二日目・3
現場検証を行うのはもちろん冴子だが、その様子をゆかり以外の全員で見つめていた。正確には見ていただけではない。オーナー夫妻は不安そうに見ているだけだったが、純と凛子は積極的に自分でも動いていた。死体や殺人現場が怖くはないのだろうか。
冴子は薄手のゴム手袋を常に持ち歩いているらしく、見ているだけの人であっても渡していた。
「俺もゴム手袋するんですか?」
「ゴム手袋って言わないの。ダサいでしょ? ニトリルグローグ。それはめてこっちきて」
「名前とかどうでもいいんですよ。っていうか俺だって死体とか無理ですよ……」
「なに言ってんのよ。第一発見者でしょうに。でも第一発見者で動揺しないんだから大丈夫、素質あるわ」
「そんな素質いりませんよ。しかも動じてないわけないじゃないですか。一階に降りるときに転びそうになりましたから」
「それでも叫びはしなかったじゃない? 死体を見ても動揺しないっていうのは重要な素質。こういう事件は結構扱うし、キミみたいな子は重宝するのよ。よかったらうちの事務所に来ない?」
「なんか大変そうなんで結構です」
こんなことを続けるなんて気が狂ってしまう。経験したいとも思わないし、仕事にするなんてもっての外だ。
「あら、フラれちゃったわね」
手で口を隠し「ふふっ」と笑っていた。さきほどまでの凛々しさと雄々しさはどこへいったのかと訊きたくなる。ここが殺人の現場で、死体まで放置されている場所だということを忘れてしまいそうになった。
「この首のところの跡が索条痕ってやつですよね」
「そう。で、首を締められたときに苦しくて指で拘束を解こうとしてる。この爪の後を吉川線」
「いらない知識ばっかり増えてく……」
「いろいろ考慮しても死後硬直は指先で止まってるから、死亡推定時刻は間違ってないと思うわ。ほら触ってみて」
「触りたくないのに」
腕を掴まれたかと思えば無理矢理触らされた。確かに指先は曲がらないが肘は曲がる。死亡推定時刻という言葉に聞き覚えはある。だがまさか自分が使う日が来るとは思わなかった。
上体を起こして他の人の様子を見た。凛子は窓の外を見つめ、いつもどおりなにを考えているのかわからなかった。純は電気ポットの中を覗いてみたり、テレビの裏なんかを見ていた。俺なんかよりも彼女たち二人の方が間違いなく素質がある。それなのになぜ俺に白羽の矢が立ったのかわからなかった。
「まだ訊いてなかったんですけど、なんで床に水が撒かれてるんです?」
彼女は呆れたように腰に手を当てた。
「そんなの決まってるでしょ。雪を運んだからよ」
「なんでそんなことするんです? 食べてたってことですか?」
「雪を食べてたってことならウケ狙いにしても弱いわね」
「違うんですか」
ポカンと、開いた口が塞がらない様子だった。口には出していないが「本気なのか」と言わんばかりの顔だった。
額に手を当て、大きなため息をついた。違うな、ため息をつかせてしまったと言うのが正しい。
「違うに決まってるでしょ。死体を冷やしたのよ。かなり厳格な検視なら意味がないかもしれないけど、死体を冷やすことで死亡推定時刻の前後を狂わせることができるの。特に死後硬直や体温なんかで計る場合は有効ね。こういうクローズド・サークルでしか通用しないけど」
「じゃあ本当は二時から朝方じゃないってこと?」
「それを見積もった上での二時から朝方。厳密に言えば二時から四時くらいね、たぶん。それがわかったところで、密室の謎を解かないといけないんだけど」
一通り死体を見た冴子は、ため息を吐いたあとで部屋から出ていった。後を追いかけると、彼女は遊戯室に入っていった。ビリヤード台などには目もくれず、正面の窓へと歩いていく。窓を開けてから、手招きして俺を呼びつけた。
「バルコニーの雪が明らかに少ないわ。たぶんここから雪を持っていったんだわ」
確かに積もっている雪が不自然に凹んでいた。
「その雪を死体に被せた?」
「そうなると結構な時間が必要になるわね。バケツの一杯や二杯じゃあそこまで床は濡れないだろうし。何回か往復しなきゃダメね」
窓を締めたかと思えば、顎に指を当てて遊戯室を見渡した。
「ねえ、バケツってどこにある?」
「洗面所の下にありますよ」
「そう」と言って遊戯室を出ていく冴子。ついていかないと後で怒られそうだ。
洗面所は入り口などがなく、廊下にそのまま備え付けられている。古いペンションなので、水回りはあまり綺麗ではない。
金属製の洗面台は人が三人並べる程度の広さだ。蛇口も三つ。洗面台の下にはバケツやスポンジ、洗剤などが置かれている。
バケツを持った冴子は、ポケットからなにかの粉と筆を取り出した。筆を粉に付けてから取っ手や縁にそれをふりかけ、目を細めた。
「なんですかそれ」
「指紋採取の粉末法。専用の粉がないからアイシャドウとアイシャドウブラシで代用したの。でも指紋は出てこないわね」
バケツを戻した冴子が、また周囲を見渡した。
「今日はこのバケツ、使ってないわよね?」
「掃除はまだですね。たいだいは宿泊客が帰ったあとなんで。本当なら宿泊客が帰った後で俺がやる予定でした」
「使ってないのにこんなに濡れてるのは不自然じゃない?」
「確かに、おかしいですね」
「指紋がないことからも、このバケツが使われたのは間違いなさそうだけどね」
「指紋がついてないのっておかしいですか? 掃除用に使うんだから、ゴム手袋くらいしますよ。寒いし、手も荒れるし」
「でもまったくついてないのはおかしいでしょ? 掃除で使うなら、バケツを出してからゴム手袋をはめることだってあるでしょうし。まったく、ただの一つも指紋がないのはおかしいわよ」
「そういう、もんですかね」
「さあ、たぶんね」
なんて言ったあとで「ふふっ」と笑っていた。掴みどころがなさすぎてどうやって接していいのかわからなかった。ある程度道路の雪が溶けるまでこの人と一緒なのかと考え、頭が痛くなってきた。
「それじゃあ一度食堂に戻りましょう。お腹もすいたでしょうし」
彼女の号令で皆が動き出した。
なぜだか違和感がある。そこにいるはずなのに、どこか阻害されているような、遠くから見ているような気分になった。その違和感の正体はなんとなくわかっていた。権力がある人の合図一つで簡単に動いてしまうということ。違和感というよりは嫌悪感に近いものがあった。
冴子はリーダーシップがあり、探偵ということもあって今この場で主導権を握るには最適の人間だ。それはわかっている。けれど俺は小学校のときのことを思い出してしまった。
権力がある人、発言力がある人が場を支配するということ。危機感を覚えなければいけないことであり、かならずその人物によって淘汰される人が出てくるのだ。淘汰される側に回ったことがあるからこそわかる。父親が不倫の末に死んだことを揶揄され、追い詰められた。周囲から指さされ、仲間はずれにされ、大勢から爪弾きにされる。どうしても、それを思い出してしまうのだ。
どうして思い出したのかはわからない。考えすぎるのはよくないとかぶりを振った。白沢木冴子という女性が発言力を持つのは当たり前のことなのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます