◆3-3

 謎の「声」は竜胆号の上にも響いていた。

『い、今のは何だ!?』

『まさか、本当の幽霊――』

 ヤズローの奮闘と、船に残った小目により、どうにか鱗人を押し返すことが出来た途端だった。声に怯えて縮こまる。未だ伸びてくる帆布を担当し、まるで麺料理のように吸い込み続けていたビザールも同様だ。

「ふむむん、いよいよ首魁の登場かな? 吾輩の腹はまだまだ三分目なのだがね!」

「あんたの意地汚さがここまで頼もしく感じるの、何か癪だわぁ」

「素直に敬服したまえよ親友!」

「絶ッ対嫌!」

 鉄火場でも変わらぬやり取りを止めない二人を横目に、水夫達も僅かに緊張が抜けるが、その中で一人、リュクレールが小剣を抱きしめたまま立ちすくんでいた。

「……リュリュー殿?」

 妻の異変に気付いたビザールが問うと、はっと我に返ったリュクレールが、どこか途方に暮れた顔で夫を見て来た。いかに剣を修めていても実戦は初めてに近い彼女が、戦と血に酔ってしまったのかとビザールは思ったが、少し違うようだ。

「っ、はい……いいえ。あの船の、方から、聞こえる声が」

「ええ、ええ、どうぞ落ち着き下さい。何と言っているのか、お分かりに?」

「……あぁ……」

 リュクレールの体が、くらりと揺らぐ。倒れるのではなく、その輪郭が揺らいだのだ。当然その背はビザールに支えられるが、仰のいた彼女の瞳が、様変わりしていた。縦二つに分かれた瞳の色の内、青色がじわりと金に浸食されていっている。……人の体が、魔の力に侵されているかのように。

『うわああああ! ふ、船が!』

『今度は何――はぁ!?」

 リュクレールを心配するより前に、水夫の悲鳴が上がって瑞香は視線を動かすが、その先に見えた光景に驚愕する。

 白い、フジツボだらけの、竜胆号よりも小さな船が、まるで衣服を脱ぐようにゆらりと広がり、膨れ上がる。帆だけでなく舟板の一枚一枚が剥がれ落ちるように、白い帯――正確には真っ白い手になって、伸びてくる。まるで雲のように膨れ上がったそれが、竜胆号の上に広がり、包み込もうとしてくる。驚きと怯えで混乱する甲板の中、ビザールは揺らぐことなく確りと、震える妻を抱きしめていた。




 ×××




 急激に波の音が強くなって、リュクレールは自分が海に飛び込んでしまったのかと錯覚した。

 しかし、すぐに違うと思い直す。目の前に広がるのは、見覚えのない海岸と、どこまでも 広がる海――空は暗く、銀月と数多の星が輝いていた。

 見覚えのない場所だ。この光景を見ているもうひとりにとっても。

 そこで初めてリュクレールは、自分の体が誰かと混じりあっていることに気づいた。そうとしか表現できない。魂が、誰か別のものと溶け合い、ひとつになっている。

 そのもうひとり――多分女性だ――は、空を仰いで涙を零していた。同時に、感情だけがリュクレールの魂にも伝わってくる。それは悲しみであり、郷愁であり、何よりも――誰かをいとおしむ、想いだった。それはとても痛烈で、切なく、リュクレールの心も締め付ける。 視界が歪み、ぼやけたその時。

『――泣くでない。――の君よ』

 誰かの声が聞こえた。リュクレールと一つになっている彼女には、さっぱり意味をなさない音の羅列だった。しかしリュクレールは、この言語を知っているので、彼女よりも理解することが出来た。これは、南方語だ――しかもかなり古いだろう。

『船を用意した。大きさは、これが限度だ。そなたの国が何処にあるとも知れぬが――これならば、外海も越えられよう』

 声の主は、彼女を案じている。恐らく何らかの理由で彼女は故郷を離れてしまい、彼はそれを帰そうと力を貸してくれたのだろう。心が緩み、跳ね、また沈む。彼が気にかけてくれたという嬉しさと、彼が自分を突き放そうとする悲しみに。

『嗚呼――泣くな。頼む。泣かないでくれ。其方と共に行けぬ私を許すな。どうか故郷に帰り、幸せに暮らせ』

 必死に首を横に振る。意味の解らない言葉など聞きたくなかった。彼の思いが知りたい、 離れたくない。けれど、共に過ごした長くない時間の中でも、彼がこの国で身分のある者であること、自分の存在が彼の足枷となっていることに、彼女は当然気づいていた。だから、頷かなければ、ならないのに。

『泣くな、銀月の君よ。……そなたの旅に竜の守りを』

 暖かい腕に抱き締められて――今度こそ、海に叩き落された。

 ごぼごぼという音だけが響く。真っ暗で、息ができない。体が枯葉のように翻弄され続ける。どうしてと思う間もなく、波立つ海面に漸く顔が浮く。やっと得られた呼吸に咳き込みながら、荒れ狂う波間の中で転がされることしか出来ない。先刻まで穏やかだった海はまるで化け物の顎のように白い波を蹴立て、彼女を飲み込もうとする。乗っていた船は、彼に貰った大切なものは、全部海の藻屑となって沈んでいった。

 凄まじい雨風の中、まるでおもちゃのように何度も持ち上げられ、叩きつけられ――意識が飛び、再び暗い海の底に沈んでいく。

 体に鈍い痛みが走る。暗闇の海の中に、ぎらぎらと輝く金の瞳が見える。――嗚呼、鱗人だ! 久々の餌に悦び、こちらを食い千切ろうとしてくる!

 逃げる間もなく、噛みつかれ、引き裂かれ、体と心がばらばらになって海に溶け落ちる間際、思ったのは。

 どうして、ではなく。

 たすけて、でもなく。

 ――かえして、というどうしようもない願いだった。



 ×××



「リュリュー殿! お気を確かに!」

 柔らかい温もりに頬を押し当てられて、はっと瞳を見開く。リュクレール自身には気づけなかったが、その瞳は金の浸食が収まり、元の縦半分に分かれた二色に戻っていた。彼女の細い体を抱き締めていたビザールが、安堵の溜息を吐く。

「おお、よくぞご無事で! 体調など、どこか異変はございませんか?」

「……男爵、さま」

 引き裂かれたと錯覚した体は冷えきっており、触れる柔らかな体は温かかった。知らず安堵の息を吐き、耐え切れず甘えるように、胸元に頬を擦り寄せてしまう。

「……怖い思いをされたのですな。何も出来ず、申し訳ない」

 よしよしと頭を撫でてくれる掌に、漸くリュクレールは悪夢から解放されて、緩く首を横に振って答えた。そして自分のやるべきことに、我に返る。

「男爵様、あの方の望みが解りました」

「ほほう? 即ち、かの船の主ですかな? 女性の声のように思いましたが」

 打てば響くように答える良人に頷き、リュクレールは尚も言い募る。

「あの方は、南方国からどこか別の国に向かう途中、恐らく嵐に遭い――、鱗人達に、食べられてしまったのです。あの方が望むのは、何かを返してほしいのではありません。自分を、南方国に帰して欲しいのです」

「……それで、うちの国の船ばっかり襲ってたっての?」

 傍迷惑すぎるわ、と空を睨みながら息を吐いた瑞香を宥めるように首を振りつつ、男爵はしたりと頷く。

「その淑女の望みが、喰らった血肉を通して鱗人達に伝播したのでしょうな。世代を重ねてもそれが残り、船の眷属と化しているのやもしれません。何、ご心配なく。淑女には少々ご無礼ですが――メインディッシュを頂きましょう!」

 ビザールは妻を抱き寄せたまま立ち上がり、フォークを構え直す。一度だけ自分の丸い腹をぽんと叩くと、その部分の体温が上がっていくのが、リュクレールにも感じ取れた。

「船の主よ、貴女が纏うものは全て、しがみつこうとする願い。淑女のドレスとしては少々重い。――頂きます!」

 両手を広げ、舞台役者のように朗々と宣言し、ぺろりと舌を伸ばした瞬間。そこに刻まれた神紋が輝き、数多の手が、手が、手が、雨のように降り注いできた。悲鳴を上げる水夫達の中――しかしそれはどこにもぶつからず、一つに集約していく。まるで渦巻く風のように、数多の手は全てビザールの口の中に吸い込まれ――ごくん、と飲み干された。

 そして――漸く甲板に戻ってきたヤズローも見た。すっかり晴らされて僅かに残る霧の中から、ほろほろと零れるように落ちてくる女性の姿を。

 白金のような輝きを持つ髪と白い肌、碧玉の瞳を持つ、美しい女だった。北方の民の姿を色濃く持っていたが、身に纏う絹は南方で見られる裾と袖が大きく広がった装束だ。宝石のような瞳から、ほろりほろりと雫を零しながら、甲板の上に、散った花弁のようにへたり込んだ。

「……かえして。……かえして」

 端末である鱗人も、寄る辺である廃船も失った彼女は、最早僅かに未練を残す残滓でしかない。ただ、最期の望みだけに縋って、繰り返すだけ。それでもリュクレールは一歩前に進み出て、彼女の前に膝をついた。

「乱暴な真似をして、申し訳ありませんでした。……もし貴女が帰りたいのが、南方の、黒き髪を持つ方々の国であるのなら」

 そこまで言うと、女の顔がほんの僅か、仰のいてリュクレールを見遣った。その瞳に残る、欠片のような意志を汲み取ったならば、彼女にもう迷いは無い。

「どうぞ、わたくしを寄る辺となさいませ。共に南方国へ参りましょう」

 ヤズローが思わず一歩前に出るが、他ならぬビザールがさっと腕を出して止めた。彼自身、奥方のやりたいことを止めるつもりは全く無いのだろう。

『……かえして。……かえり、たい』

 最早形を崩しかけている彼女の細い腕を、リュクレールがそっと取ろうとして――重なる前に、彼女の体は潮風に浚われ、消えた。まるで、全てが夢であったかのように、あっさりと。

「……奥方様の、中に?」

「いいえ」

 ヤズローの疑問に、リュクレールはふるふると首を横に振った。ぎゅっと両手を握り締め、涙を堪えるように呟く。

「……これだけ、残していかれました」

「拝見しても?」

 そっと差し出される掌を、了承を得た上でビザールが覗き込む。その中には、錆ついた、今にも崩れそうな金属の輪がひとつ、残されているだけだった。

「指輪かしら。……あら? これって」

 何かに気付いたらしい瑞香にそっと指輪を手渡すと、崩さないよう袖で包みながら慎重に観察している。

「自信ないけど、この紋様……うちの王朝のものだと思うわ、もう何百年も前のね」

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