黒い仔山羊と白山羊さん
ある日職場でバターン!と倒れた私は、その日から病院にいた、らしい。
いや、だってさ、最後に覚えてるのが会社のコピー機がどんどん近づいてくるイメージで、その次は見たことない真っ白な天井ですよ。
びっくりしても体は動かないし、なんとか目をぎょろぎょろ動かしてたら、看護婦さんが大きな声で騒ぎ出した。すると、あれよあれよという間に私の周りは人だらけですよ。みんなマスクしててさ、辛うじて両親は目元で分かったけど、知らない顔に囲まれてるし体は動かないし、パニック状態だったわよ。
あ、はい。コピー機が近づいてきたんじゃなくて、私がコピー機に倒れこんでいたんですけどね。
話が出来るようになると、お母さんが色々教えてくれた。
私がコピー機に全身で迫ったあの日から、二か月経ってるんだって。
なんでも私が入院してからちょっとして、会社が解雇通知を送ってきたのにパパンがブチ切れて、弁護士の友達を連れ立ってウッキウキで乗り込んだ挙句、会社の顧問弁護士と労基も交えた私史上最大の決戦をおっぱじめてた。弁護士の友達って、あのおじさんだろか? お盆や年末年始に家族と過ごさずに家に来てたあの人だろ。小学生の頃、あの人の娘と初めて会った時に受けた、仇敵を睨むような目線は忘れられない。高校2年の夏に、おかあさんからおじさんが離婚したって聞いた時、よく今まで持ったなと思ったのも忘れてない。
「ホントみんな、あんたの事好きよね。あたしもそうだけど、一斉にぶち切れてね。ふふっ、吉田さんだっけ? あんたんとこの部長、真っ青でね」
いや、おじさんはパパかおかあさんが好きなんだろ。とぼけるのもいい加減にしろ、五十路だろ。
あとね、吉田部長はやめたげて。吉田部長、実はあそこの最後の良心だから。あの人に救われた社員はかなりいるし私もその一人。あの一部で毛量に不自由してる眼鏡のおじさんが、若手の成果を不器用に褒めて微笑むあの顔はマジ癒しだから……
ともあれ私は、自分の体だけ考えて療養すればいいと言われた。むしろ、外の事はパパに任せておけと、絶対何も動くなと言われた。SNSも通知を切るのはもちろん、SMS含めて会社バレしてるアカウントは絶対入るな見るな閲覧するなと念押しされた。見るのと閲覧するのって意味重複してると突っ込んだら、それだけ頭回るなら絶対馬鹿な真似はするなと雷を落とされた。
「そしたら今日は帰るね。明日はちょっと遅くなるかもだけど、ちゃんとみんなの言う事聞くのよ」
「私、社会人なんですけど?」
「自覚に乏しいみたいだけどね」
そう言っておかあさんが帰って行った。
わかってる。おかあさんの手がちょいちょい震えてるの見えてた。心配かけてごめんね、おかあさん。
点滴とかいろいろ繋がってる管って結構邪魔だなと思いながら僅かに反応する体を動かしていると、ふと気づいた。二か月経ってるのにお腹空いてない。不健康極まりないけど、体重減ってるだろうな。あんなに痩せたいって言ってたけど、不思議と嬉しくない。
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暇だ。
日に日に管の数も減ったし、おトイレも使えるようになった。あれからじわじわと食事をとれるようになって、噛みしめる喜びを思い出しもした。おかあさんと話したあの日の私は、多分私が見たら「プッ、管人間」と言って笑うレベルだったと思う。
だからこそ、暇だ。
数日置きに来るおじさんの部下から聞く戦況速報は、パパンとおじさんがどんだけ楽しんでるかという話にしか聞こえなくて、もはや私の事と思えない。最初こそオブラートで包んでたけど全く通じないから、直接的に「いいところで落として」と言った伝言も、どこまで正確に届くか分からない。おかあさんに言うと、ケラケラとひとしきり笑ってから、決まって私がドン引き保障する冷たい声で「許すわけないじゃん」と言うので、もう何を聞いたか言うのはやめよう。どうせ先に全部聞いてるだろうし。
今日もお母さんは、時間をやりくりしてここに来ていた。私の話し相手だけじゃなく、洗濯物も含めた世話をしてくれた。
もうすぐ普通の面会時間が終わる頃、椅子から立ちがったおかあさんは微笑みながら私に言った。
「それじゃ、また明日ね」
そう言ったおかあさんは、明らかに疲れ切っていた。
私はぐっと布団を握ってお願いした。
「ねぇ、私は24時間見て貰ってるから、おかあさんも少しは休んでね? 私に心配させないでね?」
ズルい言い方だったけど、ちゃんと伝わったみたいだ。ふっと微笑むと「分かってるわよ」と言って出て行った。
おかあさんが閉めたドアをぼぅっと眺めていると、音も無く開いた。
忘れ物かな?と思っていたら、開いたドアから覗き込んでいたのは、小さな男の子だった。
「お姉さん、僕が見えてるの?」
思わず頷いた私を見て、男の子は同じように音も立てずにドアを閉めると、てててと小走りにベッド脇に走り寄ってきた。
もう面会時間も終わる頃なのに、なんじゃろこの子と思いながら見ていると、男の子は悪びれもせずに側にあった椅子に座って、にぱっと口を開いて笑いかけてきた。
「お姉さん、僕とお話しましょう?」
小さい子って可愛いなと思う事はあった。今もそう思ってる。でも目の前のこの子はヤバい。
びっくりするほど綺麗なウェーブのかかった黒髪に、大きなバネッタを二つ乗せている。上気したようなピンクの頬とキャンディみたいなピンクの口元が、白く透き通った肌に辛うじて生気を感じさせる。
それなのに、身に纏う艶やかな黒のビロードの燕尾服と白いボタンダウンの襟で存在を主張する真っ赤なリボンタイは、
てんでバラバラなその子は、好奇心をそのまま映し出すような緑がかった黒い瞳を大きく見開いて、まっすぐに私を見ていた。
この子の髪も瞳も肌も服装も、一つ一つは整っていて文句のつけようもないのに、まとまりが無くて理解できない。
明らかに普通じゃない。
だって、なによりも私を見透かすような眼をしてる。
「ねぇ、ボク? もう遅い時間だけど、大丈夫?」
私としては牽制含みで言ったつもりだったのに、ランランと目を見開いて答えた。
「もちろんです! やっとお話できる人と会えました! お姉さん、もしよかったら、僕とお話しましょう!」
おぉぅ、なんか考えたのと違う。さっきから感じてる違和感は変わらないけど、この子は妙にまっすぐだった。変に構えずに、話を聞くところから始めようと思った。
「いいわよ。でも、ここ病院だから、消灯時間までにしてね」
「はい! もちろんです!」
あー、ヤバい。この子ホント可愛い。
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それから毎晩、その子は来た。
お話と言っても、毎日取り留めのない話がほとんどだった。自分が楽しいと思った事、それを私が共感できるかとか、自分なら何が楽しいのかなど、ぴょんぴょん飛び回る彼のお話に翻弄された。例えるなら、さっきまで車は左側通行と話しているのに、急にそう言えば飛行機は左側通行とか上側優先とかあるの?という具合に、彼のお話は脈絡の欠片も無く、ただ気の向くまま、彼方此方に飛躍するお話に、私はついていけなかったり、驚いたり、びっくりして何も言えなかったり、ただ翻弄されるばかりだった。
「良かったわ。気付いてる? 最近あなた、楽しそうに笑っている事があるのよ?」
おかあさんに突然言われたその言葉に驚いていた。それっていつ?と聞きたくなったけど、正直心当たりはある。あの、夜になるとくるちっちゃい燕尾服を着て気取ったあの子と話すようになったからだろう。
それは一昨日か、一生懸命喋るあの子に飲み物を出した事がある。割れ物がNGだからメラミンのカップに入れたミルクを出すと、興奮したように身震いしながら、両手でそっと持ち上げて、こくこくと飲む姿は正直萌えた。独り占めだぜ? そりゃ萌えるだろ。 ちっちゃ可愛い男児がほわーって嬉しそうに、両手でカップ持ってミルク飲むのを独り占め。本当にありがとうございます。新たなおチャクラ開きました。
今も思い出して笑っていると、おかあさんがしみじみとした言い方で、良かった、と呟くのが聞こえた。
おや、得体の知れないあの子に、どうやら私達助けられてるみたい。
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あの子が来ない日がある。それがすごく寂しい。
来なかった日の次に来たあの子は、すごく悪い事したような顔をするから、私はそんな事ないってフォローしてる。正直、来てくれると嬉しい。
「お姉さん、今日もお話して平気?」
嬉しいのに、部屋に入る時はおずおずと様子を窺って入ってくるのが愛くるしい。
心配そうに私を見るこの子に、ゆっくりと頷いて手を伸ばす。
結構前から、撫でさせてくれるんだ。つるつるした黒髪は、触るだけも楽しくなる。いいなぁ、一時退院でも出来たら、この子を真似たパーマ掛けよう。お揃いだねって言ったら、どんな顔するだろう。
自分の頭を撫でる私の手を握って、何も言わずに私を見ている。初めて会った時と変わらない、緑がかった黒い瞳を向けてくる。
あー、心配させてごめんね。でも、私も頑張ってるから、君も契約取ってね。 あれ? なんの契約だったっけか。
彼の頭を撫でていた右手を動かして、側机の引き出しを指差す。
ここ開けるの?と言う声が聞こえたから、私は頷いた。
そこには私が頑張って書いた手紙が入ってる。もう、ちょっと前から、喋る事が出来なくなってたから、手伝って貰って手紙を書いたの。
おかあさんは何も言わず、好きにさせてくれた。ペンをうまく握れない私に、なにしてんのって言いながら手を添えて、手伝ってくれた。
読めるかなぁ? 読んでくれたら嬉しいなぁって、頑張って書いた手紙。
引き出しから手紙を取り出したあの子は、びっくりしながら両手で手紙を包み込んで、嬉しそうに言ってくれた。
「ありがとう! おねえさん! 後でゆっくり読んでもいい?」
いつからだろう。私はこの子が大好きだった。私以外には見えないし聞こえないこの子の姿と声を、毎日待っていた。
今も、私の手紙を胸に抱いて、全身で嬉しいと伝えてくれるこの子が、大好きだ。
そろそろ消灯の時間が来る。
私は精一杯、全身の力を振り絞って声を出した。
「ね……な、まえ……お……しえ……て……」
おぉ、声出た。やるな、火事場のクソ力。
久しぶりに聴いた私の声が、びっくりするほどダミ声だったのに驚いたのか、魅力的な黒い瞳が大きく見開いていた。
帰ろうとドアに近づいていた体ごと私に向き直って、ようやく名前を教えてくれた。
「僕、ばほめっとのばほ。お手紙読んでから契約にくるね! お姉さん、僕の初めての契約者だよ!」
満面の笑みを浮かべて教えてくれた。ばほめっとのばほて……。バフォメットかー、悪魔?だったけ? サバトのと違うんだっけ? まぁ、いいや。それにしてもばほって…… 見た目だけじゃなくて名前も可愛いんだ……
明日も来てくれるなら、明後日までは頑張らないと……
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何かピーピーうるさいなー久しぶりにゆったり眠かったのに。
おろ、主治医の先生と婦長さんがすっごい剣幕で入ってきた。あ、看護師のえみちゃんも来た。えみちゃーん、彼氏とうまくできたの? ん? なんでそんな険しい顔してんの? ありゃ? 主治医先生の天敵先生まで来た。うわー、コメツキバッタみたいにぺこぺこしてる。主治医先生、もちっと胸張りなよ!
にしても、なにこの騒ぎ?
うん、うすうす分かってた。
あそこで心マ受けてるの、私だ。
あ、パパとおかあさん来た。
ごめんなさい。これまでかけてくれた愛情に何も応えずに、先立つ事になってごめんない! パパ大好き! おかあさん大好き! 本当に本当にごめんなさい!
ばほ! ごめんね!
契約できなかった! 私、ちょっと力足りなかったみたい。
怒らないで欲しいけど、初の契約逃しちゃうんだから、きっと怒るよね?
精一杯頑張ってたんだけど、本当にごめん!
私だって、契約してからが良かったんだよ。
言い訳かなぁ?
ごめんね、ばほめっとのばほ。本当に大好き!
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