インターバル 二十年前~幡辺浩二~

「ねえ浩二、お義兄さんまだ起きて来ないの?」


 振り向くと、香織が眉根を寄せ、顎には梅干しを作っていた。恭一が起きてこないことに腹を立てているということではなさそうだ。


「おかしいな。兄さんは中学時代から寝坊なんてする人じゃないのに」

「よく知ってる。アンタと違って几帳面だし」

「夫に向かってそりゃないよ。まあ間違ってはいないけど」

「自覚あるんじゃない」

「じゃあちょっと見てくるよ。普通のお客さんならマズイけど、実の兄なら部屋に勝手に入っても別に問題ないだろうし」


 香織からマスターキーを受け取り、軽い足取りで二階へと駆け上がっていった。


 兄を起こしたことは何度かある。といっても学生時代に数えるほどだ。だからこそ少しだけ嬉しく思っていた。


 恭一は優しく、勉強もでき、趣味でスポーツも嗜んでいる。今でも仲が良い兄弟だと自信を持って言える。そうでなければ自分のSOSに対してペンションに駆けつけてはくれなかっただろう。


 自慢の兄であると同時に、代え難い友人のようにも思っていた。


「兄さん、もう朝だよ」


 ノックを四回した。これは兄に教えてもらったものだ。部屋をノックするのなら四回にしろと言われた。それが礼儀だと。


 中からの返事はない。


 兄は寝起きがいい方だ。眠りが浅いわけではないが、自分に掛けられた言葉でばっちり起きる。実家では階下から起こしてもちゃんと起きてくる。酒を相当に飲んでいたりしない限りは、だが。


「まあこんな日もあるよな」


 マスターキーで百合の間の鍵を出した。「さあ朝だぞ」と言いながらドアを開けた。


 ムワッと、熱気が吹き出してきた。だがそれ以上の出来事が眼の前に広がっていた。


 恭一がうつ伏せになって倒れていたのだ。そして床には赤い水たまりが広がっている。


「に、兄さん……」


 駆け寄り、肩を揺すってみた。しかし反応はない。


 嫌な予感がして身体を仰向けにさせた。頭の中が真っ白になって、なにも考えられなくなってしまった。


 仰向けになった恭一は、瞼が限界まで開かれ口は半開きだった。シャツには無数の穴が空き、大きな赤いシミが広がっていた。


 後ずさり、階段の手すりに寄りかかった。呼吸が荒くなる。顎が、脚が震えてきた。


「どうしたんですかオーナー」


 話しかけてきたのは白沢木冴子だった。


 彼女は百合の間に視線を移したあと「人を呼んできてもらえますか」と言った。


 浩二は素早く何度も頷き、転がるように階段を降りた。


 なにが起きたのかなんてわかっている。理解している。あんなものを見て理解できない人間の方がおかしい。


 だが納得はしていなかった。昨日まで楽しそうに笑っていたではないか。自分の食事を美味しいと言って食べいたではないか。


 気がつけば、カウンターに寄りかかって泣いていた。心配して駆けつけてきた香織に事情を説明した。香織は「ここで待ってて」と言った。しかし浩二は「俺も行く」と、二人で二階に上がった。


 浩二の様子もそうだが、百合の間は階段に一番近い部屋だ。階段を使おうとしたらイヤでも百合の間を見てしまう。ペンション内が慌ただしくなるのも時間の問題だった。気がつけば全員が百合の間の前に集まっていた。


 百合の間には金城恭一が仰向けで寝そべっていた。瞼は開いたままで、腹部は赤くそまり血液は床にも広がっていた。誰が見てもただ眠っているだけには見えない。彼が息をしていないことは明らかだった。


 さきほどと変わらない兄の姿を見て、胸の奥底から感情が溢れてきた。


 まだ話したいことがたくさんあった。酒を酌み交わし笑い合う。そんな日が長く続くと信じていた。だから腰を据えて自分の気持ちを伝えたことはなかった。


 たくさん感謝している。ケンカをしたこともあったけど、兄として、友人として誇れる人だった。ありがとうという言葉は言い足りていない。教えてもらっていない遊びもある。まだ一緒にいて欲しかった。


 さよならさえちゃんと言っていないのに。


「兄さん!」


 こみ上げた感情に、催促されるように身体が動いた。腕を伸ばし、脚を上げた。だが、三歩ほど進んだところで止められた。飛び出そうとする浩二を止めたのは冴子だった。


「お気持ちはわかりますが、ここで現場を荒らしてしまうと犯人を突き止められなくなります。落ち着いて、私に任せて」


 幡辺浩二は身体が大きく、山男と呼ばれるに相応しい風体をしていた。口元に生やした髭も一役買っている。そんな大男だが、冴子を前にして歩みを止めた。


 感情の高ぶりを抑えきれたわけではない。冴子のせいで前に出られないわけでもない。温かく小さ手が、自分の右手を強く握りしめていたから踏みとどまった。


「香織……」

「お願い、落ち着いて。お願いよ」


 その言葉が引き金となり、浩二の身体は弛緩した。わかっていたからだ。自分が暴れ狂ったところで、兄はもう戻らない。


 冴子は部屋に入り、しゃがみ込んだ。恭一の遺体をしげしげと見つめていた。

恭一は男性としては普通の体型だ。身長は百七十ちょっと、細身で、髭も生やしていなかった。浩二とは対照的な見た目だった。


 服をめくって身体の様々な部分を観察する。特に腹の傷は入念に見ていた。半身浮かせてうっ血の状況を確認。手や足の死後硬直を確かめた。


 落ち着き払った彼女の動きに、なぜか腹立たしさを覚えた。自分の兄が死んだのに、どうしてこの人はここまで冷静でいられるのだろう。


 右拳を握り込み、その怒りを無理矢理押し込めた。左手を握る香織の手がその怒りをわずかばかりだが沈めていた。


 冴子は立ち上がり部屋を見渡した。


「これは明確な殺人事件です。これから簡単な現場検証を行いますが、皆さんには是非協力して欲しい。私が不審な動きをしないように、観察しておいてください。同時に、なにかおかしな点があったら教えてください。私はこれ以上の被害がでないように努力します。私を、信じてください」


 たくさんの瞳が冴子のことを見ていた。浩二もその一人だった。


 この人になにができるのか。どんなことをしてくれるのか。そんな考えが脳裏をかすめる。だが同時に彼女の自信満々な姿は勇気や希望というものを与えてくれた。


 悲しいという気持ちは強い。怒りも当然ある。腹の底から沸き上がる、マグマのような感情はどうしたって抑えきれない。それでも、冴子の瞳には力があった。それほどのカリスマ性が備わっていた。


 冴子はニトリルグローブを手にはめた。深呼吸を一つしてから、部屋の中を散策し始めた。

 白沢木冴子二十九歳、冬の出来事だった。

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