瑞香の過去

◆5-1

 がらがらと車輪が回る。道を均す竜司がいるのか、振動は殆ど感じない。己の道を妨げない為に竜の力を借りる、王族でなければ乗れない馬車だ。

 広く快適な筈の車内は、瑞香に笑顔を齎さない。先刻まで出来ていた他者に対する愛想も、今や全て潰えている。

『疲れたのか、香々?』

 全ては、目の前の席にゆるりと腰かけている、実の兄――皇位継承権第二位、藍瑞光がいる故に。彼が口を開くだけで、瑞香の喉がぐっと吐き気で詰まるが、それを堪えて声を出す。

『いいえ。久々に母国語を話すので、言葉の扱いに戸惑っておりました』

『ははは』

 冗句と思ったのか、瑞光はゆるやかに笑う。その様はあまりにも優雅で、口元を扇で隠す所作も美しく、弟の愛想の悪さなど意に介した様子もない。身分が高いのにも関わらず鷹揚な方だ、と何も知らぬ者ならば思うかもしれない。

 だが、瑞香は知っている。

『香々?』

『――はい』

 子供の呼び方で名を呼ばれ、言い返したくなるのを堪えて返事を返す。美しい男は、ただ微笑んで片手を掲げ、ゆうるりと手招きをした。ぎ、と自分の手指が置いた膝に食い込むのを感じ、瑞香は一度ぎゅっと目を閉じ――のろのろと立ち上がる。全く揺れない馬車の中、一歩で辿り着ける対面の席が酷く遠い。震える脚が前に進んだ瞬間、腕を掴まれた。

『ッ!』

 振り解きたいのを堪えているうちに、豪奢な絹の胸元に引き寄せられ、頭を撫でられた。鼻と口に彼が焚いているのだろう麝香の薫りが充満し、息が出来なくなる。

『良く戻ってきてくれた。良い子だ、香々』

 その声はどろりとした糖蜜のように、瑞香の耳に流れ込んでくる。実の弟に対してかけるにはあまりにも甘ったるい声に、全身に怖気が走った。

『……お戯れを。私はもう三十路を過ぎておりますよ』

『幾つになっても、お前は私の大切な弟だとも』

 どうにか絞り出した僅かな反論も、柳に風とばかりに流される。解っているのにこうなる度に、瑞香の心は削られていく。――この男は何も変わっていない、と。

 一見、誰にでも優しく優秀で、現皇帝の覚えも目出度い皇位継承者。現在の宮殿では、継承権第一位の皇子と違わぬ、否、上回るほどに、その実力と勢いは折り紙付きだ。しかしその実態は――

『ときに、香々。御前が北方から連れてきたあの男達は、どんな者達だい?』

『――兄上のお役に立てるものではありません。北方国の王太子へ繋がる手段の一つであり、顧客として扱っております』

 抱き締められたままなので、僅かに身を固くしたことに気づかれたかもしれない。冷や汗を堪えて、用意していた答えを話す。この男に、自分が大切にしているものを知られるわけにはいかないからだ。

『そうか。――小目』

 そこで初めて、瑞光は視線を一切動かさず、馬車の隅に控えていた小目を呼んだ。完全に気配を消していた大柄な男は、跪いたまま無言を貫く。

『香々が言っていたことは本当かい?』

『委細、相違ありません』

 そこで初めて瑞光は納得したように頷き、もう一度愛し気に瑞香の黒髪を撫でてから解放した。僅かに息を吐き、席に戻る。

 小目は本来、瑞光の傍付だ。彼の命に逆らうことなど有り得ないし、嘘をつくという概念自体が無い。そういう風に育てられたのだ。

 この国では遥か昔から存在してきた、「影法師インズイーシー」と呼ばれる、道具として生きることのみを許された者達。小目もそのひとりで、その名前はまさしく、弟に付ける小さな目という意味で瑞光が名付けたものだ。

 しかしそういう出自であるが故――主を謀らない為にも、彼らの言葉は酷く朴訥で、嘘を言うという概念も教わっていない。使う側も解っているので、嘘発見器のようにしか使わない者も大勢いる。だから自分で言葉を選べば、真実をこの男に伝えなくて済む。まずは第一関門突破だ、と瑞香は油断せずに座り直した。

『そうか……お前の邪魔になるのなら、小目に掃除を頼もうと思ったが、問題は無いのだね?』

『――っはい、勿論です』

 一瞬、凄まじい怒りが体内を席巻して、声が歪んだ。勿論、自分が怒っていようが泣いていようが、目の前のこの兄に何の痛痒も齎さないことは知っているから、隠す必要などないのかもしれないけれど。

 この男が欲しいのは、自分の思い通りに動くもの。そうでないものは、簡単に、あっさりと、その存在を消される。瑞香が何故彼に好かれているのか、その理由は解らないけれど、だからと言って瑞香を尊重してくれるわけではないことは、骨身に染みていた。



 ×××



 最初は、母だった。生憎瑞香が赤子の頃だから、覚えてはいない。ただ、祖父――黒鰐が言うには、曲がりなりにも二人男子を産み、皇后としての地位を得た母が、数多の警備を潜って毒盃を受け取るのはとても難しいであろうと語っていた。あの状況で毒を盛れるのは――常に共に過ごしていた、兄しか有り得ないだろうと。当時、僅か十歳で既に神童と名高かった兄を疑うものは、当然いなかったけれど。

 瑞香とて、この話を聞いた時に確信が無ければ、とても信じなかっただろう。そうであろうという納得が、既に己の内にあった。

 母という後ろ盾を無くした皇子達は無防備で、特に幼い瑞香は格好の的になった。最初は優秀な兄に矛先が向かっていたが、彼が優秀過ぎる故にいつの間にか敵は蹴散らされ、いなくなり――瑞香に集中した。そして当然、瑞光はそれに対しても容赦しなかった。

 瑞香を宮殿の池に突き落とした別の皇子は、数日後に同じ池に浮かんで冷たくなっていた。命を奪わぬ程度の毒を瑞香の菓子に仕込んだ女は、猛毒を喉に流し込まれて全身をぶす青くして死んだ。当然、兄弟は疑われたが、証拠は何も出てこず、着実に瑞光は己の地位を盤石にしていったのだ。

 あの頃は――瑞香も辛かったけれど、無邪気に兄を信じていた。何せ周りは敵ばかりで、兄に守ってもらえれば安全だったから。兄の抱擁に安心して、あまりにも多い血が流れていることにも、愚かにも気づかなかった。

 きっかけは、北方人の言語教師がやってきたこと。身分は低いが、これから北方とも貿易などで国交が開かれた際、北方語が必要になる為、宮殿に上がることを許された女だっだ。

 瑞香は好奇心の赴くままに、自分も北方語を習いたいと申し出た。彼女は明るく元気で、地位は低くとも皇子である瑞香のことも生徒として、ごく普通の少年として扱ってくれた。閉塞感しかない宮殿に辟易していた瑞香にとっても良い息抜きだったし、彼女のことが好きだった。

 そして――彼女は殺された。宮殿の一室で、男に首を絞められて。

 彼女を殺したのだろう男は警備兵の一人で、つい先日瑞香を擦れ違いざまに槍の石突きで軽く突いてからかったことがあった。その男も、胸に北方式の小刀を刺されて同じ部屋でこと切れていた。痴情の縺れの有様である、と結論が出て、犯人探しもされなかった。

 瑞香は兄にどうして、と訴えた。彼女とその警備の男が何の関係も無かったことは確実だった、彼女は仕事が忙しく、殆どの時間を瑞香の授業に充てていたのだから! 彼女は何も悪いことをしていないのにどうして、と。

 嘆き悲しむ弟に、兄はいつも通りの美しい笑みを浮かべて、こう言った。

『私には、香々以外必要が無いからね』

 ――瑞香が兄以外に心を向けたから、ではなく。瑞香に別の付属物は必要ないのだ、と言った。

 そこで瑞香は愚かにも初めて気づいたのだ。兄の世界には兄しかおらず、自分は兄の所有物としてしか扱われていない。そこに瑞香の気持ちや心など、何も入っていないのだと!

 絶望し、怒り、泣いても、瑞光はまるで気にした風もなかった。ただ少し困ったように、私はお前まで失いたくないのだよ、と静かに語った。

 どうしようもない断絶だ。嘘だと信じたかったが事実なのだ。瑞光にとって全てのものは自分の思い通りに動くものであり、――そうならないものはどんなに大切でも惜しくはないのだ、と。

 どうしたらいいのかわからなかった。ただ恐怖のままに宮殿を出奔し、祖父である黒鰐の元へ転がり込んだ。孫の訴えた言葉に、僅かに瑞光に持っていた疑念が確信に変わったらしい黒鰐は、瑞香の後ろ盾となり皇位継承権を放棄させ、商会をひとつ与えた。そして、せめてこの国を離れれば少しはましになるだろう、と北方国への留学と、後の商売の基盤を作るようにと命じてくれたのだ。

 正直、瑞光がどう動くかは戦々恐々だったが、意外にも彼は深追いをしてこなかった。代わりに優秀な影法師である小目を瑞香に下賜した。首輪だと解っているけれど、受け取るしかなかった。

 ……ちゃんと、解っていた筈だったのに。小目が所詮、兄の末端に過ぎないことを、北方に逃げて、初めて友人というものを得た瑞香は愚かにも忘れていたのだ。だからまた大切な相手を失う羽目に――

『香々』

 どく、と心臓が震えて、物思いから意識が戻ってきた。豪奢な馬車の内装も、目の前で微笑む兄も、端に控えている小目も何も変わっていない。

『はい、なんでしょうか兄上?』

『そろそろ宮に着くからね。お前の部屋はちゃんと用意してあるから、遠慮なく寛ぎなさい』

 鳥籠の準備は出来ている、ということだ。覚悟はしていたし、これからが勝負。ビザール達の安全は黒鰐に頼んできた、いざとなったら彼らだけでも北方国に帰すようにとお願いしてある。だから――戦わねば。

『お気遣いありがとうございます、兄上。ついては是非、陛下にお目通り叶いたく存じます』

 商人用の笑顔を貼り付けて告げると、ほんの僅か、瑞光は困った顔をした。例えこの国の絶対者であろうと弟に会わせるのは嫌だが、彼の皇子としての外面が完璧であるからこそ、拒むことが難しいのだろう。それが解っていて瑞香も振ったのだ。

『……そうだね。香々も父上に久々にお会いしたいだろう。時間はかかるだろうが、席を設けよう』

『いえ、私は最早地位を捨てた身です。一介の商人として、陛下にご報告させて頂ければ充分にございます』

 瑞光は確かにその頭脳と人脈で宮殿を支配しつつあるが、絶対者ではない。この国で皇帝とはそれだけの権威と権力があるものなのだ。たとえ誰であろうと、皇帝陛下には逆らえない。北方との国交や貿易は、現皇帝がずっと掲げていた政策のひとつだ。その最前線で働いている瑞香の報告を無視することは出来まい。

『……仕方ないね。全く、私は香々に甘いな』

 苦笑して己を下げる兄に鳥肌が立つが、堪えて笑顔で礼をする。自然と窓の外に視線を向けると、朝焼けに照らされる平原の先に、美しい原石で葺かれた宮殿の屋根が見えた。

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