四日目・3

 食堂に戻ってきた。今度は全員が座っていた。皆、冴子とは距離を取っていた。


「それじゃあなにから喋ろうかしら。訊きたいことはある?」


 憑き物が落ちたような顔で冴子が言った。これが彼女の本性で、それを暴いたのが凛子だ。まさか凛子がこんなことをするとは思わなかった。いや、こんなことができるとは思わなかったというべきかもしれない。


「勘違いしないで欲しいんだけどさ」


 純が立ち上がった。顔は笑っているが、今まで見てきた笑顔とは少し違っていた。楽しくて笑っているとか、イジワルをして笑っているとかそういう笑顔じゃない。目は座っているし、声のトーンも少し低かった。攻撃的で、見ていて気持ちがいいものではなかった。


「まだアンタのターンにはならないんだよ。そんなことさせてたまるか」

「どういうこと? この事件は私が犯人で、アナタたちがそれを暴いたじゃない」

「バカ言っちゃいけない。確かにこの事件はリンちゃんが暴いたよ。でもアンタの禊は終わってない。それを一番よくわかってるのはアンタだ」


 純が凛子の前に手を出した。天井に向けた手の平。凛子がその手を軽く叩いた。


「選手交代だ。アンタが主人公の時間は、もう二度と来ない」


 手帳を取り出した。冴子が雄弁に推理を披露していた場所へと歩いていく。歩幅は大きく、肩で風を切っていた。


「今回の事件はリンちゃんが犯人を突き止めた。でもこのペンションはもう一つ事件を抱えている。一見解決したようにも見えるけど、その謎を解いたのは冴子さんだ。そう、二十年前の事件を紐解こう」

「二十年前って……兄さんが殺された事件のことか?」


 イスを揺らしながら、コウちゃんが力強く立ち上がった。巨躯が揺れると、皆の視線が自然と集まった。


「浩二さんにとってはかなり衝撃的だったと思う。辛かったはず。でもね、あの事件は終わってなかったんだ。浩二さんは今回当事者になったからわかるでしょ? この白沢木冴子っていう女はとんでもないペテン師さ。二十年前の金城恭一殺害事件も、犯人は久坂瑠璃子じゃなかったの。とりあえず座って座って。今から全部、動機から殺害方法までしっかり説明するからさ」


 コウちゃんが座るのを確認し、純の視線が手帳に落ちた。


「二十年前の十二月十一日、金城恭一が殺された。当時二十七歳、接客業。死亡推定時刻は深夜二時から四時の間。殺害現場は百合の間、現在ケイゴが泊まっている部屋だね。犯人は久坂瑠璃子、当時二十五歳。殺害方法はナイフによる刺殺。なおこのナイフは後日、久坂瑠璃子が泊まっていた部屋で発見された。この二日後、久坂瑠璃子は遺書を書いて自殺。その際部屋ではなく、バルコニーの梁にロープを括り付け、ロープの反対を自分の首に巻き付けて飛び降りた。死亡推定時刻は深夜十一時から一時。と、ここまでが簡単な概要」

「それがどうしたっていうの。言っておくけど、その事件は私が解決した」

「本当にそうかな? 金城と久坂は不倫関係にあり、金城に別れを告げられた久坂が逆上して犯行に及んだ。冴子さんと警察の見解は同じだった。でもおかしいんだなこれが。確かに同じ町に住んでいた二人で、仲良くお喋りしていたところなんかは目撃されていた。しかしこのペンションでも地元でも、男女の仲になっていたという証言は取れていなかった。つまり不倫の証拠は一つも出てこなかった。不倫関係がなかったとすれば動機は一気にひっくり返る。では金城恭一が殺される理由はなんだったのか。わかるかな、神楽凛子くん」


 ビシッと凛子にを指さした。だがこの二人が結託しているのは誰しもわかっている。当然のように「わかります」と凛子が立ち上がった。


「金城恭一が久坂瑠璃子に殺される理由はない。そして当時の宿泊客にも。でも一人だけ例外がいた」

「それは誰かな?」

「白沢木冴子、当時二十九歳の探偵」

「今ここに座っている人たちはおおよその見当がついたと思う。でももうちょっと付き合って欲しい」


 純は全員の顔を見渡し、手を叩いた。


「よし、それではなぜ彼女に動機があったのか。昔々あるところに白沢木冴子という女の子がいました。冴子には三歳年下の弟がいました。少し身体が弱く細身でしたが、冴子はそれはそれは可愛がっていました。両親が早くに離婚したため、二人は離れ離れになってしまった。しかし両親に黙って二人は会っていた」

「やめなさい」と冴子が小さな声で言う。

「アンタに発言権はない」と純がピシャリと言い放った。

「続けよう。弟が高校生になったある日、遊びに行くと外に出ていき、そのまま帰ってこないという出来事が起きました。数日後、弟の遺体が発見されました。川に流され、下流の木に引っかかっていたのです。警察は川に落ちたのだろう、自殺だったのだろうと言いました。だが冴子は考えました。自殺などするような弟ではなかったし、落ちたとしても友人たちが見ているはずだ、と」

「やめて!」


 立ち上がろうとする冴子を俺とコウちゃんで抑え込んだ。あのままだと冴子が殴りかかってしまいそうだったからだ。


「冴子はいろんな人に話を聞き、ようやく手がかりをみつけたのです。弟が飛び込むところを見ていた人を見つけ出したのです。その証言を得るまでにかかった時間は考えたくなかったでしょう。すでに冴子の年齢は二十を超えていました。その人の話によると、弟は四人ほどの友人といたそうですが、急に飛び込み、友人たちは逃げてしまったとのことでした。冴子はその友人たちを見つけるために奔走します。来る日も来る日もたくさんの人に話しかけ、友人の知り合いと接触するまでに至ったのです。弟が飛び込んだのは度胸試しの一環だった。しかし、飛び込んだまま浮いてこない弟の姿を見て、友人たちは怖くなった。まあ逃げたい気持ちはわかりますね。それでは質問、弟が仲良くしていた友人たちの中にある人物がいました。その友人は弟が飛び込んだときもその場にいた。さてその人物は誰でしょう」


 凛子がゆっくりと手を上げた。


「はい凛子くん」


 普段と変わらぬ様子で彼女が言った。


「金城恭一」


 そこで父さんの名前が出てくるとは思わなかった。いや違う。思いたくなかったんだ。この話の流れで父さんの名前が出てくるのは自然だ。でも父さんが人を殺す手伝いをしただなんて考えたくもなかった。


「正確。つまり白沢木冴子には金城恭一を殺すだけの動機があった。きっと誰よりも深く憎んでいた。当時、金城恭一の遺体は二時から四時とされていたけど、たぶん冴子さんは今回と同じように気温を変えたんじゃないかな。恭一さんは寒がりで、ペンションの物置にあった小さなストーブを部屋に持っていったそうですね。つまりエアコンとストーブの火力を上げれば、気温を三十度から四十度に保つことができる。そうなれば死亡推定時刻を二時間あまり短縮できる。本当の殺害時刻はたぶん十二時前後だった。ここで浩二さんに訊きたいんだけど、第一発見者は誰? 思い出せる?」

「待ちなさいよ!」


 冴子が声を荒げた。声だけでなく、呼吸も乱れていた。


「アンタみたいな小娘が何十年も前のことを知ってるわけないでしょう? でっち上げもいい加減にして欲しいわね」

「取り乱しながら言うセリフじゃないけど、まあいいか。アンタはまったくわかってないみたいだけど、アタシがなんでフリーライターなんて仕事してるかわかってないんだな。学生時代からずっと、この事件を追い続けてたんだよ。時間が足りなくて普通に就職することなんてできなかった。でも、報われるって信じてた。ただそれだけだ」


 純は一層低い声で「その汚い口を閉じろ」と睨めつけていた。


「で、浩二さん。第一発見者は?」


 冴子に対する純の態度に気圧されたのか、コウちゃんはしばらく動けずにいた。


 名指しされたことに気がついたコウちゃんは、拳で二度テーブルを叩いてから口を開いた。


「今でも忘れないよ。第一発見者は俺だ。兄さんがなかなか起きてこないから、俺が部屋を開けたんだ」

「そのときは一人だった?」

「ああ、俺だけだった。俺は兄さんの死体を見て後退った。そしたら冴子さんが駆けつけてきた」

「そのあと冴子さんを一人にした?」

「人を呼んできてくれって言われたから、俺が一階に行ってる間は一人だったと思う」

「窓も閉まっていたんですよね?」

「ああ、部屋は密室だった。部屋の中に鍵があったんだ」

「じゃあ鍵を見つけたのは?」


 コウちゃんが冴子の方を見ると、全員の視線が冴子に集まった。


「冴子さんだ」

「ちなみに今回の事件も鍵を見つけたのは冴子さん。そしてあの密室は偽造だった。同じ手を使ったとなれば、金城恭一殺害の方も密室ではなかったと言える。ただしもう二十年前のことだから、証拠も色あせてしまったし証言も取れないと思う。でも確実に言えるのは、一番犯人に近かったのは冴子さんだということ」

「じゃあ瑠璃子さんは? 彼女はなんで自殺したの?」


 カオちゃんが疑問をぶつけた。二十年前、このペンションにいた人間の一人だ。知りたいという気持ちもわかる。


「犯人でもないのに自殺すると思います? 当然、殺されたんですよ。犯人役をでっち上げるために都合がいい人間を殺した。同じ町に住んでいて会話をするような間柄だ。不倫をでっち上げるためには、両方を殺してしまえば一番楽だ。直筆よりもずっと効力は薄いけど、ワープロで打たれた遺書でも効果がゼロというわけじゃない。当時は目薬とあるものを混ぜると簡単に睡眠薬ができる時代でしたね。眠らせて、首にロープをかけて、落とすだけ。鍵を使って瑠璃子の部屋に行き、瑠璃子のワープロで遺書を書いて、恭一を殺したナイフを瑠璃子の部屋に隠した」

「それこそでっち上げよ。私はそんなことしてない。犯人は久坂瑠璃子よ」

「悪いけど逃がすわけにはいかないんだよ。この千載一遇のチャンスをさ。今ここで母さんの仇を取らないと、たぶん一生このままだ」

「は? 母さん?」

「アタシの旧姓言ってなかったっけ? 施設に預けられて新しい両親ができるまで、アタシは久坂純だったわけよ。アタシの母さんは未婚の母ってやつ。だから、絶対に逃さない」


 純がテーブルを強く叩くと、冴子の顔から血の気が退いていく。まったくの想定外だという顔をしていた。

冴子さんが父さんたちを殺したかどうかはまだ不明だ。でもこの反応を見ればどちらが正義の味方かは一目瞭然だった。


「いいかい冴子さん。今更過去の事件を洗い流すのはかなり難しい。でも、過去の事件がアンタの仕業じゃなきゃ、今回の事件は起こらなかった。違うか?」

「なに言ってるか、わからないわね」


 それでも鼻で笑う。これだけ言われながらも高慢でいられるのは相当キモが座っている。

しかし、目は笑っていなかった。


「交代」と純が手を出せば、凛子が近付き「了解」とその手を叩いた。


「今回の事件に戻ります。安城早苗、及び柳原士郎が殺された理由が疑問として残っている。つまり動機。でもそれは簡単なこと。安城早苗は二十年前の事件では容疑者の一人だった。だから浩二さんや香織さんとも顔見知りで、仲が良さそうに会話をしていた。今回のメンバーと二十年前のメンバーを照らし合わせると何人かは共通している。オーナー夫妻、安城早苗、そして白沢木冴子。実は事前にオーナー夫妻にあることを訊いておいた。早苗さんと冴子さんは同じ日に予約を取っている。最初から言っているように仮説でしかないけど、たぶん冴子さんがここに来てくれと言ったんだと思う。金を出すからとでも言えば、相手はバカンス感覚で来る。ではどうしてここに呼び寄せたのか。ここならば困ったことがあってもなんとかする自信があったから。誰かを殺しても、白沢木冴子というネームバリューが活きるから。殺人犯を見つけ出し、救世主になったことがあるから。建物の構造も把握しているし、咄嗟の行動でもある程度は自由がきくから」

「つまりそれを想定してたってことだよね」


 純はニヤニヤと冴子を見ていた。冴子は眼光で人が殺せそうなほどに睨みつけていた。


「ペンションに呼び出したというよりは待ち合わせたんだと思う。内容は、そうだな。二十年前の事件の証拠品があるから相談したい、とか早苗さんに言われたとかかな。でも仲良くしていると怪しまれるから、限界まで接触を避けた。夜十二時を過ぎて早苗と二人になり証拠品を見せられた。それは犯行現場に落ちていた冴子さんの持ち物だった。早苗さんは几帳面で生真面目な性格だから、その証拠品を冴子さんに渡さなかった。そして、殺された」

「言いがかりよ」

「でも正解。違う? 違うのになんで瞳が左上に動くの? 空想や想像は瞳が逆側に動くもの。だからアナタは今、過去の出来事を回想しているということになる」

「そんなペテン紛いの誘導に引っかかるもんですか」

「引っかかるっていうのはやましことがある人じゃないと出ない言葉」

「小娘のクセに……!」


 冴子が顔を真っ赤にして立ち上がった。純が「どうどう」と間に入るが、冴子の怒りは収まりそうになかった。


 もう一度、俺とコウちゃんが冴子さんを座らせた。想像以上に力が強く、気を抜けば腕をほどかれてしまいそうだった。


「大人しく聞いていれば好き勝手言って。私は何十年も探偵をやってきたのよ。今回の事件はさておき、全部私のせいにしないでちょうだい」


 ツバを飛ばしながら吼えていた。さきほどまでの優雅さや、探偵としての潔さなどは影も形も残っていなかった。


「物証がないから納得できないというのであれば、この証拠を提示する」


 凛子が取り出したのは一本のペンだった。赤いペンで、所々に金色の装飾が施されている。キャップがついており、ボールペンか万年筆かはわからなかった。


 目の色を変えたのは冴子だった。


「見覚えがあるみたいだけど、これは早苗さんが持っていたもの。正確には芍薬の部屋の金庫に入っていたもの。さっき金庫を開けたときに取り出しておいた。でもおかしなことに、掘られてる名前はsaeko.sとなっている。さて、サエコとは誰なのか」

「少なくとも私じゃないわね」

「もしもこれを返すために、早苗さんの方から冴子さんに連絡を入れたとする。なぜかと言えば、早苗さんは白沢木探偵事務所を調べてば冴子さんと連絡がとれるから。でも冴子さんが早苗さんを探すのはかなり難しい。でもなぜ早苗さんは今頃連絡をしてきたのか。きっとここ数ヶ月の間に、このペンが自分の物でないことに気がついた。きっと同じものを持っていたはずだけど、さすがにそこまでは調べられない。でもそうじゃなければペンを持ち帰る理由がない。そして理由は不明だけどそれまで使っておらず、しまいこんでいたんじゃないかと思う。忌まわしい殺人の記憶として引き出しの奥底にでも押し込んでおいたのかな」

「だからどうしたの?」

「ペン自体には冴子さんの指紋はないと思う。じゃあペンの中、インクタンクだったら? なぜ冴子さんの指紋が早苗さんが持っているペンから出てくるの? これが早苗さんのものだったとしてもインクタンクに指紋が残っているのはおかしい。ずっと金庫に入っていたのならばなおさら」


 ペンをポケットに入れた。


「でも待ってくれよ。ペンが手に入ればいいのに、なんで早苗さんを殺したんだ? それに早苗さんはなんでペンを渡さなかったんだ?」


 ふと、疑問を口にした。全員の視線が集まり「いや、擁護するとかじゃなくて」と思わず言い訳がましいことをしてしまった。


「たぶんだけど、早苗さんは頑として譲らなかったんだと思う。あれだけ几帳面な人だし、納得がいく説明が欲しかった。でも冴子さんの話には納得できなかったからペンを渡さなかった。二十年前の犯行現場にペンが落ちていたことを知っていたのは早苗さんだけ。それならば早苗さんを殺してしまえば問題ない。だって、二十年前と同じように誰かに罪をなすりつければいいんだから」


 凛子が冴子を見た。冴子は「そんなこと」と言ったが、それ以上の言葉を続けることができなかった。顔は青ざめ、唇が僅かに震えていた。


「反論がなければ、士郎さんの方に移りたい。でもこれに関してはとんでもない過ちを犯したと言っていい。急いでいたのかもしれないけど、あまりにも軽率だった。アナタの勘違いから柳原士郎は殺された」

「勘違い? なんのことを言ってるんだか」


 そう言いながらも、冴子の声は震えていた。


「冴子さんには前にゆかりさんのことを話した。ゆかりさんの旦那さんが二十年前の事件居合わせ、たくさんの疑問を持っていたと。その疑問の内容が、実は自分でも感じていたトリックの矛盾なんじゃないの? だからゆかりさんの旦那と思われる人間を殺した。ここで冴子さんに質問があるんだけど、あの人のことをフルネームで呼んでみてもらえる?」


 凛子がゆかりを指さした。ゆかりはまだ戸惑っているのか、なぜ自分が指さされているのかわかっていないようだ。でも俺には凛子がなにを言おうとしているのかがわかった。


「柳原ゆかりさんでしょう? それがどうしたの?」

「そう、ゆかりさんの姓は柳原である。しかし姓が同じだから婚約しているとは限らない」


 ハッとして、口を抑えた。


「あの人は柳原ゆかり。ゆかりさんは既婚だけど士郎さんは未婚。そうですね、ゆかりさん」

凛子がゆかりの方を見ると、ゆかりは「うん、そうだよ」と小さく頷いた。

「つまり不倫関係。だからゆかりさんの旦那ではない。私も昨日ケイゴから聞いた。士郎さんは間違いで殺された。これは私たちの落ち度でもあるけれど、二十年前の記憶を持ち、その記憶に疑問を持っている人間は士郎さんではない」

「そんな、馬鹿な……」

「アナタは「士郎さんが二十年前の事件で疑問がある」という話を聞いたとき、柳原という男がいたことを思い出した。けれど士郎さんかどうかまでは確かめることができなかた。だからアナタは突発的に士郎さんを殺さずを得なかった。そしてこのままいくとアナタはもう一人殺すつもりだった。犯人役として立てた浩二さんを殺そうとしていた、違う? だからアナタは昨日の夜、一階へ降りて浩二さんを呼び出そうとした。でもできなかった。理由は簡単。純が長時間浩二さんと話をしていたから」

「それもアナタたちの計画だって言うの?」

「なにかがあれば浩二さんと純のアリバイが成立する。私とケイゴのアリバイも同様。浩二さんを殺そうと思った場合、アナタは手が出せない。アナタは考えた。警察がきてからではどこかで穴ができてしまう。だからアナタは推理を急いだ。浩二さんを全員の前で監禁したかったから。その後、二十年前と同じく遺書を用意して自殺に見せかける。死人に、口なし」

「そんなこと考えてない。全部憶測じゃない」

「アナタでないのならばそれでいい。ならば反論してみて。私も純も立ち向かう覚悟がある。そもそも二十年前の事件がなければ今回の事件も起こらなかった、というのが私たちの結論。反論がないのなら楓の間にでも閉じ込めておきましょう。警察が来るまで少し時間がありますから」

「リンちゃんが言う通りだな。でもアンタは反論できない。反証するだけの材料がないからだ。アンタは二十年前、金城恭一を殺したときに探偵として死んだんだよ。そして今回の事件で、アンタは探偵としての二度目の死を迎えた。さすがにもう終わりだよ」


 凛子が細くため息を吐いた。緊張していただろう。心細かっただろう。あの小さな体でよく頑張った。


 純が凛子の腰に手を回した。きっと純だって考えることが多かったはずだ。不倫した女の娘として、俺のようにいじめられてきたはずだ。でも自分の時間を犠牲にして母の無罪を証明してみせた。


「アンタが、シロちゃんを殺した……!」


 飛び出しそうなゆかりをカオちゃんが抑えた。たぶん、最初から準備してたんだと思う。


 純と凛子がそっと抱き合っていた。純の性格でも緊張するのか、それとも凛子を気遣ったのか。


 俺も立ち上がり彼女たちのところに向かおうとした。俺の父さんを殺した本当の犯人を見つけてくれたのだ。お礼の一つでも言わなければいけない。


「お疲れ様。それとありが――」

「クソガキがああああああ!」


 その声に振り向くと黒い影が飛び込んできた。前傾姿勢で駆けてくる。右手になにかを持ち胸の前で構えていた。


 正直なにが起きているかはわからなかったが、身体が咄嗟に動いていた。


 彼女の右手を左手で取り、外側にひねりながら自分も外側に移動する。腕が拗じられるため、関節がバカになっていなければ武器を落とす。そしてさらに外側にひねると相手は膝をついていた。


「離して! どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」


 彼女はきっと命が尽きるまで自分が正しいと信じているんだろう。聡明で気丈で格好がよかった探偵は、高慢で不遜で自分勝手な殺人鬼だった。


「そんなことできたの?」


 凛子が不思議そうな顔で見下ろしてきた。


「ああ、まあね。ほら、俺って母子家庭だったから。俺が母さんを守らなきゃって思ってたんだ。ちゃんとした教室じゃなかったけどさ、近所に合気道とか柔道とか習ってるおじさんがいてね。それで教えてもらってたんだ」


 こんなところで活かせるとはさすがに思っていなかったが、人の命を守れたのだから習っていて良かった。


「ありがとう」


 彼女が微笑む。髪を耳にかける仕草も麗しい。なによりも、少しだけ震えている膝を見ると愛らしさがこみ上げてくるようだった。


「凛子も頑張ったじゃないか。本当にありがとう」

「お礼を言われるようなことはしてない」

「殺人犯を見つけ出した。俺の父さんを殺したやつだ」


 でも夢を見せてくれた。探偵役の助手という夢。誰しもが多少は夢見るポジションだが、夢かなってすぐに壊れてしまった。そっちの方がよかったのかもしれない。見た夢は覚めるのが世の常だ。


 コウちゃんとカオちゃんが紐を持ってきてくれた。冴子の手足を縛り、さらにイスに括り付けた。


 コウちゃんが冴子の前にイスを置いた。そして、どっかりと腰を下ろした。


「アナタが兄さんを殺した。本当に?」


 冴子は薄く笑いつつ息を吐く。


「それがなに? アイツは私の弟を殺したの。殺されて当然じゃない」

「兄さんは達夫さんを殺してない」

「殺したわよ! 殺してないならなんですぐ助けなかったのよ! なんですぐ警察を呼ばなかったのよ! それがなによりの証拠じゃない!」


 冴子は下唇を噛んでいた。唇からは血がにじみ出ていた。やがて鮮血が床に落ちた。きっと痛みなど感じていないのだろう。


 床に落ちたのは血液だけではない。彼女の双眸からはとめどなく涙が流れ落ちていた。


「兄さんはずっと悔やんでた。でも言えなかったんだ。俺のために、言えなかったんだよ」


 気がつけばコウちゃんも泣いていた。


「アナタ、達夫が死んだときに恭一がいた事を知っていたの? 知っていたのに黙っていたのね……!」

「ああ、知ってたよ。兄さんに何度も相談された。でも俺は兄さんを責めることなんてできなかった。兄さんは俺のために罪を背負って生きてくことを選んだんだ。あの正義感が強い兄さんが黙ってたのには理由があるんだ」

「正義感ですって? 笑わせないでよ! 正義感が強いのならすぐに助けたはずじゃない! そんなのは偽善だわ!」

「違う、違うんだよ」


 コウちゃんは泣きながら、浅く呼吸をし続けていた。嗚咽混じりの声が、俺の胸を締め付けた。


「兄さんも達夫さんと一緒で呼び出されたんだ。友人じゃない。兄さんはいつも無理矢理付き合わされてたんだよ。一緒に来ないとお前の弟がどうなってもいいのかって。アイツらはあの辺じゃ札付きのワルだった。だから逆らえなかったんだよ」

「でも過失致死だわ」

「罪を犯しても、俺を守ってくれたんだ」

「アンタを守っても達夫は戻ってこない!」

「それは、申し訳ないと思ってる……」

「今更そんなこと言っても意味なんてない。達夫は死んだ。恭一はそれを無視した。アンタたち兄弟の事情が事実を捻じ曲げるだけの力があるの? アンタたちは世の中の道理をぶち壊すだけの力があるの? ねえ、答えてよ」


 涙を流しながらずっとコウちゃんを見ていた。しかしは笑っていた。勝ち誇ったような笑みだった。彼女はコウちゃんを丸め込んだ、屈服させたと思っているに違いなかった。


「確かにすぐに助けなかったのはいけないことかもしれない。それでも俺は兄さんを嫌いになれない。俺は兄さんのことが好きだったから。俺のことを考えてくれたから罪を犯したんだ。アナタだってそうじゃないか。弟のためと思って兄さんを殺したんだろ。だったら、根本的な部分は同じじゃないのか?」

「同じなわけないじゃない! 同じなわけ、絶対ない……!」


 冴子の顔から笑顔が消えた。唇を、顎を震わせて泣いていた。嗚咽を殺すこともせず、大声で泣いていた。


 コウちゃんは「すまない」とポツリと言ってから立ち上がった。俺にはコウちゃん自身だけの謝罪には見えなかった。きっと兄弟としての謝罪だった。父さんはコウちゃんを守りたい一心で達夫を見殺しにした。コウちゃんも、すべてを知っていながら黙っていることを選んだ。あの言葉は、短い懺悔のための謝罪だった。


 コウちゃんは背を向け、カオちゃんに支えられながらカウンターの方へと歩いていった。大きなその背中が小刻みに上下していた。


 肩を叩かれた。純が神妙な面持ちで立っていた。「大丈夫かい」と、ポツリと言った。


「正直誰が悪かったとか、よくわからないよ。父さんを殺したのが冴子さんっていうのはショックだったけど、父さんは冴子さんの弟を見殺しにしたんだ」

「因果応報だと思うか?」

「そうは思わないけど、やりきれないなって」


 純がイスに座った。彼女は俺よりも苦しい環境で生きてきたのかもしれない。不倫の末、その不倫相手を殺して自殺した女の子供。そうやって後ろ指をさされながら生きてきた。


「切り替えろとは言わない。受け止めろとも言わない。それはいつか消化できる日が来ると思ってるからだ。だから今は、このままでいいさ」


 純がコーヒーをすすった。テーブルには人数分のコーヒーが並んでいた。純も凛子も疲れたのか、イスに座ってくつろいでいる様子だった。この状況でくつろげるというのもすごい。あんなことをした人たちだ、心臓には鋼の毛が生えていることだろう。


「どこからコーヒーを?」

「厨房にあった。たぶん香織さんが作ってくれてたんだろうね」

だとすれば冴子を縛り付ける前に作ったのだろう。俺が冴子を押さえつけ、コウちゃんがロープを探し、カオちゃんが労いのためにコーヒーを作った。

コウちゃんとカオちゃんがこのペンションをやってこれたのは、こういう気遣いが咄嗟にできるからだ。

「ちょっと待てよ。こんな悠長なことしてて大丈夫? あと何日かは一緒にいなきゃいけないんでしょ? 冴子さんの扱いを考えないと」

「大丈夫大丈夫。警察が来るよ」

「あと二日は来ないんじゃ?」

「最初はそう言ってたけど、朝連絡したら今日来られそうだってさ。でも誰にも伝えなかった。伝えてしまえば冴子さんがなにをするかわからなかったし、ゆかりさんの行動も読めなくなっちゃう」

「一言くらい言ってよ。ほぼ毎日酒盛りに突き合わせておいてのけ者だなんて」

「キミは冴子さんに気に入られてた。もといアリバイ作りや説得力のために使われていた。キミは嘘とか上手くなさそうだしさ、冴子さんに飼ってもらった方がこっちも動きやすいかなって。それに酒盛りに毎日突き合わせたのだって意味がある。キミのアリバイを作るためだ。キミが金城恭一の息子だってのは知ってた。だがキミが金城恭一殺しの犯人を突き止めていたかどうかまではわからない。キミが犯行に及ぶ可能性もあったし、それも阻止したかった。犯行を阻止した上で、キミが犯人にされる材料を減らせればウィンウィンだろ?」


 そこまで考えていたのか。つまりなんだ、純は途中から全部わかってたってことなのか。


 しかしいくつか疑問もある。


「動きやすいってどういうこと?」

「キミのことを構っているということは、キミも冴子さんのことを見ているってことさ。彼女がおかしな動きをすればキミだって疑問に思うだろ? 逆に冴子さんもキミの動きを監視してなきゃいけない。つまりアタシたちに向けられる意識が多少は緩くなるということさ」

「俺だって嘘くらいつけるよ。でもさ、俺が完璧に冴子さんに取り込まれてたらどうするつもりだったの?」

「まあまあ、いじけるなって。そのときはそのときさ。それにキミはやっぱり嘘が下手だよ。あと正義感もある。信じるに値する男だ」


 ニヤッと、純が笑った。


 外からサイレンの音が聞こえて来た。あれだけ高かった雪の壁を崩したのか。


「さて、新しい客人を迎えに行きますか」


 立ち上がってこっちを見た。親指を立てて、颯爽と入り口の方へと走っていった。おそらくは応援してくれたんだと思うが、なにに対しての応援かまではわからなかった。


「いつまで立ってるのケイゴ」


 俺と純の話が終わるのを待っていたのかもしれない。


「ここ、空いてるわ」


 凛子が隣のイスをポンポンと叩いた。座れ、という意思表示だ。


 彼女の隣に座り、コーヒーを飲む。いろんなことが駆け抜けるように過ぎ去った。ため息をつきたくなるが、その衝動を抑えて背伸びをする。殺人だの事件だのは二度とごめんだが、凛子や純といた時間は楽しかった。それが終わってしまう。なぜだか急に泣きたくなって目頭を抑えた。


 父さんの死で一番悲しんだのはコウちゃんだ。同時に、肩にかかる重圧も増えた。父さんが死んだとき、コウちゃんは考えたに違いない。父さんが一人の男を見殺しにした対価を支払わせられたんじゃないか、と。


 もしかしたらカオちゃんも知っていたんじゃないだろうか。だから冴子との会話にも口を挟まなかった。話が終わったあとも、背中をさすりながらコウちゃんを支えていた。当事者でないカオちゃんがなにを考えて今まで生きてきたのかはわからない。しかし当事者でないからこその苦しみはあったはずだ。


 そうやって考えているうちに一つの疑問が、閃くように頭を支配した。では自分はどうだったのか、と。


 父さんが死んだのは俺が一歳のときだから、当然俺は覚えていない。写真の中でしか見たことがない男性のせいで、俺は何年もイジメを受けてきた。最初はイジメられている理由そのものがわからなかった。年を重ねていくごとにその理由を理解することができるようになった。そして、少なからず憎んだ。母さんだって謂われのない誹謗中傷にさらされた。父さんを恨むのだって時間の問題だった。あいつは死んでるのになんで俺たちを追い詰めるんだ。俺と母さんはこんなに苦しんでいるのに、と。


 しかし父さんは浮気もしていなかった。だからといって今までの過去が消えるわけではない。結局、俺には友人と言えるような友人はほとんどできなかった。他人に拒否されるのがいやで、クラスメイトたちには自分から話しかけられなかった。それでもアルバイトなどをしているうちに話しかけること自体は問題なくなった。信頼はできないし、友人になろうとは思わなかった。恋人は何人かいたが、それは女性の方から好意を持ってくれたから付き合っただけだ。俺は今まで自分から誰かを好きになったことなどなかった。


 今、俺は父さんに対してどんな感情を抱けばいいのだろう。どんな顔をすれば周囲の人間を納得させられるだろう。どうやって許せば、こんなことを考えなくて済むだろう。


 コーヒーを一口飲んだ。普段飲まないブラックコーヒーはやたらと苦く感じた。


 カップをテーブルに置いた瞬間、肩が引っ張られた。凛子は自分の腿をそっと二度ほど叩いた。「いいのか?」と訊くのは野暮なのかもしれない。

身を任せて凛子の太ももに頭を乗せた。目を閉じると、少しだけ気持ちが楽になった。


 涙が溢れてきた。自分の父が不倫をして、殺されて、そのせいで俺はいじめられた。恨んだこともあるし、その件で母さんと衝突したこともある。その半面、写真の中の父さんが不倫なんてするとは思えなかった。だが俺は父さんを知らないから信じきれなかった。父さんは信じられなかったけど、母さんやコウちゃんは信じられた。それだけは事実だ。


 ようやく心から信じることができるんだ。優しくて、人望が厚くて、お人好しだけど頼りにされてた。コウちゃんを助けるためとはいえ、一人の人間を見殺しにしたことは許せない。でもそれは父さんの人格とは関係ないはずだ。俺は父さんの息子だって胸を張ってもいいはずだ。


「よしよし」


 頭を撫でられた。手の感触は柔らかく、撫で方は非常に繊細だった。


 子供のようにあやされるのは好きじゃない。母さんを守るのは俺の役目だと、早く大人になりたいと思い続けてきたから。そんな気持ちも、凛子に撫でられ薄れていった。俺が知らないだけで、彼女の手は魔法の手なのかもしれない。


 入り口から警察官が入ってきた。殺人事件という非日常から開放される時間がきた。夢から覚めて、現実に戻るのだ。この美しい女性ともすぐにお別れだ。これは泡沫の夢。彼女には彼女の、俺には俺の生活があるのだ。

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