黒い仔山羊と黒い猫
ぽた、ぽた、ぽた、と蛇口から水滴が落ちる。
ゴミ袋の合間にしゃがみ込む私は、両膝を抱えて蛇口を睨みながら”音を立てないで!”って蛇口を睨みつけて怒る。
ガサッて寝室から音が聞こえると、私は思わず身構える。もちろん音は立てない。
ごそごそと寝室から出てきたママは、ごみ袋を邪魔そうに蹴りながらシンクに行くと、置いていたグラスを蛇口に近づけて水を注ぎ、美味しそうに飲み干した。
そしてゴミ袋に囲まれた私を一瞥して、チッと舌打ちすると、また寝室に戻って行った。
ママが動く度に、羽虫がわんわんと部屋中を呼びまわる。
私はその中で、目を伏せながら息を殺して座り込む。
また、チッって音が聞こえても、私は動かない。動いちゃいけない。もしも動いたら、また蹴られる。殴られる。私がどんなに泣き叫んでも、ママはぼんやりした目で私を苛む。
誰も助けてくれない。誰も助けてくれない。
なんで、私はここにいるの?
どうして私を産んだの?
ゴミ袋越しに部屋が明るくなったり暗くなったりする。何かの拍子に食べ物が放り投げられる。私は必死に貪りつく。食べ終えてから、お腹が痛くて震える事もあるけど、それしかないから食べる。
ある時、いつもの様に目の前が明るくなっていくと、騒がしい音が耳に響く。もう、五月蠅いって声を上げる事も出来ない。ただぼんやりと、ドンドンドン!と五月蠅い音が聞こえる。
黒っぽい何かが目の前を横切ると、わわーんと羽虫が飛び交う。
ぎゃあぎゃあと言い合う喧噪が響く中、私はふわっと浮かんでいた。
私死んだのかな?と思っていたら、誰かの顔が間近に見えた。ふわっといい匂いのするその顔は、こっち見たりどこか見たり、バタバタ忙しい。
黒っぽい何かが明るい所に走り出すと、私の顔を見ていた何かが落ち着いた声で言った。
「もう、大丈夫よ」
大丈夫って何? ねぇ、大丈夫って何? ダイジョウブってどういう意味なの!?
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目を開くと薄っすらと、見慣れた天井が見える。
枕元で、目覚まし時計がコツコツと時を刻む音が聞こえる。
額を拭うと、寝汗が袖口を濡らす。
ふぅっと息を吐いて起き出して時計を見ると、まだまだ深夜の時間帯だった。はぁっと大きく息を吐いて、冷蔵庫に向かう。中からミネラルウォーターを取り出してコップに注ぎ、一気に飲み干す。
あの頃の夢を見るのは久しぶりだ。毎夜嫌な夢を見るのに、記憶に基づく悪夢は久しぶりだった。もう一杯飲んでから、口の端を袖で拭う。
後片付けをしてから、もう一度布団に戻る。
大丈夫。
あれから17年経っているんだから、もう大丈夫。
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「ねぇ、今週末空いてる?」
就業直前に同僚が聞いてきた。
私はすぐさま、断る。
「ごめん。今週末はお母さんが来るんだ。ごめんね、せっかく声掛けてくれたのに」
両手を合わせてポーズを作ると、同僚は急だったから気にしないでと言ってくれた。そのまま同僚は”お母さん離れしないと”って言うのに、微笑みだけ返すのがやっとだった。
うるせぇよ、お前。私の何を知ってんだよ?親離れ?何様目線だよ!?…………
数日後、お母さんとの約束の日だったから早く帰りたかったのに、帰られなくなった。夕方遅いクライアントの電話一本で営業はバケツをひっくり返したような大騒ぎをすると、その後は平身低頭で、ただ、頼む、お願いしますの連呼だった。
みんな諦めたように仕事に取り掛かるから、私もそうした。お母さんにSMSで「ごめんね、遅くなります」と送って、それからは早く帰る為に必死に仕事と格闘した。
日付が変わっても終わらなくて、みんなうんざりしてたら上長が機嫌を取るように夜食とドリンクを持ってきた。
同僚みんなは”ありがとうございまーす”って、いい感じで受け取ってるから私もそうしたけど、全然まったく有難くない。
早くお母さんが待つ家に帰らせて!
必死に仕事した結果、なんとかクライアントに見せられる状態になったのは、間もなく朝日が昇る時間だった。
営業の人達がペコペコ頭を下げるのを見るのも煩わしく思っていると、
付き合いが悪いとかなんとか、結構な悪態をつかれていたけど、私はお母さんに早く会いたくてタクシーに飛び乗った。
正直財布に厳しい。それでも、早くお母さんに会いたい。
20分弱。最初話しかけてきた運転手さんも黙って目的地まで運転してくれた。
タクシーを降りてアパートを見上げると、私の部屋に明かりが点いていた。
ごめんね、お母さん。遅くなって本当にごめん。
普段、なるべく音を立てないようにしている金属製の階段を駆け上がると、カンカンカンとけたたましい音が鳴り響く。
登り切って家のドアの前に立つと、絶対私が帰ってきた音が聞こえてるはずだから、中で準備してくれてる。そう思いながら、息と髪型を調える。お母さんに会うの久しぶりだから、テンション上がるのがパない。
髪を撫でつけてから、鍵を差し込む。うん、鍵はかかってない。持ってるのはお母さんだけだから、中にいるのはお母さんだ。
ドアノブをぐいっと回して声を出した。
「ただいま! お母さん!」
あれ? お母さんいない……。
「ごめん……ね? お母さん、どこにいるの? ねぇ、お母さん……。意地悪しないで……」
テーブルを見ると、お母さんの手料理があった。私の分だけラップが掛かってる。
ごめんね、一人の夕飯にして。頑張ったんだけど、こんな時間になっちゃった。
バッグを落としながら寝室に入ると、月明かりが無人の四畳半を照らしていた。
今朝慌ただしく家を出たから、きっとぐちゃぐちゃだった寝具が綺麗に畳まれている。シーツも枕カバーも外されて、今では綺麗に畳まれて綺麗に置かれていた。
お母さん、どこにいるの!? ねぇ! 遅くなったけど帰ってきたじゃん! ねぇ、意地悪しないで!
パニックになってあちこちひっくり返しても、お母さんはいなかった。
とぼとぼと力なくテーブルに座る。ラップが掛けられたお皿を見ると、間違いなくお母さんがいた事が分かる。
嫌いって言ってるのに塩焼きの魚がどんと置かれてて、小鉢に葉野菜のお浸しが置かれてる。白菜の浅漬けもあって、視線をグリルに移すと、お味噌汁が入っている小鍋が見えた。そのまま視線をずらすと、保温ランプがオレンジ色に灯る炊飯器が見えた。
お母さん、どこにいるの? 寂しいよ。ねぇ、どこにいるの?
本来お母さんが座っているはずのところに目を向けると、知らない男の子が座っていた。
何かやり遂げたみたいなパンパンに充実した顔にニコニコと溢れ出す笑顔を浮かべる男の子が座ていた。
ぐっと息を呑みこんで男の子を見る。電灯の灯りを反射して、つやつやしたウェーブの掛かる黒髪に大きな灰白色のバネッタを2個付けている。褒めて欲しそうにうるうるした緑がかった黒い瞳を大きく見開らいて私を見ていた。透けるような白くて綺麗な肌に包まれた顔に上気したような薄紅色の頬と、いちごキャンディのようなピンクの唇が、嬉し気に両端を上げている。
ごくっと固唾を飲み込む。
何をどうするのが正解なのか、必死に考える。目の前にいる子供が何者なのか、なぜいるのか、考える。考えて考えて考えて、考え抜く。
そして、問い掛けた。
「ねぇ、私のお母さん、どこにいるの?」
にこにこ顔で座っていた男の子はびっくりして座り直すと、おずおずと私を見返した。
その様子を見た私がもう一度聞きなおすと、男の子は何かを理解したように居住まいを正して言った。
「お姉さん、見えちゃったんだ。あ、僕はばほめっとのばほ。初めまして、だよね?」
なんかコイツ、ムカつくって思いながら、様子を伺う。向こうも同じ感じで、私に探るような視線を向ける。まるで私を裸にするような視線にムカムカして、声を荒げていた。
「ねぇ! お母さんどこ? 私のお母さんどこにやったの!?」
両手でテーブルを叩いて言うと、テーブルの乗せられた食器がガチャッと、私の乱暴を非難する音を立てる。それでも、目の前の男の子は動じない。
まっすぐ私を見据えたまま、頭を右に左に傾げながら、探るように言ってきた。
「ねぇ、お姉さん。お姉さんが言ってるお母さんって、ママの方? それとも、じゃない方?」
男の子の言葉を咀嚼した途端、私の呼吸が止まった。
こいつ、何言ってんだ? 私のお母さんは一人だけ。なのにこいつ、何言ってんだ? こいつ、頭にくるんだけど! こいつ、許さない。私にママはいない。いないのにこいつ、こいつ。こいつこいつこいつコイツこいつこいつ…………コイツ! 嫌い!
「お姉さん、凄いね。そんななのに契約してないんだ。本当に凄い」
ほぉっと口を開けて、驚いたような顔を向けてそう言ったガキが嫌い。
なんだコイツ。全部見てきたような顔するコイツ嫌い。全部分かっているような顔をするのが嫌い。
胸がムカムカしてくるのに、目の前のガキは綺麗な口の両端をクイと上げて、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて私を見ている。気持ち悪い。なんだコイツ。
なんで頭から角生やしてるんだ。
あれ? 角? 生やす? アレってバネッタでしょ? いや、なんで私、角をバネッタに見えてたんだろう。どう見たって、
あれ? こいつ……悪魔じゃん。 瞳、縦長? それって山羊の瞳……
いきなり、ふわっと体が軽くなった。
今までと今日さっきまで思ってた色んな重いのが、ふわっと軽くなった感覚が全身を包むような感覚を覚えた。私から抜け出したぐろぐろした色々な思いが目の前で綿あめのようにくるくる回って纏まっていく。
それを見ていた男の子は少し驚いたような顔をした後、右手をくるくるっと回して纏まったもやもやをベストのポケットにすっとしまい込むと、赤ちゃんをあやす幼児のような、背伸びした作り笑顔をして、私の頭を撫でていた。
「あのね、ママは君を取り戻したかったんだって。理由は
話している男の子がだんだん大きくなっていた。
さっきまで彼は、私の腰にも届かないくらいの小さな男の子だったのに、今は私を優しくだき抱えるようにする男の子だった。
ふざけないでって頬を引っぱたこうと伸ばした右手は、短くて小さな赤ちゃんの手になっていた。
驚いて右手を見ると、小さくて可愛い楓のような手が見えた。握って開くと、ぷにぷにの手がくぱくぱと開いて閉じた。
ねぇ、わたしはどうなるの?とおもいながら、おとこのこをみると、かれはやさしいめをむけながら、おしえてくれた。
「ママは契約したから魂貰うよ。お母さんは、最後まで君の事を想っていたいたんだけどね。最後の最後で、僕と契約しちゃったんだ。君が悲しなまいようにしてって。それでね、僕すっごく考えたんだ。君に僕が見えないといいって思いながら、お母さんの席に座ったの。それで君は帰って来てから、部屋中見て回って、最後にテーブルに着いた。このまま見えないといいなって思ってたのに、君は僕を見ちゃった」
そういいながら、かれはわたしのあたまをやさしくなでている。
「それでね、君を助ける為にお母さんが契約したって言ったら、君はお母さんを助けるって僕を怒るなって思ったの。だって僕、君とおんなじような人と何度も契約してるから、ちょっとだけ分かるんだ。すごいでしょ? 僕だって成長するんだよ。だからね、君とは契約しないの。でもちょっとだけ、お母さんの言ってた、君を助けたい、君が思うように生きられるようにしたいって言うのも分かるんだ。
君のお母さん凄いね!」
そうだよ、わたしのおかあさん、すごいんだよ。ときょうそうでがんばったり、ぶんかさいのえをがんばったら、すっごくほめてくれるの。べんきょうがんばってだいがくはいったら、ふたりだけのパーティしてくれたの。ちゃんと、わたしを、みてくれるの。
「うん。うん、そうだね。だからね、君をこのままにすると、他の子と契約しちゃうかも知れないなって思ったの。そうすると、君のお母さんが契約違反だって怒ると思うんだ。だからね、君は僕と一緒に居て欲しいんだ。
僕の使い魔になって、好きに生きてね。たまに、ううん、できるだけ、僕を手助けしてくれると嬉しいな」
うりうりなでるちっちゃいてがうざい。
にゃにいってるかわかりづらくなってるけど、だいじなとこはわかる。
うーん。おかあさんがいったのなら、私としては否やは無いんだけど、なーんかいまいち納得できない。結局おかあさんは帰って来ないんでしょ? でも、私がお母さんを助けたいと思ったら、ご主人……ご主人!? え、目の前のごしゅ…… あー、分かった。もうこれ、私使い魔だわ。にゃんにゃら……なんにゃら、完全に手遅れだわ。
でもにゃ、私を救ってくれたお母さんに、また助けられたのか……。
なんか、悲しい。出来ない子のままでごめんにゃさい。んん! ごめんなさい。
それと同時にごしゅ……ばほが言ってた通り、私が私のままだったら、絶対お母さん助ける為に契約してた。そうしたら、お母さんがどうするか分かる。
誰も救われない。
コイツ、悪魔の癖にいいヤツにゃね。
使い魔かぁ、こうにゃっちまったら、現世の事気にしても仕方にゃいよね。
ふぅ、段々眠くにゃってきた。
「ふふっ、猫になったんだ。気持ちよさそうに寝ちゃってる。凄いつやつや綺麗な黒毛のにゃんこだ」
優しく撫でる飼い主の腕の中で、私はすっかり眠り込んでた。
お母さんと一緒に、色んな所に行った思い出が夢になった。幸せな時間をくれたお母さんと一緒の思い出を夢に見ていた。
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