黒い仔山羊と子犬のワルツ
初めて弟ができた! 元気のいい黒柴の男の子! 名前はリキ。
お姉ちゃんになる私は、カールとかスチュワートとか、かっこいい名前を提案したのに、結局パパが言ったリキになった。ちょっと面白くなかったけど、パパやママ、それに私が名前を呼ぶと黒い尻尾を元気よく振って返事してくれた。
リキって名前、気に入ったみたい。パパが、保護犬だからちゃんとしたお誕生日は分からないけど、リキは二歳か三歳なんだって言ってた。可愛いのに犬的には大人だと聞いて、二歳や三歳で大人って何?って思ってた。
私は頑張って早起きして、毎朝リキとお散歩に出る。朝はパパが一緒だけど、夕方はママが一緒。お休みの日は家族みんなでお散歩に出るようになって、楽しくて仕方なかった。
小学生になった頃、リキは落ち着いた大人の犬なっていて、お散歩に出るとグイグイ私を引っ張っていく。パパが、私がちゃんとリキのお姉ちゃんになれば、そんなに引っ張る事無くなるよって言ってたけど、意味がよく分かんなかった
夏休みに家族みんなでキャンプに行くと、海や山でリキと一緒に遊んで、一緒に寝る事もあった。美味しいバーベキューで夕飯を済ませた後に、ママが「洗い物を丸投げされると、楽しくても辛い」って言うと、パパは慌てて「いまやるとこだったんだ。コーヒー飲んでてよ」って言いながら、食器を抱えて洗い場に走って行った。私がクスクスと笑うと、リキは「何が面白いんだ?」と言いたそうな顔して、大きなあくびをしていた。
中学に上がってから、色んな事がありすぎた。
みんなどんどん変わっていって、きっと私も変わっていたんだろうけど、変わり切れなかったり、自分の変わりようについていけなかったり、誰かと誰かが衝突する日があった。
部活に入って朝練や夕練があるから、リキのお散歩に行けない日が増えた。
それでも頑張ってるのに、先輩のささいな一言が気にかかるようになった。
前なら、いつもなら流せるほんの一言が、深く突き刺さる事もあった。
ちっちゃい事なのに、刺さるとホント痛い。痛くて泣きたくなる。でも、いちいち泣く事も出来ず、泣いたら両親に心配かけるからと我慢する。
そういう事のあった日に家に帰ると、リキがぶんぶん尻尾を振って出迎えてくれた。何もない日に比べるとちょい増しくらいに見えて、分かってくれてる気がした。
ほっとしていると廊下の奥からママがお帰りって言うのを聞きながら、リキと一緒に部屋に戻る。
通学カバンを机に投げ出してから部屋着に着替える。その間リキは私を見ながら静かに待っている。
着替え終わってリキに微笑みかけると「疲れてるんだね! 僕が! 舐めてあげる! 元気出して!」って勢いでベロベロ舐めてくる。犬だから舐めると分かってても、あの日の私は救われてたと思う。
高校生になった頃、通過儀礼的に反抗期に突入してた。
異性のパパは気持ち悪くて、同性のママの言う事ひとつひとつが癇に障った。
そういう時期なんだと宥めすかすような両親の言動にまで反感を向けている私の視界には、必ずリキがいた。もう結構なお歳で、思い直すと15歳か16歳のお爺さん犬になっているのに、いつもいつも「ねーちゃんって変わんないね」と言ってるような表情を向けてきては、ペロペロと手を舐めて宥めてくれた。
日曜日に気が向くと、日向ぼっこしてるリキを捕まえてブラッシングする。黒柴のくせに白い毛が増えてて毛並みもボサボサと落ち着かないから、「寄る年波には勝てないね」って言うと、私の顔を見ながら馬鹿にするようにあくびをしてた。
大学に入った最初の夏休みのある日、早番のバイトからアパートに戻った私に、ママからSNSで連絡が来た。
リキの通う動物病院の先生が、リキはもう頑張りすぎるほど頑張ったからそろそろ眠りそうだって言われたと、誤変換満載の読みづらいメッセージを送ってきた。
一気に上京する日の朝の光景が目の前に広がった。あの朝リキは、玄関に置かれたお気に入りの座布団の上に座り込んで、ウトウトと微睡んでいるようだった。大きな荷物を持った私が玄関で騒がしくしてると、うるさいなぁと言わんばかりに重そうに首を持ち上げてから、初めて私がいると気付いたように見ていた。
「リキ。お姉ちゃん行ってくるよ!」と言うと、うん、がんばれな?と気の抜けた返事をするように小さくあくびして、また微睡んでいた。
ママの連絡にびっくりした私は荷物をまとめると、慌てて電話して、繋がった途端に「急ぎなら電話でいいじゃん!」と怒鳴りながら、アパートを飛び出してターミナル駅に向けて走っていた。
新幹線に飛び乗って中継駅からローカル線に乗り換える。その間もママから急ぐように連絡が来るのに本当にイラついた。急いでるよ! 頑張ってるよ! うるさいよ!と車内で叫ばなかっただけでも、まだ自制していると言って欲しい。
最寄り駅を降りると、とうに終バスは出た時間だった。
家までタクシーなら10分くらい。早めに歩いて20分くらいか? 駅前のタクシー営業所は無くなってるから、最寄りの営業所は……と考える時間も惜しくなって、私は走り出していた。
だいたい小学校の通学路だから覚えてる。リキと一緒に散歩したルートもだいたい被ってる。多分、両親が通学に困らないように、小学校の通学路を散歩ルートにしてたんだろう。建て替えとか無ければ、近道も使えるかもしれない。
街灯も乏しい田舎道を走っていると、リキと一緒に散歩した光景が蘇る。
夏のお散歩で角の家のおばあちゃんに、私は麦茶、リキはお水を貰ってお話した事がある。その先の家は白くて大きな犬を飼っていて、私達が通りかかると物凄く吠えてきて、私は怖がるだけなのにリキは勇ましく吠え返してた。
大きな工場の敷地に立つブロック塀沿いに、リキと一緒に入り込んだら知らないお家のお庭に出て、その家のおじいちゃんに叱られた事がある。その後、リキを気に入ったおじいちゃんが撫で倒して、おじいちゃん家のお嫁さんが私にお菓子を押し付けながら、謝ってたのを思い出した。
春には用水路にかかる橋で、ヘビを見つけたリキが大騒ぎして、私はヘビがキモイしリキが言う事聞かないしでギャン泣きした事がある。通りすがりのサラリーマンのおじさんが、びっくりした様子で宥めてくれた。
思い出すのがほとんど黒歴史なんだなと思ったら、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
昔は雑木林だったところに、現代的な建売住宅が並んでいた。
あまりの変わりように驚いたものの、さっき思い出した用水路とそこにかかる橋で、ルートを間違っていないと確認できた。
ちょっと頑張りすぎたのか、鼓膜に直でくる鼓動がうるさいし脇腹も痛い。歩いてあと5分くらいと思って、少し歩く事にした。
電柱の間隔は変わってないんだなと思いながら、見たことない住宅街を歩いていると、並び立つ街灯の明かりが届かないところから、小さな影が出て来て言った。
「お姉さん、僕とお話しませんか?」
「は!?」
あ、しまった。普通にリアクションしてた。
いやだってさ、暗く静かな新興住宅地を歩ててよ? いきなり小さな影が絶妙に明かりを避けながら飛び出してきて、ちっちゃな子供の声で「お話しよう?」って言われたら、リアクション限定されない? 普通、え?とかは?でしょ? 私、間違ってないよ。
「ちゃんと、お姉さんには僕が見えてるし、僕の声も聞こえてると思ったから、声かけたんだ!」
目の前に突然現れたちびっこが、なんでか胸張ってドヤってる夜。あり得る? いえ、眼前でふふんって顔したちびっこがドヤってるから、きっとあるんですよ。みんなぁー! 街灯のある田舎道でも、油断しちゃあダメだぞー!?
動揺する私は完全に無視して、その子は自身に満ちた表情で話し続けた。
「僕は、ばほめっとのばほ。お姉さんのように、僕の声が聞こえて僕が見える人を探し出して、契約を交わして助けるんですよ」
濃いめのピンク色した唇からすらすらと紡ぎ出される音に魅了された。
口元から目線を上げると、真っ白な肌を彩る薄紅色の頬にこちらを見つめる緑がかった黒い瞳。額に落ちかかった幾筋かの前髪をたくし上げても抑えきれない波打つような艶のある黒髪。そしてそれを押さえ込むような二つの大きなバネッタ。
幼い容貌に似つかわしくない、整いすぎた顔立ちに驚いていた。
「ねえ、お姉さん? 僕は、僕を見ているお姉さんの、きっと力になれると思うんです。だから、僕とお話しませんか?」
私を見る視線に、足が震えだす。住宅街の中にいるのに、そばの家々は窓に明かりを灯しているのに、何の音もしなくなっていた。
ヤバい。この子の可愛さじゃなくて、この子の雰囲気がヤバい。
タクシーに乗っておけばよかった。通学路じゃなくてもう少し明るい道通っておけばよかったと思いながら、これはこの子が幽霊とか呪いとかそういう系なんだろうなぁと、色々諦め始めていると、さらに何かが来るのを感じた。
目の前のちびっこは何も感じないのか、つらつらと
「契約成立したら、お姉さんの魂で贖える範囲でね、なぁーんでも、お姉さんの思……う、ま……ま……」
お、なんか硬直したぞ?
「思うまま…… え? ええー!?」
言い直せなかったか。残念。
おい、そこのちびっ子。ちょっとは説明しろ。15歳くらい離れた男の子相手に硬直してる私に少しは配慮をね?って……。 あれ?
ちびっこの目線の先を追うと、街灯の射さない暗がりから、何かが近寄ってくるのを感じた。それはちびっこも一緒だったようで、体を震わせながら次第に涙目になっていった。
「なんで? ねぇ!? なんでなの!?」
あぁー、これ、ザコがやられる時のセリフだなと思いながら聞いていると、ちびっこの視線の先から酷く冷静に怒っている若い男性の声が響いてきた。
暗がりから出てきたのは、手入れをしていないボサボサの黒髪ロン毛の15歳くらいに見える少年だった。身なりは結構しっかりしていた。長い黒髪にアウターが黒に近いグレーのライダージャケットと革パンツにブーツ。インナーは白のTシャツに見えた。
一歩づつゆっくりとちびっこに歩み寄る少年は、本当に不思議そうに問い掛けた。
「何故? 何故と問うのか? むしろ何故、お前が彼女を見染めたのかを聞きたいんだがな?」
ちびっこの上ずった声に対して、抑揚のない冷たい声が問い返した。
触ったら切れるような、研ぎ澄まされた空気が辺りを包み込んでいる。
それなのに、なんかすいません。結構イケボだなと思いました。
ちびっこは答えずに、キッと睨み返すように言い返した。
「だって、このお姉さんは……」
「おい。その呼び方は止しておけ? いくら年嵩であっても、許容できぬぞ」
「ひぅっ!?」
「ものはついでだ。これはやらぬ。他をあたれ。いいか? これっきりだ。他をあたれ?」
なんでしょうこの放置感。でも、なんだかこの黒髪ロン毛の少年には安心感を覚える。
「でも! 僕だってちゃんと見てるんだもん! 君みたいな赤ちゃんなんか怖くないもん!」
「然り。それであってもな、こればかりは譲れぬのよ。ぬしが年嵩にて敵わぬとしてもな、わしはそれらと約しておるゆえ、抗わざるを得ぬ。それは、わしだけのものではないゆえな。」
「ふんぬぅぅぅぅ!」
「すまぬな。此度ばかりは若輩に譲ってくれぬか?」
「ぶんにゅぅぅぅぅぅぅ!!!」
目の前で繰り広げられている一部始終が分りません。ただ、ちびっこは両目に涙を一杯貯めて、こぼれるのを抑えるように踏ん張っています。対する少年は態度こそ殊勝ですが、ちっとも下手に出てなくてかなりの曲者です。また動きがあれば、お伝え致します。
「この通りだ」
黒髪ロン毛が両ひざをついて頭を下げた。
あ、動いた。思っていた以上に早く動いたよ。
それを見たちびっこは腕で涙を拭うと、ちょっと考えるような仕草をしたと思ったら、晴れ晴れとした顔をして言った。
「しょうがないなあ。僕の方がおにいちゃんだから、今日は譲ってあげる! お姉さん、じゃあね。ばいばい!」
そう言ったちびっこは、現れた時と同じような暗がりに入って行って消えた。
最後にちらっと振り向いて、べぇっと舌を出したように見えたような見えなかったような……。
ともかくそれを見届けてから視線を戻すと、もう黒髪ロン毛は居なかった。辺りを見回しても誰もいない。その代わり、すぐ側の家から、楽しそうな家族の笑い声が聞こえていた。
私は今見た事を捨て去ろうと一目散に実家に走っていた。鍵の掛かっていない玄関を開くと、そこには両親とかかりつけの獣医さんに、荒い息を吐いてぐったりしているリキがいた。
「リキ! リキ!? お姉ちゃんだよ!? リキ!」
走り寄ってリキの右手を取ると、けだるそうに頭を持ち上げて私を見ていた。
その視線が「ねーちゃんはまったくもう」と言っているように見えた。涙がこぼれるままに、私はリキの右手を握りながら、わんわんと泣き出していた。
「ありがとう、リキ。ありがとう。ありがとう」
家族でリキを見送った後、両親と獣医さんはリキの葬儀の話を始めたから、私は自室に戻って座り込んでいた。半年前のままの部屋で椅子に座っていると、初めて会った頃の事を思い出していた。
駆け回って、走り回って、一緒にワルツを踊っていた昔を思い出していた。
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