◆3-2

『――警戒! 竜砲準備!』

 瑞香の判断は素早かった。鋭い南方語の命令に水夫達に緊張が走り、一人が備え付けの銅鑼をがんがんと鳴らす。小目が目礼だけして駆け出した後、瑞香はリュクレールに向き直った。

「ごめん、あいつとヤズロー呼んできてくれない?」

「畏まりました、すぐに!」

 リュクレールもすぐさま踵を返し、船倉に戻ろうとするが、それより先に下へ続く扉がどばん、と開いた。

「ンッハッハ、呼ばれて飛び出て馳せ参じたぞ親友! 我が愛しの妻はどちらにいらっしゃるかね!?」

「早く飛び出てください旦那様、奥がつっかえています」

 狭い出入り口にぎちっと埋まった、顔色は悪いのに声だけ元気な丸い男爵が、後ろから蹴り飛ばされたらしくぼいん、と飛び出してきた。当然その後ろから矮躯の従者もひらりと甲板に立つ。

「男爵様、わたくしはこちらに。お加減の方は、大丈夫ですか?」

「おお、麗しの姫君、この身を案じて下さるとは吾輩感激の極みにございます。ご安心ください、多少の吐き気など食べればマシになるものですとも! して親友、吾輩のメインディッシュは何処に?」

「全世界の船酔いに謝りなさいな親友。……チッ、風も無いのに向こうも早いじゃない」

 瑞香が睨みつける海の先、雲と霧はますます広がって船団に届きつつある。海は驚くほど凪で、風司達が戸惑いの声を上げていた。

『風が、風が言う事を聞いてくれない! こんなことは初めてだ』

『おお、風竜よ、我らの歌を聞き届けたまえ!』

 独特な南方語の言い回しはリュクレールに聞き取れなかったが、今まで吹いていた爽やかな風がいつの間にか感じられないことにも気づいた。何かが、風司達の力を阻害しているのか。念の為、いつも太腿に括りつけている小剣の感触を確かめるようにスカートの上からそっと撫でる。

『霧の中に入るぞ! 撃てぇーい!』

 舵の前に立つ船長・黒鮫が声を上げた瞬間、凄まじい音と光が甲板に備え付けられた砲から放たれる。これも北方で昨今普及しだした火薬ではなく、司達の力で制御した竜砲と呼ばれる武器だ。船同士の連携を取る信号にも使われている。

 飛び出した光の玉が弾け、暗い霧の中を照らす程に眩い光が辺りを包む。思わずリュクレールは目を覆うが、その端に見えた船の有様に驚いて身を乗り出した。

 風もない凪の海の上を滑るように、竜胆号に追い縋ってくる船。船体は白く塗られているのかと思ったが、違う。

 船の底から甲板、マストに至るまで、白い石灰のようなでこぼこに覆われていたのだ。リュクレールの知識にはそんな素材は無く、それが石や塗料ではなく、生物であるということに気付けなかった。

『返答、有りません!』

『見ればわかるだろう、フジツボだらけの化け物の船だ! 炎弾、火矢用意!』

 俄かにこちらの甲板も慌ただしくなり、弓を構えた船員達が鏃に火を着けた矢を次々と飛ばした。

 矢は見事に白い船体に刺さるのだが、火はすぐに消えてしまう。大砲から撃たれた炎の弾も、船体に大した痛痒を与えず、帆布に当たっても擦り抜けてしまった。

 そのまま白い船体は、まるで蛇のように水面を滑り、竜胆号に体当たりをする。凄まじい船の揺れに、堪らずリュクレールも膝をついて耐え――近くで見て、漸く気づいた。

 ぼろぼろの帆布を形作っているのは、布では無い。風もないのにゆらゆらと揺れ、自在に形を変えて竜胆号へと伸びてくる、白い何か。

 それは、腕だ。貴婦人のような真っ白い、裸の腕。腕だけが何十、何百本も、船に縋りつくように伸ばされてくる。

『な、なんだこりゃあ!』

『幽霊だ――幽霊船だ!!』

 その悍ましさに船員は恐慌し、甲板の上で右往左往し始める。あわや、彼らにその腕が届こうとしたその時。

「――頂きます」

 その腕たちが、まるで吸い寄せられるように、太った男の掲げた銀のフォークに絡めとられた。白くわだかまる多量の腕をぱくりと大口で頬張り、ビザールはにんまりと笑う。

「潮味も中々乙なものですな。やはり吐き気を抑えるには食事に限る」

「そうね、今の状態が無けりゃもうちょっと格好ついてたわね」

 呆れたように瑞香が言う通り、先刻の激突によって、丸い男爵の体は甲板をごろごろ転がり、危うく縁から落ちかけて止まっていた。ひっくり返ったままでもりもりと食事を続けるビザールに瑞香は呆れているが、リュクレールは慌てて駆け寄る。

「だ、男爵様、ご無事ですか!?」

「ええ、勿論ですともリュリュー殿! 得意分野は吾輩に任せ、どうぞゆるりとお過ごしください。この程度なら――おや」

 駆け寄ったヤズローに無理やり起こされたところで、船の縁に外側から手がかけられた。

「ガ、エ、」

 白くは無い、青黒い鱗に包まれた、鋭い爪と水かきを持った腕。外壁からへばりついて昇ってきたそれが、乱杭歯の覗く口から不気味な鳴き声を上げ、ぎょろぎょろと輝く金の目玉をむき出しにして船へあがろうとした瞬間、ヤズローの蹴りがその顔面に決まった。僅かな悲鳴をあげて、異形のものが海へと落ちていく。しかしそれよりも多く、船体に取り付いた者達が我先にと上がってきていた。

「エエ゛、ジ」

「ガ、ガ、ガ」

「うっげぇ、何こいつら! 幽霊にしては質量ありすぎない!?」

 寄ってきた相手を小目が全て蹴り落とすのを尻目に、瑞香が叫ぶ。

「恐らく、幽霊船の犠牲者をおこぼれに預かっている海の鱗人だろうね! 肉食で好物は人間、何より幽霊ではないので吾輩では手も足も出ないねンッハッハッハッハ!」

「こぉの役立たず!」

 素早く立ち上がってリュクレールの手を取り、船の半ばまで逃げてきた男爵に瑞香が容赦なく罵声を飛ばすも、その時には既に二人の従者は動いていた。二つの背に、二人の主が檄を飛ばす。

「海の鱗人は、川よりも貪欲で狂暴と聞く。ヤズロー、充分注意したまえよ!」

「仰せの通りに!」

『ったく、全部潰せ! この船に鱗の一枚も残すな!』

『御意』

 主の声に一言是と答え、ヤズローは拳を握る。腕に自信のある水夫たちを容易く抑え噛みつこうとする鱗人の顔面に、躊躇いなく叩きこんだ。

「っうらァ!」

 頭蓋を拉げさせんばかりの一撃に倒れる仲間を見て、警戒の声をあげようとしたもう一匹の喉が、小目の手刀に貫かれて潰される。その首を掴んだまま、小目は顔色一つ変えずに大きな異形の体を海の上へと放り投げた。

 あっという間に、乗り込んできた鱗人達は二人に刈り取られるが、数が多い。従者二人は防戦一方になるし、水夫達も竜司を守りつつ善戦してはいるが、それでも擦り抜けたものが尚も幽霊の腕を食べ続けているビザールに近づき――ひゅん、という音と共に青黒い血を飛ばした。

「ジィッ!?」

「――下がりなさい! これ以上の狼藉は許しません!」

 ビザールを守るように立ったリュクレールは、汚れた小剣を振り、勇ましく声をあげた。当然鱗人はその程度では怯まず、傷から血を振り撒きながら尚も近づいてくるが、リュクレールも退かない。良人を守る為、繰り出される爪を打ち払い、大きく一歩踏み出す。

「ガャアッ!!」

 胸板に突き刺さった小剣を抜き放つと、少なくない血が飛び散り、リュクレールの肌と服を汚す。僅かに顔を蒼褪めるも、その手に震えは無い。嫋やかな矮躯と非力であれど、だからこその戦い方を彼女は学んでいた。気づいたヤズローが踵を返してこちらに向かおうとしていたので、声を張り上げる。

「こちらは大丈夫です! ヤズローは後ろを気にせず戦って下さい!」

「――仰せの通りに!」

 一瞬迷ったヤズローが返事を上げ、接舷された白い船に向かって駆け出す。先刻よりも体躯の大きな鱗人達が、敵の船倉から湧いて出て来ていた。この体格差では流石に、リュクレールでは打ち勝てないだろう。つまり、全て敵船上で食い止めて潰す。

 ヤズローは血と鱗で汚れた銀の腕を軽く振り、飛び上がる。ぐっと両足で船の縁を踏み――四肢の製作者に教えて貰った合言葉を放った。

「――弾けろ、両足ルールデ・エト・ペダス!」

 足の裏で、ぱんっと破裂音がして、同時にヤズローの小さな体は普段とは比べ物にならないほど高く飛んだ。蜘蛛の糸は使っていない、ミロワールに仕込まれたものだ。空気の弾を内部で造って弾き出す、砲としても今回のように動きの補助としても使える。仕込まれてから数か月で、どうにかものにした動きだった。

開け、右腕ブラキウム・レクタ・ミスム!」

 更にヤズローの声により、右の銀腕の手首がぎりり、がちん、という鈍い音を立てた。肘から剥がれるように飛び出し、銀の板が変形していく。腕はあっという間に二枚の刃を持つ、刃渡りが腕より倍以上伸びた裁ち挟となった。

「――ッおらァ!」

 無造作に突っ込んできた鱗人の腕を挟み、ばつんと切り落とした。濁った悲鳴を上げる敵を蹴り落とし、更に左腕も思い切り振った。

回れ、左腕ブラキウム・エイウス・ヴィディト!」

 本来腕であったものがばらりと解け、肘から先に伸びた刃に変わるのは右腕と同じだが、中身が違う。銀色の鎖が巻き付く、細かい刃が並んだ鋸だった。

 ヤズローの意志一つでそれは動き出す。金属が擦れるがりがりという凄まじい音と共に、鋸の刃がぐるぐると回転する。その刃を、一番大きな鱗人を狙って飛び上がり、一切の躊躇い無く首に叩きつけた。

「ガェッジエエエエ!!」

 聞くに堪えない悲鳴と共に、青黒い血肉と鱗が飛び散るが、ヤズローは全く怯まず更に刃を押し当てる。暴れる体を押さえる為に、右手の鋏を膨らんだ腹に突き刺して抑えた。

 がりがりという音が、ごりんという音に変わる。半分以上首を切り取られた大きな体は、どしゃりと白い甲板に倒れて動かない。

「……威力は悪くねぇ、けど酷ぇなこれ」

 思わず流石のヤズローもぼやいてしまう。頭の先から足の先まで、全身に返り血その他諸々が降りかかってしまった。

 持ち主の声による合言葉で、変形する四肢――ミロワールが嬉々として新しく付属させた機能がこれだ。確かに火力が増したのは有難いが、使いどころが難しそうだ、寧ろ材木を切り出したりする為に使う方が便利かもしれないとヤズローは思う。己の矮躯では、片刃鋸を引き続けるだけでも中々の重労働なのだ。

 僅かに意識を逸らしたのを逃さず、別の鱗人が襲ってくる。慌てず蹴り飛ばしながら、ヤズローの中に別の疑問が浮かんだ。

 戦いが始まってかなりの数が死んでいる筈だが、鱗人達に怯む様子が全く見えない。確かに狂暴であれど鱗人の意識は獣とほぼ同じ、仲間が死ねば怯えて逃げる方が多い筈だ。それなのに、息つく暇なく次々と彼らは襲い掛かってくる。……鱗人の感情などそうそう見えるわけもないが、ぎょろぎょろと動く金色の瞳が、何かに追い立てられるように見える。

 一体何に、と思った瞬間。




 ―――か   え    し    て ――!!!




「――ッ!?」

 不意に、頭の中に直接、巨大な声がわんわんと響き、堪らず踏鞴を踏んだ。同時に、鱗人達が皆、まるで何かに煽られたように悲鳴のような雄叫びを上げ、一斉に竜胆号へ向かい出す。

「っざけんな!」

 考えるよりも先に体が動く。鋏と鋸を思い切り振り、船を飛び出そうとする鱗人を片っ端から切り伏せる。

「一体何が……、!?」

 不意に、白い甲板がぐらりと揺れ、割れた。壊れたというよりは、編まれた糸が解けていくかのように、ぐずぐずと船自体が瓦解していく。

 そして――船を形作っていたものが全て腕となり、まるで海生生物の触手のように空に、海に広がっていく。まるで竜胆号を取り込むかのように!

「この野郎ッ……」

 思わずヤズローは呻く。割れていく甲板の下には、腐りきった木材が見える。いつ座礁したか解らない船を、繭のように覆っていたのだ、この幽霊が!

 躊躇わず、ヤズローは再び両足で飛んだ。急いでこのことを、主に知らせなければならないからだ。

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