◆5-2
馬車ごと宮殿の中に乗り付け、沢山の者達にかしずかれながら、庭に面した廊下を歩く。皇帝が座す本殿が瑠璃宮、第一位の皇子が住む一の殿が瑪瑙宮、そして瑞光が住まう二の殿は翡翠宮と呼ばれ、その石で屋根が葺かれている。瑞香としては、磨けば売れる宝石を大量に雨ざらしにするなんて勿体なさすぎるという感情が先に立つが、権威の象徴でもあることは理解できるので我慢している。無駄すぎる広さと廊下の長さに瑞香が辟易としていたところで、妙齢の女にしては酷くはしゃいだ声が響いた。
『お帰りなさいませ、瑞光皇子!』
流行の着物を下品ではない程度に着崩した女が、頬を紅潮させて瑞光に駆け寄ってくる。貴族の女としては品性に若干欠けるが、瑞光は気にした風もなく優しい笑みを美しい顔に浮かべて答えた。
『ただいま、
『問題ございません、翡翠宮は全て私が仕切らせて頂きましたわ。どうぞ、ご報告させてくださいまし』
『いや、まずは陛下に目通りを願いたい。可愛い弟の頼みでもあるしね』
こっちに振るな、と内心苦虫を噛み潰しつつ、女に対して丁寧に礼をする。自分はあくまで商人であり皇子の地位は無いのだと言いたいのだが、許されない限り声を発することも出来ない。
女は面白いほどに化粧を纏った美しい顔を歪め――瑞光よりも美貌としては数段劣るのが何より不憫だ――何故お前がここにいるのか、と睨みつけてくる。頼むから勘違いして不興を買うなよ、と気まで使いながらただ黙って待つ。瑞光が動かなければこちらも動けない。
『瑞光皇子、こちらは――』
『久しぶりに弟が帰ってきたのでね、まずは労ってやりたいんだ。用意していた部屋へ案内してくれるかい?』
『……っええ、お望みのままに。どうぞ、こちらへ』
悪趣味め、と言いたい言葉を奥歯で噛み潰す。おそらく妾の一人であろうこの女が鬱陶しいのだろう、排除するために遠慮なく弟を使ってきた。そしてこれでもし、彼女が瑞香を邪険にするような態度を取ったら、瑞光は何のためらいもなく己の妾を殺す。彼女もそれに気づいているのだろう――気づかなければこの宮では生きてゆけまい。
瑞光が他の護衛を連れて悠々と去っていく背を名残惜し気に見送った女は、すぐに笑顔を消して瑞香を睨みつけた。
『……今更、何の用です。お前に最早、皇子の寵愛は与えられないでしょう』
望む所なんだがな、と思いつつそれが不可能であることもよくわかっているので、深々と頭を下げるだけで答える。見張りとして残されたのだろう小目も何も言わない。
『皇子がいずれ冠を頂いた時、私が皇后です。お前も身の振り方を考えておくように』
ふんと鼻を鳴らし、はしたなくならない程度に荒い足音で側付きを引き連れて歩いていく女に、見えないようにぺろりと舌を出して後に続いた。
×××
――案内されたのは、庭の大きな池の、中島に据えられた離れの間だった。八角形の堂のような家の中は、豪奢に飾られているがやはり狭い。その狭さに安堵したのか、香梅と呼ばれていた女は勝ち誇ったように言う。
『ここはお前の牢も同じ。下手な真似をしないことね。今更皇位が惜しくなったとしても、お前に従うものなど一人もいないでしょう。……何か答えなさい!』
返事がないことにしびれを切らしたのか、女は手にしていた扇を振り上げ、瑞香の顔に向かって投げた。避けるつもりは全く無かったが、その投擲は素早く割り込んできた腕で掴み、止められる。
当然、割って入ったのは小目だ。その顔にはいつも通り、如何なる感情の揺らぎもない。ただ、手の中の象牙の扇をみしり、と握り潰し、蒼褪めた女に向かって淡々と告げた。
『――瑞光様のご命令です』
『……ッ、ええ、解っているわ。戯れよ。――戻るわ!』
瑞香の処遇に対する端的な事実のみを伝えられ、顔を真っ赤にした女が足取り荒く、逃げるように去っていき――瑞香は漸く大きく息を吐いて、天鵞絨の寝台に倒れこんだ。
『はぁー……めんど』
両手で顔を覆い、漸く本音を絞り出した瑞香に、小目は何も言わない。ただ黙って部屋の隅に控えている。
『別に逃げやしないから、外出てろよ』
視線すら投げずに、言う。小目は動かない。僅かに顎を引くように礼をしただけで、ぴくりとも。もう一度息を吐いて、勢いをつけて立ち上がる。
大股で三歩、小目の目の前で止まり、その襟首を掴んで自分より背の高い位置の顔を引き下ろす。相手の表情は動かない。静かすぎる目で、ただ瑞香を見ている。――ずっと燻っていた苛立ちが、耐え切れず爆発した。
『今更! お前に守られようなんて思っちゃいねぇんだよ!!』
鼻先が触れ合うぐらいの距離で叫ぶ。どうしようもない感情だけの罵声だ。何一つ、相手に痛痒を与えないことも解っている。彼は瑞香の護衛であると同時に首輪であり、それ以上でもないしそれ以下でもない。
『――瑞光様のご命令です』
だから、いつも通りの答えが返ってくる。目の前に理不尽な死が晒されていても、それを彼自身が与えたとしても、何の滞りもなく。先生が死んだ時も、北方国に渡ってからも。
『は……、解ってるよ。今更お前に怒りなんて沸いてこねぇ』
唇が無様に歪む。笑みにしてはあまりにも、己を嘲るように。
『ただ、あの時――お前の事を信じちまった俺自身に、只管むかっ腹が立つだけだ……!!』
絞り出すように叫んで、腕を払って小目の襟を解放する。小目の表情は変わらず、何一つ動かない。一瞬の激情の後は虚しさしかこみ上げてこず、そのまま寝台に飛び込み、上掛けに潜り込む。悔しいが、逃げ場がそこにしかなかった。
小目はそのまま、軽く襟を正してから静かに礼をして、再び部屋の隅へ控える。その後、次に瑞光が現れるまで、互いに言葉を交わすことは無かった。
×××
足取り荒く歩く香梅の傍に、すっと影法師が一人現れて囁く。
『委細、準備出来ました。如何様にもご命令を』
『そう。ならば手早く済ませなさい。瑞光様のお心を乱す北方人など、必要ありません』
『御意』
影はすぐに消える。女は、素直に微笑めば美しいだろう顔を苛立ちの笑みで彩りながら、一人ごちた。
『……ご安心下さいませ、瑞光様。邪魔者の始末は全て、私にお任せください』
彼女が瑞光の妾として取り立てられたのは、そちらの方向で役立つからだった。優秀な影法師を有する家に生まれ、政敵を排する手管が利用できると、瑞光に捧げられた。彼女も政略結婚など覚悟していたし何の魅力も感じていなかった――瑞光本人に逢い、心を奪われるまでは。
彼の為なら何でも出来る。瑞光が望んでいることを汲んで、命じられずとも必要なことをこなす。それを続けていれば、瑞光は微笑んで礼を言い、彼女を何度も閨に誘ってくれた。――正式に召し上げられ、名として香の一文字を貰った時には、引っ掛かってしまったけれど。
何故あの弟だけが彼の寵愛を受けるのか。国を出奔し、金集めにしか興味を示さず、全く瑞光の役には立たない者なのに。嫉妬と悔しさが、紅を引いた唇を歪ませ、自然と爪を噛んでいた。
『いずれ、あれも――』
願望が口から出そうになって慌てて噤む。あの邪魔者を引き裂いて殺してやりたいけれど、もしそれを瑞光に気取られてしまったら、次に消されるのは自分だろう。それぐらいの分別は彼女にもある。だからこそ苛立ちが止まらないのだが。
せめて今は、瑞香の余分なものであると思われる、北方の客人たちを血祭りに上げて慰めとしよう。きっと瑞光もそれを望んでいると、香梅は本気でそう思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます