二日目・7
安城早苗の死体はそのまま放置してある。季節が季節なので、暖房をつけなければ安置するにはちょうどいいという冴子の意見だった。鍵はをかけてあるので入ることはできない。入りたい場合はコウちゃんに鍵をもらわなければいけなかった。その上、勝手なことをしないように三人以上で部屋に行くのが原則となる。これを決めたのも冴子だ。探偵事務所の所長というのも頷けるほどに仕切りが上手かった。
士郎とゆかりは食事が終わって二階に上がってしまった。ビールやワインを買い込んでいたので、今日はもう降りてこないだろう。
純と凛子もコーヒーを飲み終わってから部屋に帰っていった。残っているであろう酒をこれから消費するのかもしれない。誘われなかったことに関しては残念だが、彼女たちにとっては俺も容疑者だ。迂闊に部屋に入れたくないという思考が働いたと考えれば言葉もない。
「キミ、これから暇?」
テーブルを拭いていると冴子が声をかけてきた。
「そうですね、片付けさえ終わっちゃえば。また十二時まで起きてなきゃならないけど、コウちゃんたちが寝ちゃえば問題ないんで」
「そう。じゃあそれが終わったらちょっとお話しましょうよ。聞きたいことがいくつかあるの」
「いいですよ。ここでいいんですか?」
「ここでいいわ。殺人事件が起きたんだから、お互いの部屋に行くのはナンセンスでしょ。私みたいなオバサンと密室っていうのも気持ちいいものじゃないだろうし」
「そんなことありませんよ。冴子さん綺麗だし、男冥利に尽きるってもんですよ」
「口が上手いこと。そうやって何人落としてきたの?」
「女の子を口説き落とすような度胸はないですよ」
「口が上手いのは否定しないと」
左の手の平に、右の人差し指でなにかを書き込むフリをした。
「メモいりませんから」
「そう? 個人情報は探偵にとって重要だわ」
「こんな情報無意味ですって。口が上手いのだって、接客業なんで多少は必要ですよ」
「面白い子ね。片付けはどれくらいで終わりそう?」
「もう終わりですよ。テーブル拭いて最後なんで」
最後のテーブルを拭き終わり、布巾を片付けてから冴子の元に戻った。テーブルの上には手帳を広げ、ボールペンを右手に持っていた。
「それで話ってなんですか?」
「昨日の夜のこととか訊きたかったのよね。十二時まで下にいたのよね? そのときに二階から物音とか聞こえてこなかった?」
「聞こえなかったと思うんですけど、正直自信はないんですよね」
「なにか理由が?」
彼女の目付きが変わった。こういう話になると目つきどころか顔つきさえ変わっているような気がする。
「昨日から吹雪いてたじゃないですか。このペンションって古いんで、ドアとか窓とかが風で揺れるんですよね。そういう雑音に紛れちゃうと、さすがに自信がないというか。でもなんでそんなこと?」
「物音でも聞こえればなにか変わるかなと思ってね。物音は聞こえなかった、と」
俺が思った以上に几帳面なのか、冴子は手帳にメモを取っていた。年季が入った手帳カバー。中身を入れ替えて使うタイプのものだ。
「じゃあ次の質問。マスターキーは何個あるの?」
「コウちゃんとカオちゃんで一つずつですね。でもどっちかが持ってるときは、必ず持っていない方が金庫にしまうって決まりになってるんですよ。金庫は六桁の暗証番号が必要なんで、実質マスターキーは一つみたいなもんです」
「キミは暗証番号を知ってるの?」
「俺は知らされてないですね。他人のキャッシュカードの暗証番号知ってるみたいな感じありません? そういうの不安でイヤなんですよね。教えてくれるって言われても断ります。なによりもただのアルバイトですから」
「善人だこと。これが演技じゃないとすると、解離性障害でもないかぎりはキミに殺人は無理ね」
「冴子さんにそう言ってもらえると安心できます」
「まだ容疑が晴れたわけではないから安心は言い過ぎかな。でも私見から言わせてもらえばキミは白。だからちょっとお願いされてくれないかな」
「内容にもよりますけど、俺にできるなら是非」
胸の高鳴りを感じていた。ときめいているわけではない。この流れから察するに、俺が思った通りの展開になる。そしてそれを願っている。
「期間限定で私の助手をやって欲しいのよ。協力して犯人を探しましょう」
じんわりと、胸の奥が熱くなってきた。事件を明快に解決する探偵の助手。きっと誰もがこの展開に憧れるはずだ。
「俺にできることがあれば協力します」
「決まりね。明日からお願いするわ。雪の積もり具合からすると、たぶん明日もここに泊まることになりそうだから」
「明日もまた現場検証を?」
「一度足を運んだくらいじゃダメよ。現場には何度も足を運ばないと。で、明日は大丈夫なの?」
頭の中でスケジュールを確認した。スケジュールというほどのものがないことに気がつくまで少しだけかかった。
「わかりました。自由時間であれば協力できます」
「調べたいことができたら声掛けるわ。それじゃあ、私はお風呂に入って寝るわね」
「はい。俺も留守番に戻ります」
冴子は一度部屋に戻ってから、アメニティグッズを持って風呂場の暖簾をくぐった。ちょうどその後で純と凛子が風呂に向かっていった。カウンターに座る俺を見て純が手を挙げた。一呼吸間があって凛子も手を挙げてくれた。コミュニティ能力の高さとはこういうところに現れるんだろうな、なんて思いながら俺も手を挙げた。
冴子、純、凛子が風呂から出てくるのは同時だった。楽しそうに話をしている姿は、このペンションで殺人が起きたことを忘れさせてくれた。
テレビを見ながら時間を潰す。スマートフォンはまだ圏外のため、ゲームもネットもできない。暇をつぶす手段に乏しく、頬杖をついて画面を見続けるしかなかった。
十二時になってコウちゃんが起きてきた。眠そうなのはいつものことだが、見るからに疲労が蓄積している。足取りは重く、ため息をついていた。覇気が感じられず、肩を落としていた。
「疲れてるならもうちょっと寝ててもいいよ。このペンションにとっては俺よりもコウちゃんの方が大事なんだから」
「いや、大丈夫だ。それに起きちゃったからな。香織が起きて来るまでは起きてるさ」
「無理しないでね。オーナーが倒れたら大変だ」
「胸にとどめておく。んじゃお疲れ」
「必要があったらいつでも呼んで。おやすみ」
肉体的な疲労よりも精神的な疲労の方が強いのだと思う。父さんが殺されたこのペンションを継ぐのだって勇気が必要だ。コウちゃんにとって父さんは実の兄なのだ。仲が良かったからこそ父さんは手伝いに来たし、父さんが死んだ後でもコウちゃんは俺の面倒を見てくれる。そこで更に今回の事件だ。精神的にもかなり負担になっている。少しでも軽くしてあげたいけれど、俺にできるなど限られていた。できることがあるとすれば、早く犯人を見つけ出すことくらいだった。
コウちゃんの精神力が保つことを信じて、俺は階段を上った。二階は酷く冷え込んで、けれど吐く息の白さはよく見えなかった。
部屋の前に立つと、ポストイットがドアに張り付けられていた。
『終わったら来い。昨日の続きだ。 純』
口からでる言葉はフランクなのに、どうして文字に起こすとこんなに語っ苦しい文章になるのだろう。あの人のことがよくわからない。
自室に戻り暖房をつけた。さすがにすぐには暖かくはならない。布団も冷たいので、この部屋で暖をとるのは難しかった。
倉橋純という女性は少し苦手だが、今日の申し出は非常にありがたかった。部屋が暖まるまでは最低でも三十分程度要する。それまでは世話になろうと、二人の部屋に向かうことにした。
ドアをノックして「来たよ」と言うとボソボソした声で「合言葉は?」と返ってきた。
「そういうの決めてないでしょ。寒いから早く入れてくれ」
体中がガタガタ震える。早く入れてくれないと凍死の二文字さえ見えてきそうだった。
ドアが開く。凛子が「どうぞ」と半身を開いた。ティーシャツにスウェットでラフな格好ではあった。そんな格好であっても違う一面が見られたというだけで嬉しかった。
合言葉に関しては純かと思ったが、まさか凛子のイジワルだったとは。ドア越しではどちらの声か判断できない。
部屋には入っていないが、暖かい空気が身体をほぐしてくれていた。
「お、今日も来たな飢えた獣が」
ベッドに座っている純が言った。暑いのか、長袖のティーシャツにホットパンツ姿だった。顔は赤らんでいて、昨日と同じくテーブルにはビールや酎ハイの缶が無造作に置かれていた。
「いやらしい目で見るなよ」
サッと、純が自分の胸元を隠した。
「寒さに対してちょっと無防備すぎやしないかって考えてただけだよ」
「少しは気がある振りとかできないわけ?」
「メリットがない」
「可愛くないなお前」
眉間にシワを寄せ、今にもケンカをふっかけてきそうだった。
「ケイゴ、こっち」
凛子に手を引かれ、イスに座った。隣に座ると考えただけで気が引き締まる思いだ。
「顔赤いけど、飲んできた?」
「いや、いきなり暖かいことに入ってきたからじゃないかな」
キミのせいだ、なんて言えるわけがなかった。
「そう。なに飲む?」
「そこのぶどうの酎ハイで」
「わかった」
プルタブを起こして手渡してくれた。指先が触れると、全身を電気が駆け抜けるようだった。が、凛子には気にした様子はなかった。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
今日はいちごの酎ハイを飲んでいるようだ。純とは対局に、凛子はあまり顔に出ない。大学でも飲み会などはある。そのときはどうしているのかが気になった。簡単に男についていくような人ではなさそうだが、胸の中には嫌な気持ちが充満していた。
「えっと、お酒、こんなに買い込んで来たの?」
「昨日のは持ってきた。今日のはここで買った」
「昨日のって、あったやつ全部飲んだの?」
「全部は飲んでないけど、三分の二くらいは終わった」
それがなにか、とでも言いたげな表情をしていた。彼女と心を交わすには膨大な時間が必要なのだと思う。そもそも理解すること自体が難しい。
純は明るく社交的で友人も多く、遊びもたくさん知っている。俺は人として特筆すべき点はないが間違いなく「普通」だ。家がお金持ちというわけでもなく、かと言って金がないわけでもない。多くも少なくもない交友関係、太いコネなどはないし、酒は嗜む程度でギャンブルなどにも手は出さない。三流大学だし学力が高いわけでもない。特別察しが良かったりすることもない。それでも人並みの恋愛も経験した。
しかし凛子は違う。彼女は「普通」ではない。表情が希薄なところも、感情を表に出さないところも、かと思えばおちゃめに振る舞うところも。行動と思考がちぐはぐで予測ができないのだ。だから理解できない。だから、きっと惹かれる。自分が持っていないものを持っているから。自分がなれない人物像だから。
「顔になにかついてる?」
「え、あ、いや別に? でもなんでそんなこと訊くんだ?」
「ずっと私のこと見てたから」
「うん、いや、その」とどもってしまう。上手い言い訳が見つからず「綺麗だなと思って」と言った。
酒のせいか、つい口走ってしまっていた。言うべきではなかった。これでは凛子の上辺だけしか見ていないのと同じだ。凛子は「可愛い」「綺麗だ」「美しい」という言葉は言われ慣れているはずだ。その度にその人物がどういう人間であるかを見てきたに違いない。
「そう、嬉しいわ。ありがとう」
だが返事は思ったよりも「普通」だった。
「お、おう」
なんだか気恥ずかしくなり、また上手く返すことができなかった。
テレビの音に混じって、雪の塊が屋根から落ちる音がした。防音が施されているおかげで音もあまり大きくない。
「おい、アタシの前でいちゃつくなよ」
「いちゃついてないから」
反射的に純に反論した。彼女は楽しそうに、嬉しそうに笑っていた。
「あんまり考えすぎない方がいいぞ。リンちゃんは結構ちょろいからな。もちろん信用した相手にだけな。あとはそうだな、人を見る目があるな」
「人を見る目は、確かにありそうだけど」
「ちなみに言っておくが、リンちゃんは褒められても基本はありがとうしか言わないからな。しかもとんでもなく拒絶するみたいに、冷たく言うんだ。ケイゴはまだ可能性あるから気を落とすな」
純はワインの瓶をラッパ飲みしていた。たぶん純はあまり酒が強くない。強くはないが味が好きであったり、温かくなってふわふわする感覚が好きなのだ。
今日ここに来るまでは「純が凛子を付き合わせている」のだとばかり思っていた。でもたぶん「純が凛子に付き合っている」のだ。凛子は家では飲まないと言っていた。でも飲み始めればそこそこの量を飲む。だとすれば、信頼が置ける人と話をしながら飲むのが好きなのだと考えられる。
ふいに、純に対しての見方が変わったことに気がついた。さきほどまでとは真逆の思考。そこへ至った本人の俺でさえ驚いていた。
「間違ってたら悪いんだけど質問していい?」
「スリーサイズと初体験の年齢以外なら」
「そんなどうしようもない質問はしないから」
「うるせえな、早く質問しろよ」
話を引っ張ったのはどっちだよ、と言いそうになった。その言葉を押し留め、本題の疑問を口にした。
「もしかしてさ、純って友達少ない?」
「アタシが友達少ないと思う? ケイゴは見る目ないな」
「なんとなくだけど。根本的な部分は凛子と一緒なんじゃないかなって思って」
「アタシはリンちゃんほどコミュ力低くないよ?」
「社交的だろうなっていうのはよくわかるよ。でもそれが発揮されるのって初対面だけじゃないのかなって。俺もそうだし、他の宿泊客に対してもそう。でも凛子に対して明るくてなんでも言えるのは、凛子のことを信用してるからじゃない? それは初対面の人と会話するのとは違うように見えるんだよ」
一気に酔いが覚めたのか、純が目を丸くしていた。顔は依然赤らんではいるが、表情が素に戻っていた。
「なんでそう思った?」
口は笑っているけど目は笑っていなかった。
「なんとなくだけど。だって友達多くて本当の意味でコミュ力が高かったら、従姉妹の凛子と一緒にここには来ないでしょ? まあ確かに凛子とめちゃくちゃ仲がいいっていうのはよくわかるし、それなら従姉妹とも旅行には行く。でも凛子と一緒に旅行して、楽しく話ができるっていうことは、たぶん根底にあるものが同じなのかなって思ったんだ。まあそう考えると俺がここにいる理由がよくわからないけど」
初対面の時間は過ぎた。ここに飲みに来るのも二日目で、顔を合わせれば会話をするような仲になった。
缶の残りを飲み干した。すると、すぐに凛子が新しい缶を差し出してきた。次はみかんの酎ハイだった。
凛子は鼻を膨らませていた。なにに興奮したらこうなるんだ。
「同じ匂いがしたからだ」
そんなとき、純から答えが返ってきた。
今まで見せたことがないような笑顔だった。場を和ませるような柔和な笑みとは違う。馬鹿笑いするような歯を見せた笑顔とも違う。社交辞令としてのアルカイックスマイルでもない。なにかを見透かそうとするような、試しているような、それでいて信頼する部下を慰める上司のような微笑みだった。
「同じ匂い、か」
「意味はわからなくていいぞ。直感に近いもんだからな」
純が大きく伸びをした。無防備な仕草に釘付けにされそうになったが、慌てて目を逸らした。
「さて、そろそろ寝るか。いい時間だからな」
「しっしっ」と手で追い払う仕草をした。出て行けということだろう。
「呼び出しておいて酷くない?」
「バカ言うんじゃないよ。できるだけ一緒にいたほうが今は安全でしょ? そういうことだよ」
これでも心配していた、という意味だと捉えた。逆を言えば彼女たちは俺が犯人ではないと考えている。俺も彼女たちが犯人だとは思いたくない。図らずともお互いの思考が合致している。
「それじゃあ帰るよ。おやすみ」
「おう、いい夢見ろよ」
「おやすみ、ケイゴ」
二人に見送られて部屋を出た。寒さが肌を突き刺して、やがて切り裂かれてしまうんじゃないかと勘違いしそうだった。
二の腕を摩りながら部屋に戻った。昨日と同じようにベッドに飛び込む。まどろみが心地よく包んでくれる。酒が入ると眠りの質は落ちる。が、なにも考えることなく入眠できるのは間違いなかった。その点だけは二人に感謝したい。殺人のことも、雪に閉じ込められたことも忘れられる。不安な気持ちをかき消すように、眠りが脳内を支配していく。やがて、意識がプツリと切れた。
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