◆4-2

 皇国に客人を上陸させる手続きの為、瑞香と黒鮫が先んじて船から降りた。港はまるでお祭り騒ぎだ。藍商会の積み荷がこの街を潤しているのは紛れもない事実であるし、何より今回は瑞香自ら訪れると先触れを出しておいた。

 港には既に、この街の太守である黒鰐ヘイエュウが待っていた。黒鮫の父であり、彼の娘の一人が現皇帝に嫁いだことによる外戚の地位も得ている。つまり、瑞香の母方の祖父にあたる男だ。

 御年七十を数えるにも拘わらず矍鑠とした男は、僅かに曲がった腰を気にする風もなく、己の足で客人たちを出迎える為港へ陣取っていた。

 いつも傍に居る従者の姿が見えない事を気にすることなく、瑞香は堂々と黒鰐の前まで歩く。貴人に対する礼をすることもなくずいずいと――そして、細いが未だ海の男として筋骨の強い黒鰐の腕に抱き締められた。

香々シャンシャン! よう来た、よう来た! この爺不幸もんが!』

 子供の頃の渾名を呼ばれた瑞香の方が、背の高さはもう上だった。潮の香が染みついた白髪に顔を埋めることになり、耐え切れずくすりと笑う。

『長いことの不義理、申し訳ありません、御爺様』

『こまっしゃくれるな、餓鬼め。うちのもん達も皆お前の話を聞きたがってるんじゃがなぁ』

『お気持ちは嬉しいですが――もう迎えは来ているようですね』

 瑞香が指摘すると、黒鰐は苦虫を噛み潰したような顔になった。

『……すまんな。儂の一存だけでは止めることが出来なんだ』

『謝罪はいりません、覚悟はしていましたから』

 彼自身も不本意であろうが、身分が上の貴人を無視することは大変な無礼となる。たとえそれが、自分の孫であろうとも。

 港町の気性の荒い男達の間を、まるで夢幻のように豪奢な輿が通ってくる。それは過たず瑞香達の前まで辿り着き、黒鰐が表情を消して頭を下げ、脇に寄る。そして、輿の御簾がゆっくりと捲り上げられた。

 中に鎮座していたのは、美しい男だった。流れるような黒髪は綺麗に結い上げられ、簡素であるが純金の冠で纏められている。涼やかなその容姿は流麗にして高貴。ネージ国の王太子のような激しい覇気は無いが、代わりに水流のような涼やかさをその身に有していた。並の女ならあっという間に骨抜きにされてしまうだろう、睫毛の長い切れ長の瞳は、瑠璃のように濃い青。国の開祖・菫青の血を引く証だ。

 どこか冷たさを与える容姿が、瑞香の姿を視界に入れて、まるで花が綻ぶように微笑む。周りのむくつけき男達すら、思わず頬を赤らめてしまうような美貌がそこにあった。その瞳に、まっすぐ見つめられて――瑞香の背がぞくりと震える。他ならぬ、生理的嫌悪感と、怒りによって。

 く、と喉を鳴らし、堪える。今までの人生で培ってきた何千匹もの猫を被り、全精神力をかけて口元に笑みを浮かべる。

『お迎え、感謝致します。――兄上』

 声を震わせないことに全力をかけて、深々と臣下の礼を取った。輿の上の男は、その声を聴き、まるでずっと欲しかったものが手に入った子供のような、無邪気な笑みを浮かべていた。



 ×××



 船を降りた男爵一行は、黒鰐の屋敷にて歓待を受けた。

『此度は宴じゃ! 遠き北国から参られた客人を持成そうぞ!』

 黒鰐の号令に、広間に集められた者達がわっと沸く。どうも街の人間達が彼の屋敷に次々と集まっているらしく、広間と繋がった庭が解放されて沢山の料理と酒樽が並べられ、最早祭りのような状態だ。

『いやはや、素晴らしき歓迎に感謝を捧げましょう! 吾輩、この腹が感激に打ち震え高鳴っております!』

 流暢な南方語がビザールの口から放たれ、周りの男たちがどっと笑う。変わった客人は、港町の気のいい男達にすぐに受け入れられたようだ。勿論、言葉が通じるということが一番大きいのだろうが。

『お嬢ちゃん、これをお飲みよ、果実水さ。男どもと同じ調子で飲んだらすぐ酔っぱらっちまう』

『こんな小さいのに、船旅は大変だっただろう。口に合うかわかんないけど、沢山お食べ』

 リュクレールは最初ビザールの側に座っていたが、酒をかっ食らう男達が興味本位でどんどん近づいてきたので、黒鰐の命令とビザールの促しで女達の席に移された。見た目はまだ幼い少女のように見えるリュクレールは、普段男達の尻を叩く女傑たちの庇護欲をそそったらしく、次々料理を運んで彼女の前に並べ、なにくれとなく世話を焼いている。

『あ、ありがと、ございます。とても、うれしいです』

 どうにか付け焼刃の南方語で礼を言うと、女達は笑顔で頷いてくれるが、拙さが恥ずかしくなってしまう。促されるまま食べると体調を崩してしまう恐怖もあるが、好意を無視することも出来ない。どうにか一口ずつだけでも口に入れようと、必死に顎を動かす。

「――奥方様、ご無理はなさいませんよう。残ったものは全て旦那様が片付けますので」

 と、恐らくビザールから命じられたらしいヤズローがリュクレールの側に来た。頑張り屋の妻が無理をし過ぎない為のお目付け役だろう。

「ええ、大丈夫……ヤズロー!? それはどうしたの!?」

 振り向いて、驚く。ヤズローの口元と襟が、まるで血のように真っ赤な液体で濡れていたからだ。彼自身は痛そうなそぶりは全く見せず、逆に悔しそうに眉を顰める。

「ここの子供たちにやられました。味は良いのですが」

 そう言って彼が差し出したのは、ベリーにしては随分つるりとした、丸くて黒い木の実だった。

『ああ、黒雫果ヘイナクオを食べたのかい。失敗するとそうなるよねぇ』

『こら! お客さんをからかうんじゃないよ!』

 女達の声に、庭からこちらを覗いていた子供達がわっと逃げ出す。意味が解らずリュクレールが目を瞬かせていると、ヤズローが実を一粒抓んで、くっと力を込めた。

「あっ」

 ぷち、と皮が弾け、大きな雫がみるみる浮かんでくる。色はまるで血のように赤黒い。零す前に素早くヤズローは身を口にくわえて吸う。

「一粒だけで口の中がいっぱいになって、零してしまいました。不覚です」

「こんな果物があるのね。ちょっと食べてみたいけれど、服を汚してしまうかしら……」

 話しながら、さり気なくヤズローがリュクレールの耳元に顔を寄せる。リュクレールも自然と首を傾げて促すと、ひそりと囁かれた。

「……やはり、御屋敷の中に瑞香様はいらっしゃらないようです」

「そう……一体、どうなさったのかしら」

 リュクレール達より先に上陸した瑞香だが、その後姿が全く見えなくなった。荷下ろしは完了しているし、彼の性格なら宴に参加しないなど有り得ない。何よりこの街の太守は彼の祖父にあたるのだという。一体、何があったのだろうか。

 ビザールはそのことに関して全く指摘していないし、黒鰐も何も言わない。つまり、恐らく理由を知っており、その上で言わないのだということも解る。それでも、船の中で聞いた話と共に、不安が消えなかった。彼が何か、厄介なことに巻き込まれているのではないかと。

「……でも、いざという時にはきっと、男爵様は瑞香様の力になって下さるわ」

「はい、仰る通りかと」

 リュクレールが小声で本心を囁くと、ヤズローも確り頷いてくれた。二人の信頼は決して揺るがないし、それを裏切る悪食男爵でないことをよく知っている。

「やっぱり、きちんと南方語を勉強すべきだったわ。こちらの方々にお話を伺うことが出来たのに」

「お気持ちは解りますが、通訳ならばお任せ下さいと無駄にはしゃいでいたのは旦那様です。奥方様には何も責はございません」



 ×××



 従者が己をいつも通り腐していることに気づくこともなく、ビザールは何十杯目かの杯を干した。穀物を発酵させて作ったこの国独特の酒はかなり酒精が強いが、彼の腹には何の痛痒も与えず、遠慮なくいただいている。

『お客人、良い飲みっぷりだの。そらもう一献』

『ンッハッハ! 有難く頂きましょう黒鰐殿!!』

 なみなみと注がれた透明な酒を一息で飲み干し、丸い頬をにんまりと緩めてから、さらりと。

『番頭殿には、皇都からお迎えがいらっしゃったので?』

 ごく自然に囁かれた言葉に、黒鰐は全く表情を笑顔から動かさず、それでもほんの少し声を抑えて答える。

『ええ、熱心なことで。……出来れば、もっと好きにさせてやりたいものですが』

 固有名詞を出さず、言葉を交わす。ある程度理解はしていたが、どうやら親友だけでなく、この太守も監視をされているらしい。迂闊に名を出せば、危険分子と目を付けられる可能性があるのだろう――瑞香を略取した者に。

『普段から、客や宴は多いのですかな?』

『いやいや、こんなのは珍しいとも。番頭から帰ると手紙が来てから、皆大はしゃぎよ』

 番頭、とは藍商会の元締め――つまり、瑞香のことだ。彼が国に戻ることは既に知られていて、着いた直後に確保された、ということなのだろう。

『あれは翡翠が好きなので、良いものをこちらで採掘しておるのですよ。おや、杯が空ですの。次は蒸留酒など如何ですかな?』

『ンッハッハ、喜んで!』

 話を切るように黒鰐が笑い、ビザールは何の緊張感も無い笑顔で受け取る。これ以上の思わせぶりな会話も危険、ということか。親友ながら、厄介な相手に目をつけられているものだと内心肩を竦める。香りの強い酒をまた一息に飲み干し、話を変えることにした。良くしてくれている太守殿に迷惑をかけるのも不本意だからだ。

『……時に、この街の近くに斎王家の墳墓があるとお伺いしたのですが、我々が拝見することは可能でしょうか? 吾輩の愛しい妻が、一度見てみたいと仰っておりまして』

『ほほう、確かにこの屋敷の裏山に入り口はありますとも。興味を持って頂くのは有難い話ですが……生憎王家が代わっても、墳墓は不可侵でしてな。我が国の者達は迂闊に入り込みません。山中ならともかく、墳墓の中にまではとてもとても。中は迷路のようになっており、この屋敷や港に続く通路もあるそうですが、今や誰も知るものはおりませんなぁ』

『成程、成程! いやはや勿論、黒鰐様達にご迷惑はかけませんとも。――有難うございます』

『いえいえ、こちらこそ』

 一瞬、皺の下の黒い目が瞬き、ビザールとひたりと視線を合わせる。それはすぐ笑顔に埋もれてしまったが、彼の意図を確りと受け止めてビザールは満足げに酒臭い息を吐く。――何かあった時には墳墓に向かえば、港まで逃げられる可能性がある、という示唆だろう。恐らく、そうしなければならない荒っぽいことが起こるであろうことも、忠告してくれている。

 親友が心から信頼しているであろう男性に話を聞いたのは僥倖であった、と思いつつビザールは軽く腹を撫でる。

 幽霊船のおかげでまだ余裕はあるが、長期戦になったら難しいかもしれない、と思いつつ。せめてもの慰めの為、豚の丸焼きに遠慮なく齧り付いた。

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