黒い貴婦人
◆2-1
「わ、あ……!」
貴族の嗜みも忘れて、思わずリュクレールの口から歓声が漏れた。
王都から馬車を使って一日、川を船で下って更に一日。ネージ国最大の港町ブリュームに漸く辿り着いた疲労を全く見せず、港に停泊している巨大な船を見上げていた。
南方国の象徴である濃い藍色の旗を掲げ、外海を越える為の巨大な船。そもそも半年前まで、王都どころか塔の中に閉じ込められていたリュクレールにとって、川も海も船もすべて、初めて見る代物だ。美しい船と広がる水平線に目を奪われている妻に、もいんもいんと体を揺らして歩いてきたビザールも微笑む。
「如何ですかな、吾輩の親友が誇る竜胆号は」
「凄いです……! あんなに大きくて重そうなのに、本当に水の上に浮かんでいるのですか!?」
子供のようなはしゃいだ声に、港で忙しく動いている人足達が思わず笑いを漏らす。そこで初めて、自分の振る舞いを顧みてリュクレールが白い頬をぱっと赤くして俯いた。
「も、申し訳ございません、はしたない振る舞いを……」
「いえいえ、初見の驚愕と興奮を恥じることなどありませんとも。ヤズローも初めて外洋船を見た時は驚きのあまり固まっておりましたので」
「日那様、無駄なことまでほざかないで下さい」
二人分の大荷物を抱え上げて着いてきたヤズローが眦を鋭くして主を睨む。両手に持ちきれないものは背に負っており、かなりの重量だろうにその小さな体は揺らがない。周りの人足達が驚愕の視線を何度も向けている。
「ンッハッハ、言葉の選択に容赦がないぞヤズロー。いくらドリスの視線が無くとも使い魔の耳はこの国にいる限り有効だ、気をつけたまえ。ときにリュリュー殿、折角ですのでこの街を散策しては如何ですかな? ヤズローを付けます故、ご存分に」
「えっ、それは……とても嬉しいですけど、よろしいのですか?」
「いいわよー、まだ出航準備中だし。
自分の荷物を船へと運ばせてからこちらに寄ってきた瑞香が声を上げると、かなり厳つい髭面の男が大股で近づいてきて、その容貌とは裏腹に丁寧な貴人に対する礼をした。
『お呼びですか、瑞香ファンズゥ』
南方語で、瑞香の名前の後に何か敬称であろう文言がついたことに気づき、リュクレールは必死に記憶を引っ張り出す。この半年、外国語についてもドリスに出来る限り教えて貰ったし、旅立つ国の正式な挨拶等は頭に詰め込んだけれど、やはり限度はある。手間取っている内に、会話がどんどん進んでいく。
『その呼び方止めろ。出航時間に変わりはないか?』
『問題ありません。昼の鐘が鳴り次第乗船を』
『了解。――昼の鐘が鳴るまでは自由時間よ、好きに楽しんできて。内陸じゃ見ないものも色々あるだろうしね」
「は、はい、では喜んで。……男爵様は、一緒に行かれないのですか?」
ほんの少し、リュクレールの瞳に寂しさが宿る。塔から解放されて以来、己を律してきた彼女が見せる小さな甘えに、男爵は心底嬉しそうに丸い頬をにんまりとさせている。従者と親友の悍ましいものを見た、という視線に気づかないふりをしたまま滔々と語った。
「おお、なんという誘惑でしょう。しかし残念ながら吾輩、長旅で膝が既に悲鳴を上げております。ここで休憩しておりますので、どうか哀れなる吾輩に土産のひとつでもご用意いただければ感謝感激にございます。路銀のことはご心配なく、出来れば美味しいものを」
「何ちゃっかり奥様を使いっ走りにしてんのよこの
「……では、僭越ながらお連れ致します。奥方様」
「ええ……分かりました。男爵様の御眼鏡に適うものを探して参りますね!」
「ンッハッハ、恐悦至極に存じます!」
男爵の傍にいたいのも事実だろうが好奇心も抑えられないらしい少女は、何度か振り向きつつも従者のエスコートで街へと向かっていった。その背中を名残惜しく見送ってから、男爵は踵を起点にくるりと回る。
「では僭越ですがこの吾輩をどうか船上まで運んで頂けますかな! 吾輩の膝と脹脛がまあまあ悲鳴を上げております故! どうぞ優しくそっと!」
「歩け。つーか転がれ。黒鮫、あんた達も全員無視していいからねー」
『は、はぁ……』
悶着を起こしつつも、最終的に人足に背をぐいぐい押し上げられることにより、男爵は船上の人となった。
「ふむふむ、ほうほう、良い船ではないかね親友。推進力は如何程に?」
「
藍皇国では、北方で忘れ去られた竜の息吹が未だ濃く生き続けている。
「ほっほう! 通常大型船でも三人のところ、やるではないかね。この国での荒稼ぎが功を奏したようだね、ンッハッハッハッハ!」
「誉め言葉として受け取っとくわぁ、崇め奉りなさいな! ほほほほほほ!」
最終的に笑って盛り上がりだした二人を見て、男爵と初対面の人足達も何となく遠巻きにしながら自分の持ち場へ戻っていく。
『あ、黒鮫。お前も戻っていいぞ、ご苦労さん。値打ち物については、小目を荷物番に使え』
『それは有難い。どうぞごゆっくり過ごされませ、
深々と礼をして去っていく船長の後ろを、今まで顔色一つ変えず瑞香の傍に控えていた小目が目礼をしてから、足音を立てずに付いていく。故国へ運ぶ、皇帝への献上品や他の貴重品――先日洞窟街で購入したオルゴール・ゴーレムも含まれる――の警備に、腕が立ち視界も広い小目は使えるのだろう。それを目線で追う事も無く、ただ瑞香は溜息を吐く。
『その呼び方止めろっての……』
「未だ、彼にとってお前は仕えるべき貴人なのだろう。その心まで無下にしてやることもあるまいよ」
南方語をちゃんと聞き取っていたビザールは、不愉快そうな親友を宥める為に言葉を紡ぐ。返事はフンという鼻を鳴らす音だった。
「勘弁してよ、あたしが国出たのもう十年前よ? あっちに未練なんて無いし、あたしは商人が天職なのよ」
「うむうむ、それは勿論承知の上であるとも。――時に親友」
「何よ親友」
「そんなお前が帰りの船にわざわざ乗るということは、余程の理由があるのだね?」
仕事の依頼だけなら、はたまた旅行だけなら、瑞香がついてくる理由は無い。積み荷を港まで運び積み込むのを確認はしても、船には絶対に乗らない。彼自身が、南方国の地を踏むことを拒んているからだ。――常ならば。
瑞香は何も言わず、船の縁に寄りかかったまま、懐から扇子を出してロ元を覆った。話したくない、の意思表示だが、ビザールとしても引く理由が無い。愛する妻との旅行に、何か憂いがあるのは困るし、十年来の親友が追い詰められていることを肌で感じていたからだ。
瑞香も誤魔化せるとは思っていないのだろう、不機嫌な目でちろりとビザールを睨み――はぁ、と諦めの溜息を吐いた。
「……何となく解るでしょ、理由。あいつの呼び出しよ」
「兄上殿かね」
瑞香の眉間の皺が深くなるので、正解だったのだろう。あの存在を兄とは呼びたくないのだ、と言わんばかりに、口端を曲げたままぼそぼそと呟く。
「いい加減、遊びは止めて腰を落ち着けろってさ。……誰のせいだと思ってんのよ」
濃青の瞳の奥に、堪えきれない憤りの炎が見える。彼が国を離れて戻らない理由の大部分は兄であることをビザールも知っているので、丸い顎を揺らして頷くしかない。そのあとすぐ耐え切れなくなったのか、瑞香ががばりと顔を上げて叫んだ。
「――大体ねぇ! こっちは文句言われないだけの税金、色付けて収めてんのよ!? それをがっちり受け取っといて何が遊びよ! 更に難癖付けるって業突く張りすぎるでしょうがー!!」
海原に向かって瑞香が叫ぶ。周りの人足達にも聞こえているだろうに、大部分は北方語を聞き取れないらしく反応は無い。ぜえはあと息を整える親友の背を肉付きの良い手でぺふぺふと叩いてやりながら、ビザールは何の気負いもなく笑顔で言う。
「成程、成程。して、お前はどうするつもりだね?」
「決まってんでしょ、あいつの思い通りになんて絶対ならないわ。鎖がついてようが気にしない」
瑞香は鋭い瞳で、港側を睨む。その視線の先には、運ばれる積み荷を見張っている小目がいた。
「どんな手を使おうと、向こうをだまくらかしてこっちに帰ってやるわよ、舐めんじゃないわ」
「ンッハッハ、やる気ではないかね、流石我が親友! ――して、吾輩に何を任せたいかね?」
にやりと笑って、ビザールが友を見ると、やはり彼はぶすくれた顔をしたままだった。
「……気にしなくていいわよ。あんたは仕事が終わったら、奥様と仲良く観光してなさいな」
「それが兄上殿の目晦ましになるのならば、全力を尽くそうとも。しかし吾輩は勿論、リュリュー殿もヤズローも優しい子達だ、お前が望めば力を貸してくれるだろう。――信用したまえよ、親友」
おどけた風に両手を広げ、いつも通りの声音でそう告げてやると、十年来の親友は凄く困った顔をした。彼自身、友とその家族を巻き込むこと自体は不本意だったのだろう。昔から、彼が自分のことを自分だけでやろうと足掻いてきたことを、ビザールは良く知っている。それでも、今回は正念場であり、だからこそ。
「……だから。いざって時に、信用出来るから、連れてくんでしょうが」
船の縁に肘を預けて蹲り、もごもごと。裏切ることの無い味方が欲しかったのだと、黒髪の隙間から僅かに見える赤い耳が雄弁に語っていた。
「ンッハッハッハッハ! 良いだろうとも親友、大船に乗ったつもりで信用したまえ! ンンッハッハッハッハッハッハ!!」
「うっさい馬鹿! ばーか! 港についた瞬間奥様と離婚しちゃえ!!」
「むう、なんと恐ろしい呪いをかけるのかね!」
「実際新婚旅行でよくある事なのよお、奥様に見捨てられないよう精々気張りなさいな!」
すっかり気まずさを無くして学生時代と同じようにぎゃあぎゃあ言い合う悪友達の声を聴きながら、竜胆号の船長である黒鮫は安堵の息を吐く。
『……元気そうで何よりだ。……
隣で彫像のように控え、虫のように気配を無くした小目に聞かせるように囁く。返事が無いことを解っていながら。
小目は、己の仕事を果たすべく視線を油断なく動かしており、船を振り仰ぐことは一度も無かった。
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