一日目・1
時刻は昼前の十一時。日は昇っているのだが、季節柄気温はほとんど上がらなかった。
助手席のバックパックを手に持ち車から降りた。
車の横に立ち二の腕をさすった。腹も減っていたが、今はなによりも暖を取りたかった。足の指先が凍ったように冷たく感覚がほとんどなかった。
大きく息を吐くと白いモヤが大きく広がった。こんなはずではなかったのにと、そう思いながらも車の鍵を閉めた。キーレスエントリーなどという高価なものはついていない。そこからも分かる通り、十万程度で買った軽自動車はオンボロで、エアコンの効きがあまりよくなかった。
だが、ちゃんと到着したのだ。その点だけは褒めてやらねばならないだろう。同時にそろそろ車を買い換えなければいけないな、とも思った。そもそもそんな金があったらすでに買い替えている。貧乏学生にとってはオンボロでも車は車なのだ。
屋根を軽く撫でてやる。やらなければよかったと後悔するほどに冷え切っていた。どうせ触るのであればボンネットの方がよかった。
身体を縮みこませながらペンションへと歩いていった。両開きのドアには丸いガラス窓がついている。そこから中を覗くが誰もいない。本来ならばカウンターには一人置いておくのだが、それほどまでに忙しいということだ。
やや重いそのドアを押し、ペンションの中に入った。ふわっと、温かい風に包まれた。芯まで温まるには時間はかかる。だが室内が温かいというだけで安堵した。二時間の道のりだが、ガタガタ震えながら運転してきたのだ。暖房器具がきちんと仕事をしている場所に来れば「自分はまだ生きていてもいいのだ」という気持ちにもさせられる。
狭いエントランスではアース・ウインド・アンド・ファイアーのセプテンバーがかかっていた。オーナーの趣味で、その影響もあって俺も何枚かCDを持っている。だがあまりにも季節外れだ。
入り口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。このペンションは靴を脱いだ際、備え付けのビニール袋に入れて部屋に持っていくのが決まりだ。ペンションを始めた当初、靴が何足も盗まれたことがあったらしい。
「ここも変わらないよな」
エントランスを見渡す。入り口の正面にはカウンター、カウンターの一部を利用して売店が設けられていた。カウンターの左には二階への階段と地下への階段が隣り合っている。階段の更に左の方には食堂が見えた。元々大人数を泊めるような場所ではないので、大きさとしては縦横二十メートルもないだろう。
入り口の左手は風呂だ。右が女湯、左が男湯で両方に露天風呂がついている。源泉かけ流しの温泉であるため、風呂を目当てにして泊まる客もそこそこいる。
右手にはトイレ。最近洋式にしたらしい。このトイレもこじんまりとしている。男子トイレの個室は一つだし、女子トイレは二つだ。二階にもトイレはあるので問題はない。
「あらケイちゃん、思ったよりも早かったのね」
カウンターの奥の方から叔母さん、もといカオちゃんが出てきた。本名は
黒いセーターにデニムのパンツというラフな装いであるが、彼女の線の細さが強調される。顔も童顔であるため四十四歳には見えない。黒くウェーブがかかった髪の毛を後ろで束ねていた。彼女のこの格好は見慣れた姿だ。同じ洋服を何枚も買って着回しているので格好が変わらない。冬と夏で袖があるかなくなるかの違いだけだ。なによりも目を引くのがスタイルの良さだ。高校生になる娘がいるとは思えないほどに腰が細い。ダイエットのたまものなのか、仕事が忙しいせいなのかは考えないことにしている。
「ちょっと早めに出てきたんだ。俺の車、エアコンの効き悪いからさ。休憩しながら来ないとキツイんだよ」
「それじゃあ荷物置いて、先にお風呂入ってきたら?」
「え? いいの?」
「いいわよ。昨日のお客さんは全員チェックアウトしちゃったし誰もいないわ。でもわかってると思うけど、男湯と女湯、両方お風呂掃除だからね?」
「どれだけ人手不足なんだよ」
そうは言うが、人手不足であることは十分承知していた。カオちゃんの母親が転んで足を骨折してしまったのだ。オーナーであるコウちゃんの義母でもある。それだけでなく同時にオーナー夫妻の娘も同級生との旅行ででかけている。繁忙期に働く体制ではない。
「いつもちゃんとした部屋に泊めてあげてるんだから、文句言わないで仕事仕事」
そう言いながら、カオちゃんはボクに向かって鍵を放った。鍵と長めの棒の間にチェーンが付けられている。ビジネスホテルとかでもよく見るやつだ。その棒には「百合」と書かれていた。ここでアルバイトするとき、俺は必ずこの部屋に泊まる。お風呂も入り放題で食事も美味い、それでいてちゃんとアルバイト代も出るのだから、来ない方がもったいないというものである。ただし通常の客は決められたメニュー以外は別料金で、食べた分はチェックアウトのときに宿代と合わせて精算する。調子に乗って食べ過ぎると、気付いたときにはとんでもない料金にもなりうる。
カオちゃんが人差し指で二階を指さした。「早く荷物を置いてこい」ということだろう。
渋々ではあるが、階段を上って二階に上がった。階段を上って左手、一番近いところにあるのが百合の間だ。
ドアを開けた正面にはベッド。ベッドの上には六十センチ平方の引違い窓が設置されているが、見えるのは木ばかりで面白みはない。一応網戸はあるのだが、夏場に窓を開けっ放しにすると、カブトムシなんかがタックルしてきて網戸に穴があくことも多い。これも大自然の愛嬌かもしれない。ありがたいことに二重サッシなので冬も安心だ。
右手にはクローゼット。ドアと対角線の角にあるテレビは十六型の液晶テレビで、壁から突き出しているテーブルの上に乗っていた。ちゃんと有料チャンネルを備えている。と言っても一度も使ったことはない。テレビの上部、天井近くにはエアコンが設置されている。最近買い替えたばかりだから快適だ、というのは叔父であるコウちゃんが電話で言っていた。
外観もそうだが見た目は古めかしく、所々に傷がある。液晶のテレビと電気ポットだけがタイムトラベルしてきたような、ちょっとちぐはぐな部屋だ。それでも清潔感だけは失われない。隅々まで掃除され、無臭なのも点数が高い。
しかしこのペンションの中では一番安い部屋だ。他の部屋は一泊食事付きで一万五千円程度するが、この部屋だけは一万もしない。というのも過去ここで人が死んだというのが原因だ。
バックパックをベッドの上に下ろした。ダウンジャケットをハンガーにかけ、その下にあったタオルを手に取って部屋を出た。
階段を降りると叔父さんが立っていた。幡辺浩二が本名だが、カオちゃんと同じ理由でコウちゃんと呼んでいる。身長は二メートル近くあり肩幅が広い。生やしっぱなしの髭も相俟って山男という言葉がよく似合う。ただ、見た目に相反してびっくりするくらい臆病者だ。カオちゃんと結婚して正解だと思う。
「どうしたの、そんなとこに突っ立って」
俺がそう言うと「待ってたんじゃないか!」とコウちゃんが両手を広げた。さあ来いと、そう言っているように見えた。どうしてこうも子供扱いするのだろう。そう思ったがなんとなく理由には思い当たる。コウちゃんは息子を欲しがっていた。きっと学生時代も女性と逢瀬を重ねるよりも、男友達とバカをやっている方が好きなタイプだ。息子を引きずりまわしてスポーツなんかをするのが夢だったのだろう。
「もうそういう年じゃないから」
階段から降り、コウちゃんを避けて風呂に向かった。
「なんだよ! 小さい頃はコウちゃんコウちゃんってあんなに可愛かったのに!」
「何年前の記憶だよ」
自分でも笑っていることがわかる。憎まれ口だということもわかっている。それでもこういう人だから、こちらもそれなりの対応をしないと調子に乗るのだ。
ちなみにコウちゃんのことは好きだ。父さんの代わりにいろんなことを教えてくれた。一緒に風呂に入ってくれたし、たくさん遊んでもらった。今だってこうしてペンションに呼んでくれる。嫌いなる理由はどこにもなかった。
山奥にある、決して大きいとは言えないこの「ペンション幡辺屋」は、俺の叔父が経営している。居酒屋のような名前であるが、名前がつけられたのが何十年も前なのでコウちゃんに文句を言っても意味がない。
コウちゃんは俺の父さんの弟だが、旧姓は金城だ。つまりコウちゃんは幡辺の家に婿養子としてやってきた。幡辺のじいちゃんは五年前に亡くなり、今はコウちゃんがペンションのオーナーになっている。幡辺のばあちゃんはまだ現役だが、今は病院で治療を受けている。オーナー夫妻は仕事から離れられないので、カオちゃんの妹が付き添っているようだ。
広いとは言えない風呂場に足を踏み入れた。まだ服を着ているのはそういう趣味があるからではない。まずは掃除をしなければならないのだ。何回もやっているが、男湯と女湯を両方掃除するとなると骨が折れる。
まずは女湯を掃除し、続いて男湯だ。それが終わるとようやく入浴になるが、すでに二時間以上経過していた。内湯の掃除はいいが、露天風呂の掃除は本当に寒い。早く風呂に入りたくて仕方がなかった。
銭湯などにも行かないので、足を伸ばせる風呂は気持ちがいい。内風呂は一つだが小さな露天風呂がある。一応そちらにも入るが、この季節で山奥となると、内風呂に戻るときに身体が冷えていけない。もう一度内風呂に浸かって身体を温めた。
ドライヤーで髪を乾かして脱衣所を出た。自室に戻って備え付けの乾燥ラックにタオルをかけた。膝丈ほどしかないラックはフェイスタオル三枚しかかけられない。仕方ないので、バスタオルは上着用のハンガーにかけてカーテンレールに干した。
このペンション幡辺屋は、スキー場からは少し離れた位置にある。ペンションやホテルが立ち並ぶ場所みたいな賑やかさはない。しかし、幡辺屋はいろんな意味で有名であった。
一つ目は料理が美味いということ。雑誌にも載ったことがあるため、宿泊は別の場所で、食事は幡辺屋で、という人が結構多い。しかし食堂として機能するのは春と秋で、夏と冬は宿泊しかやっていない。つまりこの季節は泊まらなければ料理を食べられないのだ。予約は常に満員、キャンセルが出ればすぐ埋まる。最低でも三ヶ月前から予約を取らなければ泊まれない。
二つ目はオーナー夫婦の人当たりがいいこと。これによって宿泊の方も食事の方も、一度ついたリピーターを離さないのだ。ペンションも趣きがあるということで、夏は避暑地として、冬はスキー客が多い。
そして三つ目。物好きな人間が来る理由として二十年前の殺人事件がある。ただの痴情のもつれからの殺人、というだけではない。事件を解決したのはテレビでも取り上げられるほどの有名な探偵、白沢木冴子という人物。そのおかげで、妙な観光客なんかがそこそこ訪れるのだ。
「ケイ! 私は買い出しに行ってくるからカウンターお願いね!」
階下に降りると、カオちゃんが鍵の束を放ってきた。いわゆるマスターキーというやつだ。この束があればどの部屋にでも入れる。
この時間はコウちゃんが仕込みを始める時間だ。おそらく、普段ならば仕込みの時間に出かけるということがない。二人きりでやっているので仕方がないのだろう。
が、来年からはどうするつもりなのだろう。俺は一ヶ月もいないし、オーナーの母親はすぐには復帰できないはずだ。オーナー夫妻の娘、莉緒だって常に手伝ってくれるわけじゃない。特に来年からは受験勉強をしなきゃならなくなる。そうなるとアルバイトを雇うのが濃厚だ。そんなことを思いながらカウンターのイスに座った。コウちゃんもいないので、スマフォを取り出してゲームを始めた。やはりというべきか電波が一本しか立っていないので通信速度が遅い。ワイファイを入れた方がいいと、そろそろ進言した方がよさそうだ。
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