二日目・1
スマートフォンがけたたましく鳴った。好きなエモーショナルコアのバンドの新曲だが、今後目覚ましに設定するのはやめようと思った。どんなに好きな曲でも、目覚ましに設定すると嫌いになりそうだ。そこでスマフォの電波が無いことに気がついた。元々電波がいい場所ではないのでこういうこともある。
時刻は九時。若干だが頭が重かった。昨日の酒がまだ残っている。ぼーっとする頭を押さえながら身支度を整えた。凛子が今日で帰ってしまうと考えたら、少しでもいい格好をしておきたい。
階下へ降りて食堂へ。朝食の時間は終わっているので人はもういないはず――。
「おはようケイゴ、遅かったじゃないか」
純が手を挙げて挨拶をしてきた。隣には凛子とゆかりだ。なぜゆかりがいるのかは謎だが、精神年齢的には一番若そうではある。
ゆかりがこちらを見て微笑んだ。凛子は昨日と変わらない。
「もう朝食の時間は終わりだろ?」
テーブルにはコーヒーカップが三つ。食後の一杯だろう。
「コーヒーなら出してくれるって言うから」
「誰が?」
「オーナーのワイフが」
「奥さんでいいでしょ」
三人のテーブルの横を通り厨房へ。中ではカオちゃんが食事をとっていた。できたてのフレンチトーストを口に入れ、熱がりながらも咀嚼し、飲み込んだ。
「おはよう。昨日は楽しんだ?」
カオちゃんの目端には涙が見えた。フライパンから直接口に入れたのだ、熱いに決まっている。
「その聞き方は誤解を生みそうだけど楽しかったよ」
「そう、なら良かったわ。息子みたいに可愛がってきた甥が女の子と仲良くしているのを見て嬉しくなっちゃった」
カオちゃんは頬に手を添えてしなを作っていた。正直、どういう感情からくる仕草なのかは判断が難しかった。
「もしかしてコーヒーとかご馳走した?」
「よくわかったね。新しい門出に乾杯」
「乾杯じゃないって。しかもコーヒーでやるもんじゃないでしょ」
食パン二枚をオーブンに入れ、コンロではフライパンを温める。卵を割って目玉焼きを作り、フライパンの隅の方でベーコンを焼いた。カオちゃんが飲んでいるコーヒーの残りがあったのでそれももらった。
「給料から天引きだからね」
「今更驚かないって。いつものことなんだから」
トーストの上にベーコンと目玉焼きを乗せ、もう一枚のトーストをその上に被せた。トーストサンドの皿を左手に、コーヒーカップを右手に持って食堂に戻った。女性三人がいるテーブルから少し離れたテーブルに足を向けた。
「なんでそっち行くんだよ。こっち来なって」
別の席に座ろうとしたところを捕まってしまった。仕方なく、三人がいるテーブルで朝食を取ることになった。イスは純が用意してくれた。
こういう展開になりそうだったから離れた場所を選ぼうとしたのに。純がどうして俺にかまうのかはわからないが、たまには一人の時間も必要だ。
「そうそう、お姉さんの言うことはきいておいた方がいいぞ」
なんていう純はゆかりと目を合わせて「ねー」と息を合わせていた。一日二日で仲良くなれるのも純のコミュニティ能力の高さゆえかもしれない。俺だって純と凛子と酒を飲む仲に発展しているが、仲良くなったというよりは仲良くしてもらっている感じだ。
「もう九時過ぎだけど用意しなくていいの? 一泊の予定でしょ?」
俺がそう言うと、純とゆかりの目が大きく開いた。二人で顔を見合わせ、ケラケラと笑った。
「ケイゴ、外見てないの?」
「見てないよ。雪が積もってるだけでしょ」
「そうだよ、積もってる。とんでもない積雪。今でも吹雪いてるしたぶん帰れない。だからどうしようかって」
純とゆかりが目を合わせて「ねー」と声を合わせた。
どうやったら挨拶した程度の人と打ち解けることができるのかを考えた。純はある程度計算していると思う。だがゆかりは天然だ。この人が計算高かったら逆に怖い。そうやって見ていると、考えることそのものが馬鹿らしくなってくる。ゆかりのようには絶対になれないし、純ほどの経験値もないからだ。
コーヒーを一口飲んだ。柔らかな苦味とわずかな甘みが口に広がった。俺は牛乳と砂糖がないとコーヒーは飲めない。牛乳を入れたらただのカフェオレだが、誰も突っ込まないのでこのままでもいいだろう。
「こういう場合ってどうなるの? アタシもリンちゃんも用事があるわけじゃないけど、もう一泊させてもらえるのかな」
「コウちゃんに聞いてみないとわからないな。食べ終わったら聞いてみるよ。ちょっと待ってて」
残りのトーストを口に押し込みコーヒーで流し込んだ。食堂を出てカウンターに行くと、コウちゃんが風呂から出てくるところに出くわした。仕事の形態もあり、コウちゃんは夜ではなくお昼前に風呂に入ることが多い。カオちゃんは朝起きてすぐに入る。
「起きたか寝坊助小僧」
頭から湯気を出しながらコウちゃんがそう言った。あまりにも和やかな出で立ちだったため吹き出しそうになってしまった。
「そこそこ早かったと思うけどな」
「そうだな、予定の時間は十二時だったもんな」
「十二時まで寝てるなんて言ってないからね?」
「さすがにそこまでの仲には発展しなかったか。残念だ」
「朝から下世話だなあ」
「いったいなんの話をしているのやら、俺にはさっぱりわからんなあ」
コウちゃんは「はっはっはっ」と豪快に笑っていた。見た目通りの笑い声だが、実は見た目に反して臆病でキモが小さい。遊園地なんかに行ってもメリーゴーランドやコーヒーカップくらいにしか乗れない人だ。
「もういいよ、その話は忘れよう。で、訊きたいことがあるんだ」
「セックスの仕方以外ならいいぞ」
「黙れオッサン」
こういうテンションのときに疑問を口にしようとすると、コウちゃんは必ずこうやって返してくる。いい加減にもっとボキャブラリーを増やした方がいい。
「外、すごいんだって?」
「何十年に一度ってレベルだな。露天風呂も使い物にならない。今日の風呂掃除は内風呂だけでいいぞ」
「そりゃよかった。で、今日の宿泊客はどうなるの?」
「今日来る客は強制キャンセルになるな。キャンセル料金もかからないって電話をしておかないと」
「今いる人たちは?」
「正直タダで泊まらせるわけにはいかないな。もう一泊、最悪二泊の料金は払ってもらわないと。もちろん格安でな」
コウちゃんは親指を立ててウインクした。それがどういう意味なのかは正直わからなかった。いや、多少はわかるのだが該当する事柄が多すぎて絞りきれなかった。
「そうだケイ、芍薬の客って見たか?」
「最後に見たのは夕食のときかな。コウちゃんは見てないの?」
「二時くらいかな、風呂に入るために降りてきたのを見た」
「朝食には来てないのか」
「電話の調子がなんか悪くてな、うまく繋がらないんだ。今日の宿泊のことで話をしなきゃならんのだがな」
コウちゃんは少しの間唸ってから、なにかを思いついたように手を叩いた。
「ケイ、ちょっと見てきてくれるか。もしかしたら具合悪くしてるかもしれん。何回もノックして、呼びかけても出てこないようならこれで入れ」
鍵の束が放られた。
「勝手に入って大丈夫なの?」
「仕方ないだろ。それにペンションやホテルだって、こっちが要求したときは部屋をみせなきゃいけない決まりだ。犯罪やなんかに使われていると思った場合は勝手に入っても大丈夫だ」
そう言ったあとに「たぶんな」と付け加えていた。
「俺、怒られるのイヤだからね」
「大丈夫だ、いざってときは俺が責任取るから。ほら行って来い」
人差し指だけを立てて、それを横に振った。指先は階段を指さしていた。
冗談は言っても嘘はつかない人だと知っている。ため息をつき、芍薬の間に向かった。食後なので少しは休みたかったがこれも仕事だ。
ドアの前に立ち「安城さん」と声をかけてみた。反応はない。物音が聞こえてくることもない。一応防音ではあるが、ドアに耳をつければ物音くらいは聞こえてくるのが普通だ。
ノックを四回。それを三回ほど繰り返した。
「安城さん? 起きてますか?」
やはり返事はなかった。直感だが、嫌な予感がした。
「開けますよ。いいですね」
鍵をあけて、ゆっくりとドアノブを回す。意図的にではないが、ドアを引く速度はゆっくりだった。
最初に感じたのはほのかな温かさだった。上着を着ていなければちょうどいいが、ティーシャツなどではやや寒いといったところだ。廊下が寒いので余計にそう思った。
ベッドの上には女性、安城早苗が仰向けで寝ていた。このペンションに来たときのままの服装だ。髪の毛や洋服は湿り気を帯び、布団がびっしょりと濡れていた。まるでバケツで水をかけられたかのようだ。布団はかけていない、足も手も弛緩していてなんだか造り物のようだった。足を踏み込むと「べチャリ」と水音がする。雨でも降ったのかと言いたくなるくらいに水浸しだった。
悪寒が背中を貫いた。本能が危険を知らせている。
一歩、また一歩と足を踏み出す。脳内で警鐘が鳴っている。
びちゃり、びちゃいと足音がうるさかった。
近づく度に早苗の表情が見えてくる。口は閉じたままだったが、目蓋が完全に開かれていた。
自分の呼吸が早くなっていることに気がついた。部屋に入るべきではなかったのだ。おかしいと思った時点でコウちゃんを呼ぶべきだった。
一目散に部屋を出た。転がり落ちるようにして一階に降りて、コウちゃんに耳打ちをした。コウちゃんは眉根を寄せたあと、冴子の元へと駆けていった。一言二言喋ったかと思えば、真剣な顔で階段を上っていった。純、凛子が冴子の後ろからついてきていたので、俺はその後ろを追いかけた。
芍薬の間では冴子がベッドに駆け寄り、早苗の首に手を当てていた。
「死んでますね」
彼女の声は沈み込んでいた。立ち上がり、部屋中を見渡す。その横顔は「デキる女」という言葉がピッタリだった。
死んでいると言われても、どんな状況なのかなんて理解できない。もう一度言ってくれ。そんな気持ちでいっぱいだった。
しかしどうしてだろうか、人が死んでいるにも関わらず妙に落ち着いていた。いや違う。安心していたのだ。ここには白沢木冴子がいるじゃないか、と。
冴子が静に立ち上がった。
「安心してとは言えないけど」
そして振り返り、腰に手を当てて言い放った。
「ここは私に任せてください」と。
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