二日目・5

 柳原夫妻は食後すぐに部屋に帰ったらしい。コウちゃんとカオちゃん、そして俺は仕事を分散して行う。コウちゃんはキッチンや地下室の点検だ。特に地下室にあるボイラーが止まってしまっては皆凍え死んでしまう。カオちゃんはデスクワーク。入出資の計算やら食料の検品もある。俺は基本的に掃除などの雑務だ。しかしカオちゃんには「もう少し休んでてもいいわ」と言われた。


 食後のコーヒーを飲みながら、女性三人の会話を聞いていた。話に花を咲かせていたのは冴子、凛子、純だ。なぜ俺が輪の中にいるのかはなはだ疑問ではあるが、冴子と純の強引さ故だ。


「へー、もう三十年近くやってるんですね。探偵って大変そう」


 目を輝かせながら純が言った。


「現場はもう引退よ。来年は五十歳だもの」


 まんざらでもなさそうに冴子が応える。純がどれだけ喋り上手なのかがよくわかる。相手が誰であっても純は楽しく話をするのだ。素晴らしい才能であり、恵んで欲しい才能でもあった。


「もっと若いかと思ってました。なにか美容の秘訣とかあるんですか?」

「秘訣なんてないわよ。厚化粧で誤魔化してるだけ。すっぴんなんてボロボロよ。若い頃から昼夜問わず駆けずり回ってたもんだから、健康もクソもあったもんじゃない」

「殺人事件とかってやっぱり多いんですか?」

「そんなの、年に二度三度って感じよ。それに殺人事件に探偵を使うような警察、今どきいないわよ。証拠が不十分で行き詰まりそうになったとき、知り合いから声がかかるくらいなもの。それ以外は浮気調査に身辺調査、ペット探しとか情報収集が基本業務になる。だから快刀乱麻に事件を解決するような探偵を夢見た若者は、二年くらいでだいたい辞めてくわね」


 冴子は肩をすくめ、自嘲気味に笑った。諦めだったり、負い目だったり、そういったものを回想するようなどこか遠くを見る瞳をしていた。


「つまらなくはないのよ、絶対に。人のいろんなところが見えるようになるし、いろんな人と交流が持てる。どういうタイプの人間にはどういう対応をしたらいいだとか、人間という生き物の法則性みたいなものも見えてくる。大変だけど、人っていうのは忙しくしているとそれだけしか考えられなくなる。忘れたいことを忘れさせてくれる。向き不向きはあるけど、私には合ってたわね」


 イスの背もたれに体重をかけ「後悔があるとすれば独身ってことくらい」と声を出して笑った。


「そういうのいいですね。憧れます。忙しいといろんなことを忘れられるっていうのは同感だし」

「純ちゃんはどんな仕事してるの?」

「アタシはフリーライターですよ。アーティストの記事を書いたり、話題のスイーツ特集を組んだり。小遣い稼ぎに知り合いの書き起こしなんかも請け負ったり。フリーライターなんて結局は自営業。全部自分でやらなきゃいけないし、いつも金欠で困っちゃう」


 自分の仕事を自慢したいのか貶したいのかわからない。ダメなところを突いて笑い、いいところを真剣に語っている。俺もこんなふうに、仕事に対して振る舞う日が来るのかもしれない。先輩たちの話はよく聞いておこう。


「若い頃なんてそんなものよ。恋人は?」

「今は考えられないですね。特に今は大きなプロジェクトが通ったので。最後まで突き通せれば、企業にヘッドハンティングされる日も近いですね」

「じゃあ帰れないと困るわね」

「本当に。ここへ来てもパソコンにかじりついてますけど、帰れないと仕事をしてる意味もなくなっちゃう」

「でも忙しいのによく来ようと思ったわね。大丈夫なの?」

「リンちゃんが行きたいってきかなかったのと、アタシもたまには羽伸ばしたかったんですよ。息抜きでもしなきゃ破裂しちゃう」

「私もよくやったわ。仕事中に抜け出して遊びに行くの。そういうときって余計に楽しいのよね」

「わかります? やめられませんよねえ」


 二人は意気投合していた。永遠におしゃべりを続けられるんじゃないかと思うほど話題が豊富で相槌も息ピッタリだ。コーヒーを飲むタイミングまで一緒だった。そして天災のように沈黙がやってきた。黙るタイミングまで一緒だと居心地が悪くて仕方がなかった。


 居心地が悪いのもあったが、頭の中に疑問が降って湧いた。


「そういえば。よかったんですか、柳原夫妻を勝手に行かせちゃって」


 俺が言うと、冴子の顔がこちらを向いた。


「仕方ないわ。急に言れても納得できないでしょうし。楽しかったはずの旅行が、いきなり非日常に変わったんだから。そりゃ誰だってびっくりするわよ」

「でもなんていうか、ゆかりさんってこういうところに来るタイプに見えませんよね。どっちかというと、もっとゲレンデに近い高級ホテルの方が好きそうっていうか」

「ああ、それならアタシ聞いたよ」


 そう言って、純はさらに続けた。


「なんか士郎さんが昔ここのペンションを使ったことがあって、料理が美味しくて雰囲気がいいって。そう言われて興味が出たんだって。ただ、士郎さんが泊まったときにちょうど殺人事件があったらしいんですよね。あんまり楽しめなかったんだとか」

「その殺人事件って、二十年前の?」


 冴子が前のめりになって訊いた。


「みたいですよ。犯人は捕まったけど、なんか腑に落ちないことがあったとかなかったとか。なんだっけな、携帯電話についていたキーホルダーがどうとか。士郎さんに直接聞いたわけじゃないんですけどね」

「腑に落ちない、か。あの事件は大変だったもの、そう思うのも仕方がないわ」

「大変って、その場にいたみたいな感じですね」

「その場にいたのよ。二十年前の事件を解決したのは私なんだから」

「金城恭一殺し、ですか」


 次に前のめりになったのは純だった。俺は冴子から視線を外し、ペンションの入り口の方を見ていた。


「ええ、そうよ。ここのオーナーのお兄さんだった。痛ましい事件だったわ。ってどうしたの? 恵悟くん、顔が怖いわよ」


 指先が冷たくなっていくような感覚があった。背中にはピリっとした緊張感。心境を言語化するのが難しく、なにから話していいかさえわからなかった。どう伝えれば角が立たないだろう。


 でもやはり、そのまま思考を言葉にするのが正しい。


「金城恭一は俺の父です」


 ようやく吐き出したのは、なんてことないことだった。そんなことを冴子に言ったところでなにかが変わるわけじゃない。


「キミが金城さんの息子? ほんとに?」


 やや間があってから「甥って、そういうことなのね」と一人で納得していた。


「金城さんは最後までキミや奥さんのことを愛していたわ。二人の写真が遺留品から出てきた。いや、最後まで持っていたわ。あれは事故みたいなものなのよ。一緒に酒を飲み、その勢いで身体を重ねてしまった。そしてたった一度きりであったにも関わらず犯人は金城さんを本気で愛してしまったの。信じられないかもしれないけど、事実は受け止めなければいけない」

「大丈夫です。もう二十年も前のことだし、俺が一歳のときのことなんで。気にしてません」


 嘘だ。学校で後ろ指さされたのは忘れられないし、あの気丈な母さんが泣いているところを何度か見た。心の中はぐちゃぐちゃで、平静を装うことはできても大丈夫だと言える心境ではない。


「ケイゴ」と、凛子が言った。視線を移すと、彼女はいつもと変わらず無表情だった。


「アナタの心を理解するなんて私にはできない。でも弱音を吐くなとも、誰かにより掛かるなとも言わないわ。自分を平常に保つための努力をしたり、誰かに力を借りるのは悪いことじゃない。話くらいなら、いつでも聞く」


 まだ出会って一日二日の関係なのに、こんなにも心配されている。それがなんだか嬉しくて、目頭が熱くなってしまった。そういえば凛子は人を励ますような仕事がしたい、だから臨床心理学を学んでいると言っていた。この人に悩みを打ち明ければ、少しは気が楽になるだろうか。


「キツくなったら、そのとき頼むよ」

「ええ、いつでもどうぞ」


 彼女が笑ったような気がした。本当のところはわからないけど、微笑んでくれたのかもしれないと考えるだけでも心は軽くなった。


 凛子のおかげで今自分がやらなきゃいけないことを見つけられた。


「それじゃあ、俺仕事してくるよ。いつまでもこうしてはいられないしさ」

「無理、しないでね」

「大丈夫。無理する前に休むよ」


 底の方に残ったコーヒーを飲み干して立ち上がった。ふと純に視線を向けると、彼女は親指を立てて笑っていた。この状況を確実に楽しんでいた。


「なに、その笑顔」

「応援してるよ。老婆心から言わせてもらえば、粘れば落ちる。これに尽きる。リンちゃんだって女の子だからね」

「野次馬根性の間違いでしょ」


 いい気持ちになっても、かならずと言っていいほど純にぶち壊される。俺たちの関係性もそうだが、力関係そのものが決定づけられた瞬間だった。


 それがまた、違和感として強く印象付けられた。人が死んでいるのにペンションからは出られない。こんな状況でどうして明るく振る舞えるのか。正直なところ、ゆかりの反応は正しい。誰が犯人か不明なのだから怖いのは当たり前だ。動機だって判明してない。自分が狙われる可能性も十分あり得る。それを考えると、純の笑顔が酷く残酷なものに見えた。

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