空に走る

蜜柑桜

Stay

 カシャッ


「はい、真船まふねさん、楽にしていいですよ」


 カメラの画面の中にいる男性が肩の力を抜き、ふぅと天井を仰いだ。私は三脚のパンハンドルを回してカメラをやや上向きにする。


「それじゃ、次は立ってもらって上半身いきます。さっきのレフ板、もう少し平たくして持ってみてください」

「こうかい?」

「んー、もうちょっと右に……ストップ、そこで」


 レフ板に反射した照明の光が真船さんの茶褐色の頬の色を明るく変える。ファインダーの中を覗き込み、レンズの焦点を合わせる。


「じゃ、私の背より上の方見てくださいね。んー、硬いかたーいっ。それじゃ、奥さんにおっこられちゃーう」


 カシャッ


 真船さんの頬が緩んだところを捕らえる。シャッターの音に「おっと」と呟いて、真船さんの眉がピクリと上がった。私はファインダーから目を離さず続ける。


「あっ、いい顔でしたのにー。ほらもう一回、おっとこまえー」

「そんな、うまいこといってあおいちゃ……」


 カシャッ


 また自然な笑顔。すかさずシャッターボタンを押す。


 カシャッ、カシャッ……


 シャッター音が鳴るごとに、真船さん被写体の表情が柔らかくなっていく。私自身が知っている真船さんの一番良い顔よりももっと良いものが出るまで、私はキレの良い涼やかな音で室内を満たした。


 * * *


「それじゃ、先ほど選んでいただいたのを、それぞれカラーとモノクロ一枚ずつですね」

「ああ、ありがとう。助かったよ。悪いね、このコロナ騒ぎで演奏会開催が本当にできるか危うかったから。チラシもギリギリでね」

「お役に立てて嬉しいです。ちょっとお待ちくださいね、請求書ファイル作っちゃいますから」


 私がデスクのパソコンを開くと、真船さんは手を後ろに軽く組んで、なんとはなしに壁の写真を眺め始めた。革靴がコツ、コツ、と床を打つのとキーボードを叩く音が、物の少ないスタジオの空間によく響く。


「おや、これは……」


 ゆっくりとした規則的な足音が止んだ。顔を上げると、真船さんは壁にかけたカレンダーを見ていた。私が撮った写真を集めて作ったものだ。八月の写真は、三角屋根をした円い小屋を真ん中に、画面の端から端までを覆う水面にかかった木製の橋、そして湖畔に並ぶ建物の白い壁。灰色がかった湖面にはそれら皆が影を作り、そして画面上部、薄水色の空にかかる七色の橋が、水面に映って円を作る——夏のルツェルン湖の夕方だ。


「懐かしいねぇ。よく夏に行ったよ。音楽祭があってね」

「真船さん、弾かれたんですか?」

「数回だけね。まだ若い頃の話だよ」


 真船さんは世界的に活躍するピアニストだ。今は自分の演奏より後進の指導を中心にしていらっしゃるけれど、これまで国内外のオケや演奏家と沢山のCDを出している。


「葵ちゃんは、今年は撮影旅行は行かないのかい?」

「あ、はい……まぁ……」

「やっぱりこの感染症の蔓延じゃぁ、行きにくいよね」


 そう聞かれて、いえ、という言葉と一緒に、私は無意識に視線をキーボードに落としていた。


「……これからは、ポートレート専門で行こうと思っていて」


 リターンキーをわざと強く、短く弾く。


「それは……やっぱり、つかさちゃんが原因かい?」


 パソコン画面の白い光が眩しい。

 その画面の隅で、出しっぱなしのもう一つの三脚が、蛍光灯を反射して黒光りする。


「……風景写真は、詞の方がよほど上なんですよ。このスタジオここも私一人には広いし。ポートレート撮影のセット作るのにいい部屋見つけたので、近く移転します」


 営業用の声を作って、私はキーを打ち続けながら言った。


「なんだか、もったいないね……音楽と同じで、今だからこそ君たちの写真は見たいけどな」


 真船さんが壁を仰ぎ見て、吐息するのがわかった。


「……僕は、二人の撮る旅写真が大好きだったよ」


 静かな声に、顔を上げることができない。


 * * *


「それじゃあ、データが上がったらメールでお送りしますね」


 玄関の扉を開けると、別世界のようなむっとした空気が全身を襲う。締め切った室内ではエアコンの音に消されていた蝉の大音声が耳を圧迫し、私は声をやや張り上げた。


「よろしく頼むね。こちらも演奏会のチケット、すぐに送るから」

「ありがとうございます」


 じゃ、と言って、真船さんは鉄骨の階段に足を踏み出した。しかし、一段降りたところでその長身は止まり、私を振り返った。


「ねぇ葵ちゃん、僕らはリモートでも音楽を届けたいと思うだろう」

「はい?」

「君たちの写真も、似てるんじゃないかな」


 胸のあたりに、鈍い痛みが生まれる。


「詞ちゃんもそう、思ってるんじゃないかな」


 開きかけた口が、また閉じる。私は頭を下げ、カン、カン、カン、という真船さんの足音が蝉時雨にかき消されて聞こえなくなるまで、サンダルの足にかかる自分の影を見つめていた。

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