一日目・2

 普段の休日は莉緒もアルバイトをしている。容姿がカオちゃんに似ているためか、宿泊客にもかなり人気がある。基本的に一緒に仕事をすることはないが、莉緒も俺にはなついてくれている。たまに毒を吐くがそこも可愛いところだ。


 三時からは宿泊客がやってくる。アーリーチェックインなどはないので早めに準備をしなくてもいい。ゲレンデからやや離れた位置にあるので、スキー客は大体夕方になる。チェックインの時間は十五時から十八時まで。極力予約を入れたときに教えて欲しいと、ホームページなどにも書いてある。なので、宿泊帳簿にも誰がどの時間に来るというのが書かれていた。従業員が少ないのでかなり重要で、その時間に合わせて用意をすればいいのでこちらも気が楽だ。


 ガラガラと、キャリーバッグの音が聞こえた。ドアの丸窓からは女性が歩いて来るのが見えた。


 今日最初の宿泊客は中年の女性だった。ショートカットで、大きめのサングラスをかけていた。鼻は高く顎が細い。手には小さめのキャリーバッグ、肩には高そうなショルダーバッグ。高貴な雰囲気がありフォーマルな服装だ。キャメルのトレンチコートからはスラリとした紺色のパンツが伸びている。先端は広がっているが割とタイトなものだ。歩き方も綺麗でモデルのようだった。


 入り口を入ってすぐ、ビニール袋で自分の靴を入れた。下駄箱からスリッパを取り出すところを見ると幡辺屋は初めてじゃない。


「いらっしゃいませ。お名前をよろしいですか?」


 女性がサングラスを取った。年は五十手前、カオちゃんよりも少し上くらいだろう。目尻のシワ、ほうれい線などから推測した。目端が吊り上がっていて感情的に見えるが、どこか頭が良さそうな雰囲気があった。


 だがこの顔、どこかで見たことがある。しかしどこで見たのかまでは思い出せなかった。


「白沢木冴子よ」と、彼女が言った。


 思わず息を飲んだ。


 ニコリと微笑む彼女を見て、一瞬だけたじろいだ。当たり前だ、まさかあの白沢木冴子が来るとは誰も思わない。伝票を確認すると、確かに白沢木冴子の名義で予約が入っていた。


 白沢木冴子と言えば有名な探偵だ。警察にも協力し、いくつもの事件を解決してきた。彼女が所属する白沢木探偵事務所は俺の地元からは離れた場所だが、それでも名前を知っている。地方のテレビ局などにも出演している。


 全国的にもそれなりに有名だ。全国放送には数えるほどしか出演していないが、探偵事務所としては変わっているので知名度がある。基本的に探偵というのは刑事事件に関わることはないのだという。弁護士もそうだが、特に殺人事件となれば誰も手を出したがらない。だが白沢木探偵事務所は積極的に協力するのだという。


 俺もテレビや雑誌でしか知らないが、白沢木探偵事務所はその名の通り、白沢木冴子が所長を務めている事務所だ。元々彼女の父が所長で、冴子はその跡を継いだ。


 なによりも彼女は父さんを殺した殺人犯を突き止めた人だ。尊敬しているし感謝もしている。だがここで騒いではただの野次馬と一緒になってしまう。


 気づかれないように小さく深呼吸をした。


「承知しました。お待ち下さい」


 帳簿に視線を落とした。到着時刻も正確だ。予約日は九月七日か。十二月に宿泊するにはこれくらいの時期に予約を取らなければ泊まれない。早い段階から泊まろうとしてくれたのだとニヤけそうになってしまった。自分の家も同然なので嬉しくもなる。


「確認できました。こちらにお名前、ご住所、お電話番号をお願いできますか?」


 宿泊客用の書類とボールペンを渡した。こういう対応も慣れたものだ。だからこそカオちゃんもコウちゃんも俺に任せてくれている。短期ではあるが何年も働かせてもらっているのだ、これくらいはできないと仕事にならない。


 冴子から書類を受け取り、一通り目を通す。これが本当の住所かどうかは正直わからないが、嘘を書くと犯罪になる。確か私文書偽造に該当するのだとか。


 しかし白沢木冴子は有名人だ。嘘を書いても意味はない。ネットで調べればすぐに出てくるし、そもそもその必要がない。


 鍵を持ってカウンターから出た。


「ご案内いたします。お荷物をこちらに」


 俺が手を出すと「お願いね」と荷物を手渡してくれた。微笑むと目尻にシワができるが、それが味だと思うほど優しい笑顔だった。この人が名推理を披露し、事件を解決してきたと言われても信じがたい。


 冴子が予約していたのは牡丹の間だった。俺が泊まっている百合の間と間取りは一緒だ。ベッドは一つ、小さなテレビに小さな窓。豪華ではないが風情がある、とでも言えば聞こえはよくなる。それにペンションの雰囲気に魅入られてリピーターになる人も一定数いる。


 荷物を持って階段を上った。大きさはそうでもないのにやけに重い。なにが入っているのかという疑問はすぐに振り払った。他人のプライバシーに関心を持ったところでいいことはない。それにこの重さだ、考えなくても書類だの調書だのという結論が出た。つまり、少しは考えてしまったわけだ。


 階段を上がってすぐのところにトイレと洗面所が隣接している。説明をしようとすると「大丈夫よ、知ってるから」と先に言われてしまった。それもそのはずだ、冴子はこのペンションに泊まったからこそ二十年前の事件を解決できた。


 訊いてみたい気もする。父さんがどんなふうに犯人と仲良くしていたのかとか、どういうふうに死んだのかとか。聞きたい気持ちもあるが、聞きたくない気持ちも当然あった。そして、聞きたくない気持ちの方がやや大きかった。


「では遊戯室の方も?」

「ええ、昔から内装は変わってないようだから。向こうの角でしょ?」


 二階の宿泊施設は部屋がL字になっている。駐車場を見下ろせる正面の部屋三つが二人部屋、二人用の部屋は左から椿、桜、楓。楓は今修理中で使えない。右手の森側の三部屋が一人用、階段から見て右から百合、牡丹、芍薬となっている。そして一人部屋と二人部屋を繋ぐ角には遊戯室が設けられている。遊戯室と言っても、自動販売機やソファーにテーブル、時代遅れのダーツ板やビリヤードがある程度だ。遊戯室にはL字型のバルコニーがある。景色は見渡せるが、この季節は外に出ない方がいい。標高の高さもあって身を引き裂かれるかと思うほど寒い。


「それではこちらがお部屋になります」


 牡丹の間の鍵を開け、荷物を中に入れた。


「お食事は食堂でできます。夜は十八時から二十時、朝は七時から九時です。なにかご不明な点はございますか?」

「大丈夫よ。ありがとう」

「それではごゆっくり」


 部屋から出て大きく深呼吸をした。


 笑みは優しく物腰も柔らかい。にこやかで優しそうな人だと、最初はそう思った。けれど彼女と面と向かって話をするとなぜか疲れる。威圧感は感じないが、どこか値踏みされているような目だ。さすが名探偵の貫禄、というところか。


 と、こんなところでサボっているわけにはいかない。十五時から十八時という時間は宿泊客が訪れる時間だ。カオちゃんもコウちゃんも忙しいため、俺がしっかりしなければならない。オーナー夫妻は俺を戦力として見てくれている。だからいろんな仕事を任せてくれいるのだ。仕事を任され、期待されている以上は応えるのが筋というものだ。


 次の客も女性だった。こちらも一人、カオちゃんよりもずっと若く見える。いや、そう見えるのは白くて大きなマスクのせいかもしれない。よく顔を隠すためにマスクをする女性を見かけるが彼女は違うようだ。咳き込む姿を見るに具合がよくない。目元しか見えないが化粧も濃いわけじゃない。身長は低く体のラインも細い。灰色のコート、碧色のロングスカート。キャリーバッグがワインレッドなので非常にカラフルだ。


 名前は安城早苗あんじょうさなえ、芍薬の間だ。到着時間も宿泊帳通り、予約日は九月七日。この客も靴をビニール袋に入れてスリッパを履いた。


「お荷物、預かりますね」


 彼女は「ありがとう」と言った後に二度ほど咳き込んでいた。


 声は高め。身長も相俟って二十代の頃は酒を飲むのも苦労したかもしれない。ちなみに俺もよく年齢確認をされる口だ、気持ちはよくわかる。


 キャリーバッグを預かり、部屋に案内した。全体的に色使いは派手であるが、所作はとても大人しく静かだった。歩幅が小さく奥ゆかしくも見えた。きっとこの人は男の後ろを半歩離れて歩くタイプの女性だ。


 全体から見れば少ないが、スキーやスノーボードを楽しんでからやってくる客も当然何人かはいる。そのためチェックインの時間が十六時や十七時になる人もいる。最初に来た冴子と早苗は、格好からしてもウインタースポーツをしに来たという感じではなさそうだ。格好もそうだが、早苗なんかは具合が悪そうだ。


 このペンションのキャンセル料は他のホテルなんかよりも少し緩い。当日の連絡ありのキャンセルは宿泊費の三十パーセント、連絡なしは四十パーセント。前日は十パーセントだし、それより前ならキャンセル料はかからない。普通は連絡ありでも五十パーセントは取られて普通だ。以前にも具合が悪くて行かれない、という客はいた。そうやって連絡をしてくれた人からは、実はキャンセル料は取っていない。当日三十パーセントというのが嘘というわけではないが、結局さじ加減はオーナー次第ということだ。


 友人と約束をしていたわけでもなく、どうして早苗は無理をしてここまで来たのだろう。来たかったからと言われたらそれまでだが、その疑問はしこりとなって胸に留まっていた。


 今日到着予定の客はあと二組。女性二人組に男女の二人組だ。宿泊帳にはどちらも十七時前後と書かれていた。


 正直言うと俺がやることはそこまで多くない。ペンションの部屋は多くないので、客は当然少ない。食事はオーナー夫妻で作るし、俺は給仕の仕事が中心だ。それも客が少ないことが功を奏し、注文を取るのも食事を運ぶのも苦労はない。


 俺が必要になるのはコウちゃんたちが休憩を取るとき、客の要望が集中したとき、それと風呂掃除だ。あとは自由と言ってもいい。でもゲレンデには行かない。寒いのは苦手で、当然ウインタースポーツもやらない。


 運動が苦手というわけではない。しかし学生時代にも部活動に入ったことはない。できるだけ学校の人間とは関わり合いになりたくなかったからだ。プライベートで他人と顔を突き合わせるのは嫌だった。これも中学校までのことで、高校に入ったらそこそこ交友関係は築けるようになった。それでもやはり、人が多い場所は好きになれなかった。愛想よく振る舞うのは得意になったが、どうやって頑張ってもちゃんとした友人は一人二人しかできなかった。それが俺の限界だった。


 そんな俺がなぜこんな好条件でアルバイトができるのか、友人にも羨ましがられている。コネというのがどれだけ大事かを思い知らされている真っ最中だ。


 父さんは二十年前にこのペンションで殺された。だから俺は、このペンションに来たいと思ったんだ。現実を受け入れるという意味もあるけど、話を聞けば聞くほどに、どうしても不思議に思うことがあった。


 父さんを殺したのは久坂瑠璃子くさかるりこという女性だった。父さんと久坂は不倫関係にあったという。別れ話を持ちかけられて逆上した、というのが警察の見解だった。しかし父さんはそういう人ではなかったと母さんが言っていた。母さんは警察に説明されても、頑として譲らなかった。


 不審に思う点がもう一つあった。


 久坂瑠璃子は父さんが死んだ二日後に自殺した。しかもこのペンションのバルコニーから首を吊った。元々久坂は俺や母さんと同じ町に住んでいた。だから不倫の話も、瑠璃子が自殺したことも噂になった。広がり定着すれば噂も事実になる。一度根付いてしまえば、根っこを取り除かないと覆すことはできない。父さんを殺したことを苦にして自殺した、ということらしい。そこまでするほどに父さんを愛していたのだろうか。


 久坂瑠璃子については人によっては後追い自殺という人もいた。どちらにせよ自殺したのだ。考えることはいろいろあったが、これも現実として受け入れていくしかないのかもしれない。


 時計を見ると十七時前だった。


 コウちゃんは夕食の仕込みをずっと続けている。古びたペンションでこの値段。料理には一層力を入れている。宿代には食事代も含まれている。だが食べ放題というわけじゃない。一人につきサラダ、メイン、スープ、デザート、飲み物が一品ずつ無料になる。他にも食べようと思った場合、食べた分は宿泊代と合算される。


 カウンターから外の様子を見た。男女が腕を組んで歩いて来るのが見えた。女性は嬉しそうに男性に話しかけている。男性は何度か目を合わせて相槌を打っているようだった。


 ドアが開き、二人の顔が一気に緩んだ。男性の方は白髪交じりの髪の毛を七三分けにしている。顔の彫りが深く、それでいて目尻が下がっているので優しそうだ。長身で黒いチェスターコートがよく似合う。女性の方は全体的に少し丸みを帯びていて化粧が濃い。それでもカオちゃんよりは若そうで、おそらく三十代だろう。ペンションの中を見渡しているところも見ると、二人共ここは初めてなのだろう。急いで近づき声をかけた。


「いらっしゃいませ。お履物を脱いで、このビニール袋へどうぞ。お履物は部屋までお持ちいただきます。スリッパはこちらです」


 ビニール袋とスリッパを二つ用意し、二人の前に出した。


「ありがとう。キミはアルバイトかな?」


 男性に声をかけられた。予想したとおり優しそうで安心した。


「ええ、短期でやらせてもらってます」

「そうかそうか、こういうのも経験だ。がんばりなさい」


 男性から励ましの言葉をもらう。少々上から目線ではあったが、喋りがゆっくりで声が低く心地が良かった。


 到着時間は十七時前後、予約日は八月三日。書類を書いてもらった。柳原士郎とゆかり。五十二歳と三十五歳か、なかなかの年の差夫婦だ。


 二人分はきつかったが、士郎がボストンバッグ、ゆかりがキャリーバッグだけだったので一人でもなんとかなりそうだ。


 それにしてもゆかりのキャリーバッグが大きすぎる。四泊五日用とかそれくらいの大きさだ。予約は一泊二日だったはずだから、きっとこのペンションの後にどこか別のホテルに泊まるのかもしれない。


 二階に上がり、トイレと洗面所、遊戯室の説明をした。ゆかりは遊戯室とバルコニーがかなり気になっている様子だった。


 桜の間へと案内した。部屋に入るときまで腕を組んでいた。年の差夫婦なだけにいつまでもラブラブカップルなのかもしれない。


「食堂ですが、夜は十八時から二十時まで、朝は七時から九時までとなっております。お時間をすぎますと料理は出せません。ですがカウンター横の売店には軽食や飲料がございますので、よろしければ利用ください。遊戯室の中にもおつまみやお飲み物の販売機がございますので、こちらもどうぞ」


 ゆかりは手を上げて「はーい」と、猫なで声で言った。士郎はこういう部分に惹かれたんだろうなと直感した。


 接客業をしていて一番辛いのは、やはり他人と接触しなければいけないことだ。自分と合わなくてもへりくだる必要がある。その態度も人によって変えなければいけない。あまり持ち上げすぎると「馬鹿にしているのか」と怒り出す人もいる。難しく、ストレスを感じることもあった。お客様は神様だのと言い出す客の相手は本当に疲れる。だが、上手くやれればそれだけ達成感もあるのだ。他人という生き物に順応できた、正確に相手を理解したという達成感は。なにものにも代え難いものがあった。


 しかし楽をするのは嫌いじゃない。働かずにいられるならそれに越したことはない。誰だって食っちゃ寝して人生過ごせるならそうしている。


 時刻は十八時前、食堂の方が慌ただしくなってきた。十分ほど前に帰ってきたカオちゃんは、休むことなくキビキビと動き回っていた。


 冷たい風が吹き込んできた。視線を向けると、二人の女性が立っていた。二人共ボストンバッグを持っていた。茶髪のボブカットの女性と、黒い長髪の女性だ。黒髪の女性が顔を上げると視線がぶつかった。俺の足は地面に縫い付けられたように動かなくなっていた。それほどまでに美しかった。キリッとした目元、鼻梁が整った鼻、口は小さく顎が細い。というか顔が小さい。しかしそれだけではない。彼女の目には妙な力があった。


 予定時刻は十七時前後だが、現在の時刻は十八時前だ。だが事情を訊くようなことはしない。雪山の運転は怖い。特に夜ともなれば、昼間解けた雪が凍り始める。事故を起こすよりは、遅れて来てもらった方がいい。


 予約日は八月一日か。こんなに早く予約していたのか。


「靴はどうしたらいいの?」


 茶髪の女性に言われて我に帰った。目が合うとニカッと嬉しそうに笑っていた。手を小さく振っているのも好感が持てた。


「こちらのビニール袋に入れて自室へお持ちください。スリッパはこちらを」

「ありがと」


 こうやって笑顔の絶えない人には二種のタイプがある。友人が多く男が切れない、純粋にそれが性格であるタイプ。もしくは俺と同じように愛想を振りまいて極力リスクを避けるタイプだ。


 黒髪の女性は黙っていた。黒くて長い髪の毛は艷やかで、蛍光灯の光を反射していた。表情は堅く、眉一つも動かさない。瞳はガラスのように透きっているように見えた。見ていると吸い込まれてしまいそうだった。


 まるで人形のようだなと感じた。日本人形とか西洋人形とは違う。ドールやフィギュアのような雰囲気だった。綺麗ではあるが不気味さはまったく感じられない。


 カウンターに戻り、書類を書いてもらった。茶髪の方が倉橋純くらはしすみ、黒髪の方が神楽凛子かぐらりんこ。二人の会話を聞いていたが、純は社会人で凛子の方はまだ学生のようだ。講義がどうのと言っていたので大学生に違いない。


「アルバイトの子?」


 カウンターに乗り出しそうな勢いで純が訊いてきた。


「はい、短期でアルバイトさせてもらってます」

「名前は?」


 やや後ずさりながらも「棗恵悟です」と返した。


 押しが強く、カウンター越しだというのに一歩引いてしまった。それでも彼女は俺の顔や身体をじろじろと観察していた。「なるほど」と言いながら顎に指を当て、なにを気取っているのか聞きたくなった。


「オーケー、ケイゴね。これからよろしく」


 歯を見せて笑う姿は子供っぽかった。にも関わらず色気がある。だがその色気がどこからきているのかまでは不明だ。胸は大きいが、たぶんそういうことではない。


 女性から好意的な笑顔を向けられて嫌な気持ちにはならない。むしろ嬉しく思う。だがさきほどまでじろじろ見られていたのだ、彼女に対する高感度はプラスマイナスゼロだ。


 設備の話をしながら椿の間に案内した。二人が泊まるのは椿の間、遊戯室とは反対側の角部屋だ。


 柳原夫妻と同じ説明をした。予約したときに確認してきたのか「余計に食べなきゃ無料なんでしょ」と言われた。


「まあ、そうですね」

「余計に食べるとどうなるの? メインディッシュ二品とか」

「通常料金で宿泊費に上乗せされますね」

「わかった。じゃあ次の質問。遊戯室ってなにがあるの?」

「ビリヤードとソフトダーツ、あとはトランプなんかのカードゲームも常備してあります。テーブルが三つあるので、たぶんいつでも使えると思います。ダーツもビリヤードも道具はすべて備え付けのものがあるので気軽にどうぞ」


「おっけー」という純とは対照的に、凛子は一つ頷いただけだった。


 椿の間から出ていこうとすると、純が近付いてきて俺の腕を抱き寄せた。なにごとかと身構えたのもつかの間、彼女が顔を近づけてきたのだ。


「キミ大学生?」


 ささやくように言われ、顔が熱くなっていくのがわかった。シトラス系のいい匂いがした。


「大学三年ですけど……」

「リンちゃんのこと、気になる?」


 そう言われて心臓が強く波打ったような気がした。純の顔が近いからではない。いや原因の一つではあるかもしれないが、きっとそうではない。


 最初に見たときもそうだったが、俺は神楽凛子を意識している。綺麗だから、美しいからという理由だけではない。どこか神秘的で、もっと彼女のことが知りたいという好奇心が強かった。


「べ、別にそういうつもりはありません」

「そう? めちゃくちゃ見てたでしょ?」

「見て――」

「たよね?」


 息がかかる距離。思わず頷いてしまった。彼女がにんまりと、心底楽しそうに笑った。


「素直でよろしい。でも、リンちゃんは手強いぞー? がんばれ!」


 顔が離れたかと思えば、背中を強く叩かれた。これだけでこの人がどういう人かをなんとなく理解できた。カオちゃんとはいい酒が飲める人だ。


「それでは」と言って部屋から出るが、今日一番で疲れたかもしれない。この数分で精神が擦り切れるかと思った。主な原因は純だった。初対面だというのにパーソナルスペースというものを簡単にすり抜けてくる。対応するこちらの身にもなってほしい。


 階下に降りてすぐ、コウちゃんの手伝いをした。しかし料理の手伝いは任されていないので主に雑用になる。簡単な料理なら任せてもらえるが、そもそもディナーには簡単な料理がない。客のテーブルに運ぶもので俺が用意するのは酒やジュースなどの飲料。あとはパンのような調理の必要がないものだ。


 厨房に入る前、二人の女性の姿が見えた。足は風呂に向いているようだった。遠目からでも茶髪と黒髪のコンビだとわかった。湯船に浸かる凛子の姿を想像し、やめた。そういうのは不謹慎だ。


 ここまで凛子のことが気になっているのかと恥ずかしくなった。ただの客だ。今日明日だけの関係で、きっともう二度と会うことはない。だからこんな気持ちは捨てた方がいい。それが自分のためであり、相手のためでもあった。


 厨房は広く、中央の大きなテーブルがあっても通廊は三人すれ違える。ここは先代のオーナーが力を入れていたらしい。


 厨房の奥のドアから一度外に出た。短い通路は右側が壁で、左に進めば食料庫がある。屋根はあるが、逆に屋根があるだけの屋外だ。この季節は身体に堪える。


 ビール、日本酒、焼酎、コーラ、オレンジジュースなどの飲料をまず運ぶ。ラックごと厨房に運び、そこからは手で冷蔵庫の中へ。空き瓶が出たらラックに戻すため、空になったラックは外に置いた。


 冷蔵庫を見たときに減っている食材を食料庫から補充。この補充作業だけでも数往復必要で、戻った際に他の手伝いを頼まれることも多い。あの食材を持ってきてくれ、あれが足りないこれが足りないと言われる。


 食料補充作業が一通り終わると洗い物が待っている。コウちゃんが使い終わった調理道具などを綺麗にする。この流れは毎回変わらない。


 あとは売店用のお菓子なんかを持ってカウンターに戻った。売店と言っても大したことはない。カウンターの隅を区切って「売店」というプレートを貼っただけだ。わざわざ売店をこさえるほどのスペースは、このペンションには存在していなかった。


 エプロンを腰にかけ、ホールに戻った。


 食堂のテーブルは六つ。入り口から見て左右に三つずつ並べてある。指定席ではないため、客には好きな場所に座ってもらう。 


 そうしているうちに宿泊客が降りてくる。最初に降りてきたのは柳原夫妻だった。


「全員は降りてこないみたいね。それなら。あの二人が食べ終わったタイミングでケイちゃんも食べちゃいなさいよ」


 カオちゃんが厨房から顔を出していた。


「わかった。楽しみにしてる」


 そう言って、柳原夫妻の元へと向かった。


「お好きな席へどうぞ。ご注文が決まりましたら、そちらのボタンを押してください」


 テーブルの中央の丸いボタンに向かって手を伸ばした。その後一礼すると「ああ、ありがとう」という士郎の声が聞こえた。ゆかりは少し苦手だが、士郎は紳士的で好感が持てる。


 二人は迷った挙げ句、入り口から近い場所に座った。


 一度厨房に戻った。ホールにいてもやることがないからだ。


 厨房にはカオちゃんしかいなかった。たぶんコウちゃんは厨房の裏口で一服していることだろう。


 厨房に戻って間もなくチャイムが鳴った。ボタンが押されたのだ。出入り口付近にある配電盤を見た。柳原夫妻のテーブルだ。


 伝票を持って食堂へ。夫妻は食事の他に赤ワインを頼んでいた。


 夫妻の方は酒を飲みながら談笑していた。なにをそんなに話すことがあるのかと思ったが、本人たちが楽しければそれでいい。


「ケイちゃん、食べちゃっていいよ。なにがいい?」


 厨房に戻るとカオちゃんに言われた。


 俺は何年もこのペンションに来ている。当然すべてのメニューを食べ尽くした。新作は数年に一度しか出ない。それなら注文する料理は決まっている。


「かぼちゃとほうれん草のクリームパスタときのことベーコンのピザ。食後にコーヒーとチーズケーキ」

「欲張りだこと。座って待ってなさい」

「やったね」


 エプロンを外して食堂に戻る。厨房の近くに腰掛けた。できれば柳原夫妻には近づきたくないからだ。士郎とは楽しく食事ができそうだが、ゆかりとはウマが合わない。短い人生経験しか持ち合わせていないがそれくらいはわかった。


 そのとき、二人の女性が食堂に入ってくるのが見えた。神楽凛子と倉橋純だ。俺の姿を見つけた途端、純が早足で近付いてきた。


「お、アルバイターがサボってるぞ? いいのか?」


 主人に近寄ってくる犬みたいな性質でも持っているのだろうか。主人をはっ倒すくらいの勢いがあるので、ポメラニアンやミニチュアダックスのような小型犬というよりは、ハスキーやレトリバーの方が似合っていた。髪の毛の色からするにゴールデン・レトリバーが一番近いかもしれない。


「休憩していいって言われたんですよ」

「じゃあ今は接客モードじゃないんだ。それなら敬語じゃなくてもいいでしょ? もちろん接客モードのときは敬語にしてもらうけど。リンちゃんもそれでいいよね?」

「問題ないわ」

「食事も一緒でいいよね?」

「問題ないわ」

「はい決まり」

「問題ないわ」


 有無を言わさず、純は隣のテーブルとイスをくっつけ、そこに座った。そしてその隣に凛子が座る。ちょうど向かい合うような形になった。


「なんか言いたいっていう目してるね」


 眼前に純の顔が近付いてきた。この人は至近距離にいないと話せないのだろうか。


「……してない」


 余計なことは言わない方がいい。余計な一言から根掘り葉掘り訊かれて、本当にどうでもいいことまで喋らされるような気がした。


「おすすめ、教えてくれない?」

「そんなことか、良かった」

「それ以外の話はまた後でするから心配しなくていいよ。で、おすすめは?」


 思わずため息が出た。


「かぼちゃとほうれん草のクリームパスタ、和風ボンゴレロッソ、ブロッコリーとカツオのバジルソース、カニとエビのリゾット、きのことベーコンのピザ、四種チーズピザ、アクアパッツァ、ホワイトミネストローネ。あとはコーヒーとチーズケーキ。自家製黒ごまプリン、パンケーキもおすすめ。クリームパスタはフィットチーネ、ボンゴレロッソはスパゲッティ、バジルソースはカペリーニ」

「料理のとこはなんとなくわかった。フィットチーネはあの太いやつだよね。カペリーニってなに?」

「麺が細いやつ。ラーメンでいうところの細麺みたいな感じ。この店はスープやソースの種類ごとに事細かく麺を変えてるんだ。パスタだけじゃなくて、ピザに使ってるチーズの数もかなり多いよ」

「ケイゴはどれ注文したの?」

「かぼちゃのパスタときのこのピザとコーヒーとチーズケーキ」

「じゃあシェアしよ。アタシはボンゴレロッソとリゾットとパンケーキ、リンやんはバジルソースとミネストローネとプリン」


 純は俺ではなく凛子にだけ了解を取った、凛子は迷わず「問題ないわ」と小さく言った。心なしか瞳が輝いているように見える。無表情なだけで、食事に対する興味は人並みにあるようだ。


 休憩に入ってすぐにこの料理の数。オーナー夫妻に後で文句を言われそうだ。


 仕方なく、自分で伝票に書き込んでカオちゃんに渡した。「休憩させるんじゃなかった」と言われたが、なんでもないふりをして席に戻った。


「キミさ、ここ長いの?」

「まあまあかな。中学の頃から長期休みになったら手伝いに来てたから」

「中学でアルバイトは違法じゃない?」

「ここのオーナーは俺の叔父さんなんだ。父さんの弟がオーナー、婿養子だから名字は違うけど」

「それでお手伝いか。来る度に食べてれば、そりゃどの料理がおすすめかなんてすぐ出てくるよね」

「でもほかが不味いってわけじゃないからね? ほかも美味しいけど、特に俺が好きなのはこれっていうのを挙げただけ」

「ま、おかげでアタシたちも気持ちよく食事できるからいいや。ね、リンちゃん」


 純が凛子を見ると、凛子は力強く頷いていた。口を一文字に結っている姿が妙に愛らしく、無垢な少女のように見えた。


「えっと、凛子、さん?」


 思わず声を掛けてしまった。やはり俺は凛子には興味がある。好奇心を押し込めておくことができなかった。


「凛子でいいわ」


 目が合っただけで心臓が口から飛び出しそうだった。透き通る、ガラスのような瞳にすべてを見透かされているような気持ちにさせられた。だが煩わしいとは思わなかった。無機質に思うが、どこか温かみがある視線だった。


「凛子は大学生なの?」

「ええ、二年生。臨床心理学科」

「心理学?」

「そうね、心理学の中の一つ。高校に入る前からやりたい仕事があったから」

「カウンセラー的な?」

「そう。落ち込んでる人や困っている人を精神的に助けたいから。アナタは?」


 小首をかしげる姿も愛らしかった。問いかけるときはこういう仕草をするのか。


「なんてことない、その辺の三流大学の経済学部さ。やりたいことは、そうだな、接客業かな」

「今みたいに?」

「そういうこと。好きなんだよ、こういう仕事。もう死んじゃったけど、俺の父親も接客業だったみたいだし。うちはこういうのが向いてる家系なのかも」

「そういうの、いいわね」


 ふと、彼女が笑った。僅かな変化であったし、短い時間だったから見逃す可能性だってあった。それでも、小さく、柔らかな笑みを浮かべていた。


「ねえケイゴ。リンちゃんに見とれてるとこ悪いんだけど、ちょっと教えてくれないかな」


 声のトーンを落とし、純が身を乗り出してきた。小さいチャームのピアスが揺れた。それにいい匂いがする。出会ったときにも香った、シトラス系の匂いだ。


「答えられることなら答えるけど」

「気を悪くしたら申し訳ないんだけど、二十年前の事件のこと、聞いてもいいかな。わかる範囲でいいんだけどさ」

「ああ、そういう……」

「あー、その、嫌ならいいんだ」


 一瞬にして純の顔が曇った。その理由はわかっている。俺が表情を変えたからだ。極力顔には出さないように頑張ったが無駄だったらしい。


「あんまり知らないけど、少しなら」

「そっか。それならありがたい。今日はいつ終わるの?」


 ホッとした様子でそう言った。


「そういうのは決まってないけど、いつもは十二時とかそれくらい」

「ちょっと遅くない?」

「俺がいる時はオーナー夫妻が交代で仮眠を取るんだ。夕食が終わると二人揃って十二時まで仮眠を取るんだよ。んで俺とどっちかが交代して、朝方には夫婦が交代。起きている方が朝食の仕込みをするっていうのがここのルール」

「じゃあ朝は何時に起きるの?」

「七時とか八時くらい。んで十時くらいからお手伝いを始める感じ」

「なら終わったら部屋に来てもらえる? それまで待ってるからさ」

「二人の部屋に来いと?」

「当たり前でしょ。来るまで待ってるからね。ちゃんと来なさいよ」


 またこの笑顔だ。ニヤッとして、白い歯を見せる。こういう顔をされるとどうしても断れない。


「わかりました……」


 純が人差し指と親指をくっつけて丸を作った。そしてそれを口元へ運び、傾けた。今日は飲むぞということだとすぐにわかった。酒が強い方ではないが、多少なら付き合うこともできる。


 料理が運ばれてくると、俺は小皿を取りにキッチンに戻った。カオちゃんがニヤニヤしながらこちらを見ていたが無視した。


 食べ始めると純の口数はぐっと減った。「美味しい」「そっちちょうだい」とは言うが、中身のありそうな話は一つもなかった。


 凛子は元々口数が少ない。が、更に無口になっていた。眼の前にある料理に夢中なのだ。


 眼の前にあった小皿の中身が空になる。あの量を三人でよく食べたものだ。女性二人はこんなに細いのに、どこに料理が入る余地があったのかと疑いたくなる。


 コーヒーとドルチェが運ばれてきた。すべてを察したカオちゃんが小皿も一緒に乗せてきてくれた。肩を叩き「がんばれ」と耳打ちしてきた。期待されても困る。


 料理をすべて食べ終わった頃。白沢木冴子の姿が見えた。時刻は七時半、ラストオーダーが八時なのでギリギリだ。


 冴子に遅れて早苗も降りてきた。やはり大きめのマスクをしていた。


 二人は離れた場所に座った。ラストオーダー近かったが注文も早かったので助かる。


 この後は食器を洗ったり片付けたりしなければいけない。持てるだけの食器を手にして立ち上がり、厨房に足を向けた。


「アタシたちは戻るけど、約束忘れるんじゃないわよ」


 純にも肩を叩かれた。年上の女性とは肩を叩きたがるものなのか。覚えて置いたほうがいいかもしれない。


 次の瞬間、もう一度肩を叩かれた。凛子だった。


「え、な……」

「純がやってたから。ダメだった?」


 クリクリとした大きな瞳が見上げている。思ったよりも身長が低い。冷たそうな印象だから背が高そうなイメージだったが、改めて近付いてみて実感した。


「ダメ、ではないけど」

「そう、それじゃあね」


 彼女のことがまったくわからなかった。同時に自分のこともわからなくなる。


 今まで付き合ってきた女性は皆、明るく活発でショートカットが似合うような女性が多かった。ハキハキして、不満をストレートに表現するような女性ばかり。だが今はどうだ。あのミステリアスな、無表情で底が知れない女性が気になって仕方がない。顔がいいからというのはもちろんある。それでもあの雰囲気を心地よく感じてしまった。


 後ろ姿が見えなくなるまで、彼女の背中を見送っていた。いつまでも見ていたいと思わせる。黒くて長い髪の毛も、小さな肩も、細い腰も、気になって仕方がなかった。なによりも瞳の奥にある暗闇が一番気になった。


 ちょうどその頃、コウちゃんが厨房から出てくるところだった。トイレにでも行くのだろう。


 しかし予想に反し、コウちゃんはあるテーブルの前で足を止めた。安城早苗のところだった。聞き耳を立てるのは行儀が悪いと、極力話を聞かないようにして厨房に戻った。それでも「あの頃は」「こんなに」「ありがとうございます」といった断片的な言葉だけは、どうしても耳に入ってきた。

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