◆2-2

「らっしゃい! らっしゃい! 今日水揚げされた魚だよ!」

「そらどいたどいた! 出航に間に合わねぇ!」

 大声を交わしながら、沢山の人が行き交う市場を、リュクレールはすいすいと歩いていく。貴族の夜会などでは、煌びやかな中に蠢く雑多な悪意を捉えてしまい、気おくれをしていたのを知っているヤズローは、彼女を心配していたのだが。

「奥方様、ご気分は大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫ですヤズロー、ありがとうございます。とても活気があって、わたくしの心も湧き立つようだわ」

 成程、粗雑ではあるが決して裏表のない、活力に満ち溢れた場所は彼女にとって心地良い場所のようだ。密かに安堵しつつ、後ろから走ってきた人足から主の妻をさりげなく庇う位置に立ちながら歩く。

「奥方様、失礼ですがお伺いしたいことがございます」

「何かしら?」

 何でも仰って、と言わんばかりに振り向いて笑顔を向けてくる主の妻に感謝の礼をしつつ、ヤズローは続ける。

「旦那様とご一緒に回られなくて本当によろしいのですか? お望みとあらばすぐさま戻り、蹴って転がしながら奥方様の後をついていかせますが」

「や、ヤズロー? 流石にそれは男爵様が大変すぎるわ、止めて差し上げて? それに――」

 慌てて従者を宥めつつ、リュクレールはほんの少し二色の瞳を眇めて、困ったように微笑んだ。

「最近、ヤズローが随分疲れていたようだから、男爵様は貴方にも羽を伸ばして、旅を楽しんで欲しいのだと思うわ」

 はっきりと言われて、ヤズローは無作法にもぐぅ、と僅かに喉を鳴らしてしまった。確かにこの数日、蜘蛛女に吸われて血や肉が足りないせいもあり、体調は決して本調子ではなかった。また、散々改造された両の手足に慣れる為に、仕事の空いた時間は全て訓練に充てていた。しかしそれは、ビザールに仕える従者として当然のことで。

「……お気遣いは感謝致しますが、」

「それと、ね。……瑞香様も、旅に出てからどこか、塞ぎ気味だと思うの」

 反論は、尚も続くリュクレールの言葉で遮られた。

「何か理由があると思うのだけど――わたくしでは不躾に踏み込むことが出来ません。あの方は恐らく、わたくしやヤズローにも、自分の形を崩さない方でしょうから」

 ほんの少し申し訳なさそうに、寂しそうにしながら、それでも淑女は最近伸ばしはじめた銀髪を揺らして、笑顔で言う。

「でも、男爵様ならば、きっとお伺いできると思うわ。男爵様もそう思っていらっしゃるからこそ、あの場に残られたのだと思うもの」

 いよいよヤズローは驚愕に目を見張るしかない。リュクレールの、魂の形を見通す視界は、そんな心の機微ですら読み取れてしまうのだろうか。金と青の二色の瞳に、いったい自分や瑞香はどう映っているのか――僅かな怯えを、ぐっと両手を握りしめて打ち消す。この方の優しさは自分も十分理解しているし、何より主の愛する女性であるからこそ。

「……畏まりました、奥方様。過分なお気遣い、感謝致します」

「いいえ、ヤズロー、わたくしのことを案じてくれたのでしょう? でしたら、どうか気にせずに、男爵様と瑞香様に素敵なお土産を選びましょう?」

 そう言われ、従者は主の妻にもう一度深々と礼をして、再び連れ立って歩き出した。



 ×××



 港町は、この国だけでなく他の国の特産品も集まった、まさに文化の坩堝といえる様相をしていた。

 西方大陸原産の硝子細工はとても美しく、リュクレールの目を楽しませたが、繊細でとても長旅に耐えられるとは思えず残念ながら購入を見送ったり。

 胡散臭い嗅ぎ薬を堂々と売っているあまりにもしつこい客引きをヤズローが睨みつけ、一触即発になったりと、たっぷりと散策を楽しんで――最終的に、男爵達に対する土産として、香ばしい匂いのする串焼を選んだ。この辺りの海で捕れる、一見虫のような赤い殻つきの生物は、保存が出来ないらしく、ネージ国では港町でしか食べられないものだそうだ。勇気を出して焼けた殻ごとぱくりと齧り付くと、口に広がる独特の香ばしさと旨味に二人そろって目を輝かせる。

「まぁ……! とても美味しいわ。これはぜひ、男爵様達にも召し上がっていただきましょう! 作法については、ドリスに怒られてしまうかもしれませんが」

「そうですね、旦那様には十本も買えば足りるでしょう。師匠にはご内密に」

「内緒、ですね」

 串焼きを歩きながら頬張るなど初めての経験であろうリュクレールは頬を上気させながら微笑み、ゆっくりと海老と呼ばれる食べ物を味わっている。普段の食の細さが、好奇心と旅の喜びで僅かながら緩和されているようだ。普段では有り得ない作法も、ひと役買っているのだろう。これなら師匠も少しは許してくれるだろう、と勝手に思ってヤズローは路銀を崩し、串焼きをまとめて購入した。

 そろそろ港へ戻ろうかと踵を返した時――ヤズローの背に、どん、と誰かがぶつかった。

 驚いたのはヤズローだ、人ごみの中を歩くにあたり、奥方に危険が近づかないよう注意を凝らしていた。それなのに接触するまで、相手の気配を全く感じなかったのだ。慌てて振り向くと、港町に似合わないかなり上質な装束を着た貴婦人であることに再度驚いた。しかも――

「申し訳ございません、お怪我はありませんか!?」

 状況に気付いたリュクレールも、従者に代わって慌てて声をあげる。ぶつかった痩身の女性の、腹部だけが丸く持ち上がっている――妊娠していることが傍目からも解ったからだ。幸い女性はよろめきもしなかったようで、緩く首を振る。

「いいや、大丈夫だ。気にしなくて良い」

 貴婦人としては随分と口調が朴訥だったが、その表情を拝むことは叶わなかった。何故なら、彼女は黒い帽子と共に、顔の前にレースの黒布を垂らして、顔を隠していたからだ。少し前時代的なデザインのドレスも全て黒で、喪服のように見える。

「大変失礼いたしました、ご無礼をお許しください」

 何はともあれ、礼を失したのはこちらだと解っているので、ヤズローもどうにか敬語を絞り出して頭を下げる。黒い女性は変わらず鷹揚に首を振ってから、リュクレールに向かって布の下から視線を合わせた、らしい。

「いや。……不躾で悪いが、ひとつ聞いても良いだろうか」

「ええ、はい。なんでしょうか?」

 黒い女性の言葉に、素直に応えるリュクレールに対し、面倒事になったらかっ浚って港へ走ろうとヤズローは決めてさりげなく腰を落としている。女はそれに気づいているのかいないのか、誰にも聞かれないようにひそりと声を潜めて告げた。

「――お前の傍に、崩壊神の出口があるか?」

「え……?」

 意味が解らなかったようで、リュクレールはぱちりと瞳を瞬かせた。

 崩壊神とは、この国では信仰を禁じられている邪神の一柱だ。世界を壊し、また生まれ変わらせる存在とされ、南方や他の大陸では八柱神と共に奉じられていることも珍しくないそうだが、この国では弾圧の対象だ。洞窟街では未だ信仰が残っているらしいが、それでも堂々と名乗るものはいるまい。それだけ、タブーとされているのだ。

「……何故、そう思われたのですか?」

 流石のリュクレールも警戒したらしく、慎重に言葉を重ねる。その事に気付いたのか、女性は逆にどこか力を抜いてまた首を横に振った。

「ああ、すまない。怯えさせるつもりは無いし、挑発するつもりもない。ただ――懐かしい匂いがしたから、気になっただけだ」

「匂い……ですか?」

 女の言い分がいよいよ解らなくなってきて、ヤズローはやはり殴り掛かった方が良いだろうかという乱暴な結論を出しそうになる。流石に主ならともかく、主の妻が傍にいる状況で軽率な判断は出来ないから堪えているけれど。

「何せ、あれが傍にあるのなら、苦労しているのかと思ってな。お節介だ、悪かった」

 まるで邪神を面倒臭い虫のように言う女性の言葉に、二人揃って戸惑いのまま視線を交わす。女は恐らく、布の下で眉を顰めているのだろう、鬱陶しいと言わんばかりに言葉を続けた。

「……お互い、傍迷惑な奴に絡まれると大変だな。逃げることは出来ないだろうから、どうにか飼いならせよ」

 大きな丸い腹を、愛おしむように――或いは、宥めるようにゆっくりと、黒い手袋で包まれた手指で撫でた女は、そう言って踵を返した。あれだけ存在感のある女だったのに、あっという間に人ごみに紛れて見えなくなってしまう。

「……一体、どういう事なのかしら……」

 呆然としたリュクレールの言葉に、ヤズローも我に返り、慌てて頭を下げた。

「申し訳ありません、奥方様。私のせいで、面倒事を起こしてしまいました」

「まぁ、いいえヤズロー、どうか顔を上げて! 何も気にしなくていいのよ」

 リュクレールは笑顔で従者を労ってから、でも、と僅かに眉尻を下げた。

「何か、大切な事を忠告されたのだと思うわ。少なくともあの方は、嘘は仰っていなかったと思うの」

「……奥方様がそう思われたのなら、間違いないでしょう」

「落ち着いたら、男爵様に聞いてみましょう。何かお解りになるかもしれないわ」

「仰せの通りに」

 真剣に語る金と青の瞳をちゃんと見返してから、ヤズローが深々と礼をしたその時――昼の鐘が鳴り始めてはっと息を飲む。

「大変! すぐ港に戻らないと」

「奥方様、お荷物をこちらに」

「ええ、急ぎましょう!」

 はしたなさなど気にする間もなく、少年と少女は駆け出した。

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