米千枚田と、橙の街灯に雨露で光る、倉敷美観地区の石畳。めくった次のページは遅咲きの桜が黒塀の前に咲き誇る角館の武家屋敷通りと、エメラルドグリーンの海そのものに向かっているかのような、どこまでも真っ直ぐ走る角島大橋。


 日本の写真だけではなかった。しばらくページが進んだら、成田空港の搭乗ゲートと滑走路に止まるボーイング777の写真が現れた。そうかと思えば、座席の小さな窓にへばりついてカメラを構えている私と、機内食を前に満面の笑みの詞の写真。二、三ページめくってミュンヘン国際空港の「M」マークが出てくると、それを合図とするかのようにヨーロッパの街や自然のショットが連続する。

 記憶が徐々に蘇り、アルバムのコンセプトが掴めてくる。色鮮やかに並ぶ写真の一つ一つは、どれも二人で感嘆しながらシャッターを切った一瞬だ。城壁の上の道が黄金きんの葉で染まるイタリアのルッカ。起伏のある丘の上に、青空を仰いで立つブリュージュの水車。マイン川沿いに広がるワインの葡萄棚と、その上に雄々しく立つマリエンベルク要塞。

 そしてそうした訪れた各地で切り取った風景の中でも特に多いのは、旅の途中に雨に降られたとき、濡れるのに不満を言うどころか、ラッキーと言って私達がいつもシャッター・チャンスを狙った、無愛想な空を一瞬で鮮やかに飾る空の橋——虹の写真。


 ミュンヘンからの長距離列車で牧草地を抜ける間、野原の上に出た虹を見た時の詞の笑顔が頭に浮かぶ。


「ねえ葵、世の中にはさ、いろんな事情で、外に出たくても出られない人たちがたくさんいるじゃない?」


 思い出したら今でも耳のそばに聞こえそうな詞の声。鼓動が速くなるのを胸に感じながら、ページをめくった。


 真夏なのに足元一面、深く雪の積もったインスブルックのチロルの山。チェコを縦断する車窓から見て歓声を上げた金色の菜の花畑。次第に濃くなる青のグラデーションを作りながら、左右どこまでも海が広がる初冬のニューブライトン。ケム川のボートパンケティングを見下ろして並ぶのは煉瓦造りの歴史あるカレッジだ。同じ旅行で足を伸ばした巡礼の大聖堂と中世の街並みや、小路クローズと坂が入り組む石畳は、詞が大好きなイングランドにスコットランド。

 実物ではなくて写真であっても、それらはどれも目で見た時の言葉にならない思いを掻き立てる。

 それくらい美しくて、引き込まれて、目が離せなくなる。


「だから私達はさ、生きてる限り、世界中の綺麗なものとか素敵なものとかを、世界中の人に届けるの」


 晴れ間の出た空から七色の帯が草原に降りる様に何回もシャッターを切りながら、詞は歌うみたいに言った。


 詞が倒れて、初めて分かった。

 あれは、詞が自分に起こることに対して言っていたんだ。


 ——詞。


 海のきわを染め上げながら沈む最西端の夕日が、視界の中でぼやける。


 ——詞、ごめんね。


 深呼吸をしようと思ったら、喉が詰まって、唇を噛む。


 ——スタジオで立ち止まってて、動けなくて。


 細い息と一緒に嗚咽が漏れて、ぱた、と音を立てた水玉が、朱い日輪をひと回り大きくした。ページの端にかける指がうまく動かず、アルバムが小刻みに揺れる。


 すると、中途半端に開いた台紙の隙間から、何かがするりと滑り出た。


 床に落ちたのは、去年の夏のルツェルンの写真。虹が出た前の日に撮った黄昏の湖上。

 紅の中に影になって浮かぶ橋の上に、色とりどりのパステル・カラーでポップな書体のアルファベットが並んでいる。それらをつなげると、言葉になった。


『HAPPY BIRTHDAY AOI !』


 いつ、こんなもの。


つか……ふっ……う……ふぇっ……」


 堪えていたものが情けなく声になるのも止められず、震える手でそれを拾い上げた。いつも使っている写真用紙と比べて妙に分厚い。不思議に思って裏を返せば、そこにあったのは、カレンダーに使ったのと同じ雨上がりの写真。透けるような空にかかる虹と湖面に映ったそれが、木製の橋を挟んで円を作る。


 その円の中に、表の手の込んだメッセージとは正反対の、走り書きしたような詞の字があった。




『あとは任せた!!』




 ふいに、写真の中の空が、端から明るく変わり始める。

 くすんだ虹の七色が、次第に鮮明になっていく。


 薄暗い室内に広がる光を感じて後ろを振り返ると、息つく間も無く窓に叩きつける雨粒はない。代わりに間隔を開けて細い線がガラス面にまばらに走り、その向こう、空を埋めるにび色の雲の一部だけが、白と、茜と、黄金を帯びている——そして……


 光の筋が、灰がかった空間を貫いた。



 天が、二つに裂けた。




 スタジオの三脚からカメラ一眼を掴み取る。



 熱が冷まされた空気の中、白く変わっていくビルの階段に、私の足音が高く鳴り響いていた。

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