◆1-3

 洞窟街は奥に行けば行くほど、地上の人間を拒む。大商人リマスが仕切る商人街“蛞蝓”は、その中では珍しい町だ。

 表向きは他の互助会と同じように地上の干渉を拒んではいるが、それよりもこの街で優先されるのは富と金だ。独自の通貨を作り両替商すら据えて、来る客を全く拒まない。貴族や王家、他国すら彼らにとっては商売相手でしかない。

 だからこそ地下とは思えない程、“蜘蛛”よりも大きく賑わっている。雑多で、猥雑で、何でも手に入るが故に何もかもが売られる、そんな街だ。命すら例外でなく。

 そんな街の中心部に、金さえ払えば後ろ暗い取引が幾らでも出来、地上ではご禁制の料理を味わえると言われる評判の食事処がある。普段ならばどのような客が来ても粛々ともてなしをする一流の店員達が、どこか緊張した面持ちを隠せていないのを見て、無理も無いかとヤズローは一人溜息を吐く。

 彼自身、この店の中に入るのは初めてだ。主は質より量を優先する性質なので、この店の美食あるいは下手物に興味はない。それなのに何故、わざわざここまで足を運んだのかというと。

「おお、いらっしゃいませお客人。お待ちしておりましたよ、ヤズロー様」

 男爵の従者、しかも平民に声をかけるにはあまりにもへりくだった言葉を告げたのは、趣味の悪い派手な衣装と宝飾を身に着けた痩せぎすの老爺だった。にやにやと胡散臭い笑みを浮かべたこの男こそ、“蛞蝓”の元締め、互助会の五つ頭の一人、大商人リマスだ。腰を低く揉み手をしながら、商人風の礼をする。

「……わざわざあんたが出迎えか」

 主とその妻、および師匠にしか絶対に敬語を使わないヤズローも徹底しているが、リマスは気分を害した風もなく、笑って何度も頷いてくる。

「ええ、ええ、何せ上客をお二人も連れて来ていただけたのは貴方様の手腕に相違ありますまい。さぁさぁお上がりください、此度のお代は全て、お支払い頂いておりますので」

 そう、リマスにとってへりくだるのは金払いのいい客のみ。相手が対価を払わないのだと知れば、あっという間に全ての金目の物を剥いだ上、残りを蟻の餌にすることも躊躇わない。それ故に、あまり金回りが良くないので舌を回して乗り切ろうとする悪食男爵との相性は正直悪い。出来ればヤズローもこの街に足を踏み入れたくはないのだが、今回ばかりは仕方ない。あのふたりが一堂に会する場所が、ここ以外に思いつかなかったのだ。

 リマス自ら先に立ち、奥の個室を案内される。上機嫌に去っていく商人の背を見送ってから、もう一度溜息を吐き、覚悟を決めて扉を開けた。

 全ての調度品に金箔と宝石が飾られた、何とも趣味の悪い部屋の中。円卓の丁度真ん中、線対称に、ふたりの女が座っている。

「あらまぁ、遅かったじゃないの、坊や。お腹は空いていない? さぁ、こちらへおいで。私の膝でもいいのよ?」

 黒髪を遠慮なく床まで垂らし、豊満な肢体を薄手の黒いドレスで包んだ、金色の八つ目を嬉しそうに細める女――“蜘蛛”の元締め、絡新婦のレイユァ。

「初っ端から発情してんじゃねぇよ毒蜘蛛が。遅ェよチビ、こんなとこまで呼び出しやがって」

 色素の薄い髪に銀縁眼鏡、痩せた体を地味な服と宝石の護符で飾り、不機嫌そうな表情を全く隠さず毒を吐く女――“蜉蝣”の元締め、魔操師のミロワール。

 本来ならば、自分達の基盤から離れることのないこのふたり。様々な理由で反目しあっているのに、この店で一堂に会している理由はただ一つ。他ならぬヤズローが、面倒ごとを一度に済ませたかったから、である。

「こっちも忙しいんだ、二つの街を行き来してる時間が惜しい。そうしたらお前らがここを指定したんじゃねぇか」

 招くレイユァの指を無視して、ふたりから丁度同じぐらい離れた席に腰かける。詰まらなそうに唇を尖らせたレイユァが、それでも妖艶な笑みを浮かべて身を乗り出してくる。柔らかな乳房が円卓の上で潰れて、ふるりと広がった。

「しょうがないでしょう、私の縄張りにこの女を招きたくないし、薬と鉄の臭いしかしない街に入るのなんて、絶対嫌だもの」

「ハッ、こっちだって生臭ェ蜘蛛の巣なんざァ頼まれたって入んねェよ。うっかりてめェを“蜉蝣”に入れたら何人食われるかわかんねェしな」

 ばちり、とふたりの間で視線が絡み合い火花を散らす。ご覧の通りこのふたり、様々な理由で相性が悪い。更に、互いに我が強すぎるが故、欲するものがかち合ったら争う以外の選択肢が無いのだ。

 それも解っているし、この店で飲食をするのもあまりいい気分ではない。ヤズローはテーブルの上に用意されていた色鮮やかな菓子からどうにか目を逸らし、ふたりの女に向けて告げる。

「もう知ってるだろうが、旦那様に付いて南方国へ行く。戻ってくるのは冬に入ってからだ」

 隙あらば舌戦を繰り広げようとしていたふたりがぴたりと止まる。ヤズローに向けてくる視線は、心配と憤怒という全く別の感情だったが、執着の強さは全く同じに感じた。

「ああ、なんてこと。暫く坊やを味わえないなんて……南の国は遠いし、とても竜が煩いわ、どうにか留まることは出来ないの?」

「ふっざけろよテメェ、腕と脚の整備はどうすんだ! あのデブについてったらまた無茶使いするのが解ってんだ、見逃せるか!」

 ついに我慢できなかったレイユァが素早く距離を詰めずるりと抱き着いてきて、ミロワールはテーブルの上に膝を乗り上げて怒鳴りつけてきた。この連中を淑女として扱うのは絶対に無理です旦那様、と心の中で主に詫びつつ口を開く。

「ミロワール、旦那様の呼び方を訂正しろ。……だから、今日は頼みに来た」

 レイユァの胸に埋もれた顔を無理やり持ち上げて、はっきりと告げる。一瞬ふたりの動きが止まった隙に、今回この場を設けた一番の目的を。

「レイユァ、血肉ならくれてやる、代わりに蜘蛛糸をもっと強くしてくれ。俺の命令をなんでも聞くように。ミロワール、腕と脚だけならいくらでも改造していいから、新しい機能を付けてくれ。祓魔の仕事に役に立ちそうなものを、ありったけだ」

 どれだけ己の体を鍛えても、辿り着けない場所があることをヤズローは良く理解していた。ただそれだけなら自分の悔しさだけで済む、だがその結果が役目の失敗では許されない。母国から遠く離れれば、主とその妻を守れるのは自分しかいないし、何より他国に槍斧のような巨大な武器は持ち込めない。強くなるために手段を選んでいる時間は無いのだ。

 決意を込めて口を引き結ぶと、ああ、と感嘆の溜息が旋毛にかかった。何をと思う前に、白い腕の拘束がきつくなる。

「なんてこと。ああ――なんてこと。いけない子、このまま丸呑みしてしまいそうだったじゃあない」

 熱の籠ったレイユァの声にぞくりと背筋が震えるが、耐える。頬を白い指で撫でられ仰向かされると、金の目の中にちろちろと欲の炎が見えたが、浮かぶ笑顔には慈悲しかなかった。黒く染まった爪が、ヤズローの髪を梳り、耳朶をやわやわと撫でる。

「ええ、ええ、捧げましょう。貴方の望むがままに、思いの通りに。欲しいものを好きなだけ、お使いなさい」

 じわりと、耳に留まったままの蜘蛛のカフスが熱くなった気がする。我慢できないように桑の実色の唇で頬を食まれたので、鳥肌を堪えてもう一人を見ると、ミロワールは顎に手指を当てて考え込んでいる。……早口でぶつぶつと呟きながら。

「……変形と……出力は……巨体化は拙い、あくまで抑えて……糞、数を増やせば……いや駄目だ駄目だ、結局足りなくなる……大事なのは密度……よし」

 揺れていた眼鏡の下の眼球がぴたりと止まり、何か結論を出したらしい魔操師が顔を上げる――彼女にしてはあり得ない程の、満面の笑みで。

「まっかせろ! 最高級品に仕上げてやる! オラ手ェ離せ蜘蛛僕が先だ!!」

「ああ、煩いこと。お前にはこの食えない手足だけで充分でしょう、それだけ持ってお帰りなさいな」

「はァ!? 馬鹿言ってんじゃねェ、本体に合わせた調整に何日かかると思ってんだ丸ごと寄越せや!!」

「どっちでも良いから早く終わらせろぉ!!」

 思い切り腕を引っ張るミロワールと、抱き込んで離さないレイユァに挟まれ、既に己の選択を後悔しつつもヤズローは絶叫した。

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