◆1-2
「我が愛しの姫君、決して決して、貴女を侮っているわけではございません。その誇り高きお心に加えて、日々剣術にも研鑽を重ねていらっしゃるのは百も承知ですとも。ですが、今暫し我輩の心の準備という名の猶予を頂ければと願うだけなのです」
しょんぼりと東屋の席に座ったリュクレールをビザールがあの手この手で宥めている時、ふと思い出したように瑞香が口を開いた。
「ねぇビザール、最近暇?」
「ンッハッハ、我が家の働きぶりを見抜くとはやるではないかね親友。昨今は実りの秋で祭もあり、地下も大分平和に治まっているのでね、吾輩の体は痩せ細ってゆくばかりだとも!」
人々が豊かに満たされていれば、魔はそうそう現れない。これは古くから伝わる通り、人間の悪感情が魔を滾らせ力を強めるからだ。故にビザール達祓魔師の仕事も、夏から秋にかけては減っていく。勿論彼自身は、平和なのは良い事だと嘯くが、実際それで困窮していれば世話はない。
「鏡見て言いなさいよ肉団子。そんなあんたにいい暇潰しを紹介してあげるんだから」
長椅子に腰かけて足を組みなおしながら、瑞香はにやりと笑って濃い青の瞳を細める。
「奥様にも耳より情報よ? あんた達、新婚旅行する気ない?」
「新婚、旅行……ですか?」
聞き慣れない単語に、やっと俯いていた顔を上げたリュクレールも瞳を瞬かせる。ふふんと笑って扇子を開き、瑞香は語り出した。
「元々はうちの国で、皇帝が妻を娶ると外遊に行くっていう仕来りのことなんだけどさ。段々奥さんの喜ぶ場所に連れていく方が重要になって、今じゃ金のある奴は貴族平民問わず結構やってんのよ。普段とは違う生活をすることで、夫婦の絆が深まるとか何とかも言われてるけど真相は知らないわぁ、やったこと無いし」
ぺろりと赤い舌を出してから、身を乗り出して更に続けた。
「今なら大盤振る舞いで、何人でも藍皇国へご招待してあげるわよお? かかる費用は全部面倒見てあげる!」
「まぁ……」
確かに破格の話に、リュクレールも驚いてしまう。貿易自体は盛んでも、南方国――勿論これはネージからの呼び方で、正しい国名は藍皇国となる――への旅行など王族でもなければ中々出来ないことだ。日数もかかるだろうし、その間の生活費なども馬鹿にならない。男爵家には一生かかっても無理なほどの提案に、ビザールはたぷたぷと顎を揺らして何度も頷く。
「ほう、ほう、ほほう! それは確かに素晴らしい話ではないか、全く持って贅沢極まりない! ……して、対価は何かね親友?」
「チッ、やっぱすぐには乗ってこないか。……仕事の依頼よ」
美味い話には裏があるとばかりに目を光らせた親友に、つまらなそうに舌を打ってから、瑞香がぽつりと呟く。自然と、ビザール以外の人間が居住まいを正した。
「南方国へ向かう航路で、何隻も行方不明の船が出てるの。あたしの船も一度やられた。それだけでも腹立つってのに、命からがら逃げてきた奴らが言ったのはね」
瑞香がビザールへひたりと視線を合わせる。笑みを持って受け止めた親友へ、きっぱりと告げた。
「幽霊船に襲われた、って言ってんのよ。あんたの得意分野でしょ? 諸経費も全部あたしが持つから、役に立ちなさいな、親友」
×××
数日後、今度はシアン・ドゥ・シャッス家の屋敷にて。
「奥方様、まずこちらをお持ちください。この蛇には生まれてより仕込みを続けました故、いかなる時もお役に立てると存じます。こちらの腕輪は、氷竜の雫を埋め込んだ護符です。鱗とまでは行きませんが、いざという時奥方様の身をお守り致しましょう。この袋に入れ、懐に仕舞っておいて下さいませ。ご存じかとは思いますが、護符の首飾りは決してお体から離しませぬよう。それと――」
「あ、ありがとうドリス。でも、多すぎではないかしら?」
「とんでもございません。外つ国まで向かうとなれば、準備は幾らしても足りないということはございませんとも。路銀はヤズローに預けますが、念の為換金できるものも――」
てきぱきと長旅に向けた荷造りをしながら、女主人に一つ一つ説明をするドリスと、目を白黒させているリュクレールを遠目で見守りつつ、瑞香は面白そうに目を細めた。
「あの人の過保護っぷり、あんただけかと思ったら奥様にも発動するのねぇ」
「ンッハッハ、今回はドリスを連れていけないから尚更だろうね。殿下の呼び出しがあるかもしれないし、我々の留守中も家を守ってもらわねばならないからね!」
ビザールはそう言うがもう一つ、彼女の老いた身では船の長旅が難しいであろうことも、今回の旅から外した理由だろう。本人は不本意そうだったが、理由もきちんと理解しているので抵抗はしなかった。その代わり、旅行の準備だけでなく、瑞香が用意した旅中のリュクレールの側付き―一流石に着替えなどをヤズローに任せるわけにいかないので――にも、様々なことを仕込んでいるらしい。
「うちの従業員の腕がタダで上がってるわぁ、有難いことに。っと、それで幽霊船の詳しい話なんだけどさ」
「ふむん、詳しく聞かせてくれたまえよ親友」
ソファから丸い身を乗り出すビザールに、瑞香は紅も刺していないのに赤い唇をぺろりと舐めて喋り出す。
「襲われてるのは藍皇国――南方国に向かう船ばっかり。しかもうちの国の旗を掲げてる船だけよ、やんなっちゃう。最初は貿易品狙いの海賊かと思ったんだけど、船は悉く沈められてるし積み荷が売られた話も聞かない。これは蛞蝓爺にも聞いたから多分間違いないわ」
「ほうほう、すっかりリマス殿と親しくなったのではないかね?」
「冗談でもやめて鳥肌立つ。んで、護衛船を雇ったおかげで命からがら逃げ帰った奴の目撃情報だけど」
ドリスが入れて随分冷めた茶を一口飲み、喉を潤して。
「この季節じゃ滅多にない霧が出たと思ったら、ぼろぼろの船が並走してきた。裂けたマストがたなびいているのかと思ったら、それがまるで幽霊みたいに剥がれて飛んできて――船を一隻、海に引き摺り込んだんですって」
「ほう、ほう、ほほう! 伝統に準じておきながら最後は随分と力技ではないかね!」
「そこではしゃぐんじゃないわよ丸い生物。でも本当に、幽霊船ってもうちょいしっとりしてるというか、搦め手使う方じゃなかったっけ?」
首を傾げる瑞香に、ビザールは揉み手をせんばかりに説明を始める。
「うむうむ、全く持ってその通りであるね。伝説や逸話に細かな差異はあるが、乗組員を死女神の国へ連れていくだの、柄杓で水を汲んで船を沈めるだの、容赦はないが直接的な暴力行為はあまり聞いたことがない。これは相手が幽霊船ではないことも考慮に入れねばならないかもしれない、つまり吾輩は役立たずになりかねないね! ンッハッハッハッハ!」
「そこで威張らないでよ鬱陶しい。まぁあんたは兎も角ヤズローの腕前は信用してるからいいけど……あら? そういえばあの子どこ行ったの?」
常にビザールの後ろに控えている優秀な執事がいない事に気づき、瑞香が意外そうな顔をする。ビザールは慌てることもなく、寧ろ悠々とした態度で無理やり足を組み替え、ふふんと鼻を鳴らした。
「ヤズローは逢瀬に向かったのだよ。何せ三十日以上この国から離れるのだ、麗しき花達に暫しのお別れを告げなければなるまい」
「ああー、お姉さま方のご機嫌取りかあ。大変ねぇー」
労いつつもおかしさを堪えきれない顔で瑞香が混ぜ返すと、ビザールはみちりと肩を竦めて笑うだけで返した。優秀な従者が自ら地下に降りた一番の目的も、ちゃんと知らされているし、彼がそれを声高に知られるのを望まないことも理解しているからだ。
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