& ready......

 玄関の中に戻って扉を閉めたら、室内の静寂で鼓膜が解放された。私はサンダルを脱ぎ捨ててスタジオを突っ切り、奥の事務所兼物置きの扉を開ける。

 エアコンのあるスタジオとは違って、開けた窓から入る生ぬるい風が頬を撫でる。床には開けっ放しの段ボール箱が無造作に散らばり、部屋に踏み入れた右足にその一つがぶつかった。段ボールそれをそのまま蹴って脇に追いやると、私は壁に作り付けられた本棚を見上げた。

 棚の左半分はもうほとんど空で、そこにあった私の荷物はすでに段ボールに収まっている。一方、右半分はまだ物がきつきつに詰まったまま——持ち主がそれらを取りに来ることはない。


 詞は一年前に、この世を去った。


 * * *


 詞は駆け出しのフォトグラファーのイベントに参加した時に会った。偶然にも私と彼女の展示は隣同士で、これまた偶然、年も同じ。どちらも風景写真を中心にやりたいと思っていたのに加えて、好きな作風も似ていた。すぐに意気投合して、一緒にこのスタジオを借りるまでそう長くかからなかった。


 風景をやりたいとは言いながら、実は私にとって撮影旅行は、旅費の上でも気持ちの上でも一人では行きにくかった。それが二人になると断然、モチベーションが違った。旅の移動中も宿の夜も退屈することはなかったし、一人無言で食べる味気ないご飯も、二人なら何を食べたって美味しかった。


 そして何よりも、目の前に広がる美しさにシャッターを切った時、感動して漏れたため息が空気中に無意に消えていくことなく、隣で受け止めてくれる相手がいた。

 撮影は個人プレーだと思っていたけれど、誰かと一緒にカメラに向かうのは、驚くほど楽しかった。


 いや、が一緒だと、と言ったほうがいいのかもしれない。


 展示会や仕事を重ねるうち、イベント写真などの依頼で二人それぞれに個々のクライアントができても、風景写真だけは必ず一緒に撮りに行った。作品には全て、「AT」のクレジットを入れて、データに収めた。


「決めた。私、撮影の遠征は絶対、ずっと詞と一緒に行く」


 最初の海外撮影の帰りの飛行機で私がした約束に、「絶対ね」と返した時、詞はどんな気持ちだったんだろう。


 * * *


「いい加減こっちにも、取り掛からないとね」


 ためらいを振り切るように敢えて口に出すと、私は机の横にあった丸椅子を引っ張ってきてそれに上った。一呼吸して、棚に並んでいるものを束で掴みだす。

 一年前、詞が亡くなった時にご家族にお返ししようとしたけれど、いくらかの主だった作品アルバムや展覧会カタログを除いて、「写真関係のものは葵ちゃんが持っていて」と言われてしまった。詞にもそれが一番良いと、ご両親から頼まれた。

 本棚の右端から、カメラ・テクニックの参考書、色彩論の本やインテリア・デザインのカタログ、詞個人が受けたクライアントのファイル、展覧会カタログ、それからスナップ写真のアルバムが並ぶ。それらはどれも、詞がこの事務所の椅子に座ってたびたび開いていたものだ。私は本棚から抜き出しては、手にしたものをなるべく見ないように、段ボールに入れ込んで行った。


 片付けの手が、詞の集めた旅行パンフレットの部分に差し掛かる。信じられないほどフットワークの軽かった詞。周りに活気を振りまく明るさで、突然いなくなるなんて思わなかった。


 私は、詞に持病があるのを知らなかった。後から聞けば、詞は家族にも伏せるよう頼んでいたらしいし、私もほんの少しも気がつかなかった。なにせコントロールを正しくやっていれば、普通の人と全く同じに生活できる病気だったのだ。


 でもそれは、ほんの少しの「ズレ」で簡単に崩れてしまう、ひどく繊細なバランスだった。




 一年前の夏の終わり、他の仕事との折り合いをつけ、二週間早い私の誕生日祝いを兼ねて、ヨーロッパに撮影旅行に行った。旅程を決めるのに、その時は詞が行きたがっていたロンドンの代わりに、私が選んだチューリヒ近郊を優先してくれた。

 もともと夏でも朝晩は上着が必要なアルプス地方だが、去年、私達が行った頃のヨーロッパは異様に寒く、現地で服を調達しないと凍えそうな程だった。それが帰ってきたら日本は外気温が毎日体温並みの酷暑。それまで極めてうまく保っていた詞のコントロールは、呆気なく崩れた。


 帰国してまもなく、詞はスタジオ撮影中に気を失った。一回目はすぐに意識を取り戻し、「ただの貧血」と言って笑ったけれど、数日後に再び倒れた時はそうはいかなかった。詞は深い昏睡状態のまま、私が呼んだ救急車で病院に運ばれた。いくら呼びかけても、詞は目を覚まさなかった。



 数日後の私の誕生日に、予約した覚えのないデコレーション・ケーキがスタジオに届いた。

 ケーキの箱には、蝋燭とフォークが二つ。

 一緒に食べる相手はいなかった。




「……あれ?」


 棚の前の列に並んだものをあらかた段ボールへ入れたところで、私は奥の方に見慣れない、えらくしっかりした装丁のアルバムがあるのに気がついた。腕を伸ばして引っ張り出してみる。桜色と黄緑を基調にした小花模様のリバティ・プリント。奥にあった割には埃っぽさもない。


 リバティは詞のお気に入りの柄だ。


 他の荷物と違って、なんとなく吸い寄せらて、私は金縁取りの表紙に指をかけた。

 それとほぼ同時に、部屋の中が急に暗くなった。


 ドオォ……ン


「……うぁっ!?」


 頭を痺れさすような突然の轟音に身体がびくっと痙攣し、手からアルバムが滑り落ちる。身体のバランスが崩れ、丸椅子から外れてしまった足をそのまま床に降ろして後ろを見ると、大粒の雨が網戸から床に入り込んでいた。段ボールが濡れてしまう。慌てて駆け寄り窓を勢いよく閉めたら、パシンと雨粒がガラスにぶつかり、滴が弾けて太い線になって下へ流れた。さっきまで空間を支配していた蝉時雨はどこへやら、今は本物の雨がどどぅと滝さながらの音を立てている。

 たぶん、いつものゲリラ豪雨だ。しばらく待っていれば止むだろう。涼しくなってちょうどいい。

 私は手のひらを窓から離すと、本棚の方へ戻った。先のアルバムは開いた状態で床の上に寝ている。変に折れなくて良かった。自分の驚き方に呆れながら、アルバムを拾おうと手を伸ばした。


 だが、こちらを向いたそのページを見て、一瞬、私の息が止まった。

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