誘い

◆1-1

 藍商会本部の建物には、南方国の人間が、気候や文化が全く違うネージ王国で心地よく過ごすための様々な設備がある。

 玉砂利が敷かれた道と、季節の花が咲き乱れる木々で彩られた庭園もそのひとつだ。小さいながらも川と泉、滝まで作られており、色鮮やかな魚が優雅に泳いでいる。南方国の伝統的な庭の作りをしている為、母国を懐かしむことにも、こちらの国の来賓を持成す為にも使われる。

 しかし、招待されたリュクレールが一番驚いたのは、この庭園が屋根の上に据えられているということだ。もう既に秋から長い冬へ近づき、雪がちらつくことも増えたというのに、庭園の中がとても暖かなことも信じられない。

「なんて綺麗なんでしょう、それに常夏の国のように暖かいわ。一体どうやって建物の上に、こんなに立派なお庭が作れるのかしら?」

「恐れながら、奥方様。南方国に伝わる、竜の息吹のひとつでございましょう」

 美しい花弁が散る空をうっとりと見上げながら散策を続けるリュクレールに影のように付き従うドリスが、いつも通りの抑揚のない声で答える。

「竜の息吹、ですか?」

「さようにございます。源流は私達魔女術と同じ、竜――即ち自然に語りかけて力を借りるものにございます。この国では廃れて久しいですが、南方国では現在も盛んに利用されているそうです。ここも流石に冬になれば一度は閉じますが、出来る限り雪を避けて木々を守ることも可能だとか」

「そんなことが出来るのね……世界にはわたくしが知らないことばかりです」

 南方の神秘に溜息を吐き、自分の不勉強を反省するリュクレールだが、この国でも知らない者の方が多いだろう。嘗ては未開の地と呼ばれ、貿易が盛んになった今も、所詮は辺境と侮るものはこの国の貴族にも多い。勿論、南方国は南方国でそう思っているだろうが。……戦争になっていないのは、国境が岳山によって区切られ、外海を大回りしなければならない程距離が離れているからだろう。

「僭越ながらこの庭園の維持につきましては、私も微力ながらお力添えをさせて頂いておりますが」

「まあ、そうなの! 凄いわドリス!」

「勿体ないお言葉です、奥方様」

 青と金、縦に分かれた瞳を輝かせるリュクレールにどこか誇らしげに礼をするドリス。シアン・ドゥ・シャッス家に嫁入りして半年近く、すっかり仲良くなった主従の耳に、甲高い金属の音が届いた。

「……手合わせが始まったようですね」

「そうだわ! ヤズローの応援をしないと! 参りましょう、ドリス!」

「仰せの通りに」

 はしたなくない程度に早足になるリュクレールを、ドリスが静かに追っていった。



 ×××



 庭の中心に据えられた東屋の側、玉砂利の広場を銀色の脚が蹴る。

「っ、おぉ!」

 自然に口から漏れる気迫のまま、ヤズローが目の前の男に肉薄して拳を繰り出すが、構えられた手の甲ですぐに弾かれる。勿論それで止まる筈も無く、二撃、三撃。並の人間ならば追いきれない速度の拳は、全て最小限の動きしかしない手で往なされ、叩き落される。素手でヤズローの銀腕を叩いているのに、響くような音が鳴り、一瞬でも気を緩めれば態勢を崩されてしまう。

 まるで動かぬ山の如く、少しも軸がぶれることなく、小目はその場で構えて立っている。袖の無い簡素な南方服を纏い、表情どころか息の一つも乱さないまま、防御に徹している。攻撃に移れないわけではなく、その価値すらないと言いたげに。

「糞がッ……!」

「こらこらヤズロー、口の我慢が利かなくなっているぞ」

「聞こえてないでしょ、今はね」

 何度目かの連撃が躱され、思わず漏れたのだろう悪罵に、ビザールは東屋の長椅子を一人で使い悠々と腰かけながら、いつも通り暢気に叱る。隣の椅子に寛いだ瑞香の言葉ものんびりとしたものだ。主達は、瑞香自慢の瑠璃の茶器で優雅に茶会中である。

 皿に並べられた茶受けは南方からの輸入品である鳳梨だ。青いうちに摘んで船に積み、海を運んでくる内に熟し、食べ頃になる。ネージでは果物といえば蜂蜜漬けにするか煮込んでジャムにするのが主だが、南方の果物は甘みが強く、向こうでも生で食べるのが当たり前だそうだ。勿論、ビザールはそこに遠慮なく自前の胡椒塩を振り掛けているので、瑞香に睨まれているが。

「――男爵様!」

「おお、これはこれはリュリュー殿! 散策は有意義でしたかな?」

 自分の皿をぺろりと空にしたところで、東屋にリュクレールがドリスを連れ立って入ってきた。丸い体に似合わずすぐさま立ち上がって愛妻を迎え入れるビザールに、笑顔と共に丁寧な礼が返ってきた。

「はい、堪能致しました。瑞香様も、お許しいただき本当にありがとうございます、とても素晴らしい庭園でした」

「いいのよー、あたしだってここは自慢したいんだから。鳳梨食べる? あ、もっと小さく切った方がいいかしらこれ」

「では、失礼ながら私が」

 瑞香が身を起こして人を呼ぶ前に、ドリスが進み出て備え付けのナイフを手に取った。リュクレールがまだまだ食が細いことを知っているが故の配慮に、少女が安堵と感謝の礼をした時。

「おらァ!!」

 罵声と共に、庭に鈍い音が響いた。会話の間もずっと戦い続けていたヤズローが、小目の懐に潜り込んだまま体を捻り、延髄に向かって蹴りを入れたのだ。小目も威力のあるそれを往なすことは止め、自分の裏拳で迎撃をした結果の音だった。

「っの……!」

 躊躇わず、弾かれた勢いのままにヤズローは体を反転させ、逆の脚で次は小目の顎を狙った。懐からの攻撃を躱し続けることはいかな手練れでも難しい――が。

 ひゅ、と小さい息の音が一つ。

 小目の体はその大きさに似合わない程のしなやかさで反り、ヤズローの蹴りを簡単に避ける。そのまま小目の体は後ろに倒れ、片腕だけで地を支え、軽々と後ろに飛んだ。ヤズローは諦めず追いすがろうと踏み込むが、その姿が不意に消える。

「しま――」

 ヤズローが己の不覚に気づくよりも一瞬前。両足を広げ、限界まで深く構えた小目の掌が、飛び込んできたヤズローの腹に叩き込まれた。

「がっ……!」

「ヤズロー!!」

 思わずリュクレールが悲鳴をあげてしまう程、ヤズローの小さな体は軽々と吹き飛ばされた。砂利の上に落ちてごろごろと転がっていく少年に、駆け寄る女主人をメイド長が追う。

『――そこまで!』

 瑞香が不機嫌な顔で南方語の声を上げると、小目は今までの激闘が嘘のように呼吸一つ乱さないままで、砂利の上に膝をつき自分の主へ礼をする。その姿を僅かに眇めた目で見降ろしてから、今度は満面の笑みで隣の悪友の方を向き、白い掌を差し出す。

「はい、あたしの勝ーち」

「ふむむん、残念無念だが仕方あるまい」

 男爵は苦笑だけして肩を竦め――肉付きが良すぎてみちっと服が悲鳴を上げた――、懐から金貨を一枚取り出して瑞香の掌に乗せた。従者達の手合わせはいつも、主達の賭けの対象なのだ。ヤズローは小目との手合わせに今まで勝ったことが無いので、ビザールは負け続けである。それでも当然、彼は自分の従者に賭けることを止めないし、瑞香も止めることはない。

「毎度ありー。まぁ昔よりは頑張るようになったわよねぇ、最初の頃は一瞬で吹っ飛ばされてたし」

「ンッハッハ、そうだろうそうだとも。ヤズローは日々精進し進化しているのだ! いずれ小目殿に土をつけるのも遠くはあるまいよ!」

「えぇえぇ、期待してるわよぉ」

「……面目ありません、旦那様。次は必ず」

 リュクレールの心配そうな付き添いを申し訳なく思いながらも、自分の脚で歩いてきたヤズローはビザールに向けて深く礼をした。自分の情けなさに対する怒りを噛み潰し切れていないその様に、ビザールはいつものように笑い、リュクレールも追随する。

「ンッハッハ、その心意気さえ忘れなければいずれ頂きへ辿り着けるとも!」

「ええ、そうですわヤズロー、素晴らしい戦いでしたもの。わたくしも精進しなければなりませんね……」

 深く頷いてから、リュクレールの顔がぱっと輝く。未だ跪いたままの小目に視線を向けて、無邪気ともいえる笑顔で問いかけた。

「そうだわ、小目様、次はわたくしと手合わせして頂けませんか? 剣もお得意だとお伺いしました」

「絶ッ対駄目」

「奥方様、ご無理はなさらず」

「なりません、どうぞお下がり下さいませ」

「リュリュー殿、申し訳ありませんがそれだけはご勘弁頂きたい」

「えっ、えっ」

 間髪入れず一斉に止められて戸惑うリュクレールに視線も動かさず、小目はただ次の命を待っていた。

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