月に届くまで
小紫-こむらさきー
忌み払いの魔女と銀の狼
「逃げちゃおっか」
手を差し伸べられて、僕は首を横に振った。
だって、僕にしか出来ないことだから。僕がいなくなったらみんなが困ってしまう。
「そう」
瑠璃色の瞳が悲しげに伏せられる。
普段はきらきらとした星空みたいな瞳が陰ると、僕が悪いことをしているみたいだ。
首に結んである縄に目を落として、気まずい雰囲気をやり過ごそうとした。
「疲れない?」
そう聞かれて、首を縦に振るわけにいかずに、僕は俯く。
彼女の月が眠っている夜のような長い髪が揺れる。
痩せ細った指、土で汚れた足。
何も話さない僕に飽きたのか、彼女は小さな足音を響かせて遠くへ行ってしまった。
これでやっと仕事に戻れる。
僕は、生臭さの残る肉の塊から骨を取り除く作業に戻る。
取り分けた骨を水に曝して、乾かして、叩いて粉にする。そうしたら、真っ白な粉になった骨に息を吹いて空へ還す。
取り分けた肉は、忌み地に僕の手で埋める。こうすれば魂がこちらに戻ってこないようになるのだ。
仕組みはわからない。ただ、僕の血は亡き者の肉を浄化して、僕の息は骨に閉じ込められている亡き者の魂を空へ還せるらしい。だから、僕は言われた仕事をやり続けている。
誰も疑問に思わない。
僕も疑問に思ってはいけない。
やめたところで、両親の居ない僕の居場所はない。
一人で生きる術もない。
初めてなんだ。
逃げだそうなんて言ってくれた人なんて。
わからなくて、僕は首を横に振った。
うなずけたら、彼女は僕の手を取って一緒に逃げてくれたんだろうか。
「今宵も無事に魂は空へ還りました。よくやってくれましたね」
月が眠る夜に、僕は骨を空へ送る。
翌朝になると、村の偉い人が僕なんかに感謝の気持ちを伝えてくれる。だから、やりがいがあると思っていたんだ。
なにか言葉を言おうとすると、急に喉が苦しくなる。だから、僕は頭をちょっとだけ下げる。
村の偉い人は安心したような顔をして、そのまま背中を向けて家へ帰っていく。
「逃げちゃおっか」
今日も彼女が飽きもせずに聞いてくる。
瑠璃色の瞳は、満天の夜空みたいに輝いている。
でも、僕が首を横に振ると、いつもその表情は曇ってしまう。
首を横に振るだけじゃ無くて「逃げないよ」って言えれば良かった。
でも、その言葉を言おうとすると、僕の喉はひっついたみたいに声を出せなくなってしまう。
僕は僕の役割を果たしていればいい。胸の中から聞こえる声に従う。
そうしないと胸が苦しくて張り裂けてしまいそうになるから。
両親がいない僕を養ってくれている村の人達に恩を返すためにも、僕は骨を
「君は知らないの?」
瑠璃色の瞳が僕を見ている。
月が眠っている夜みたいな髪。
吸い込まれてしまいそうになって、僕は慌てて目を伏せる。
何を?とは怖くて聞けなかった。
今日も腐った肉から骨を引き抜いては皿に移す。
彼女の質問から逃げるように作業に没頭したふりをしていると、いつものように彼女は小さな足音を立てて遠くに行ってしまった。
最近身体が重い。
大人たちが「潮時か」「忌み払いを魔女に頼むのをケチるからじゃ」と言ってるのが聞こえてくる。
なんのことかよくわからないけれど、なんとなく、僕のことを言っているんだってことはわかる。
それでも、僕は……ここを出ても行く場所なんて無い。
本当は、僕の血にも息にも特別な力なんて無いんじゃないかって思う。
嫌な仕事を、忌むべき仕事を僕が押しつけられている。僕だってバカじゃ無い。それくらいはわかっているんだ。
僕以外にも、この仕事は多分出来る。でも、汚れても良いのは僕だから、僕がさせらえているんだ。
「逃げちゃおっか」
今日も、彼女はどこからかやってきた。
毎日毎日毎日毎日、変わらずにそれだけ聞いて、僕が首を横に振ると帰っていく。
どうして僕なんかに構うんだろう。
彼女の、月が眠る夜みたいな真っ黒で長い髪はゆらゆら揺れている。
今日も僕は首を横に振った。
彼女は、無言のまま、いつもより悲しげな顔をした。
いつもなら、僕が仕事に没頭していると帰っていくのに、今日の彼女はまだ帰らない。
しゃがみ込んだ彼女の、瑠璃色に光る瞳が僕を覗き込んでくる。
「君は、本当に自分がただの無能だと思っているのかい?」
いつもの満点の夜空みたいな瑠璃色の瞳が、不気味にぎらりと光った気がした。
頷くことも出来なくて、僕はただ一本の大きな骨を腐った肉から引き抜いて地面を見る。
ふらりと視界が歪んで、僕はその場に倒れた。
彼女の小さな足音は、聞こえなかった。
「もう使い物にはならん」
「処理するか?しかし、
「魔女に頼むわけにもいかんしなあ」
夢の中で、そんな会話が聞こえた気がした。
地面が冷たい。
いつもの土の上のはずなのに、慣れない感覚がして目を覚ます。
身体の内側だけがやけに熱くて、胸を掻きむしる。
「ねえ、君」
身体が動かせない。首だけを動かしていつもの彼女を見る。
夜なのに、こんなところにいるのは珍しいな。
ぼーっとする僕の額に、彼女の痩せ細った手が触れる。ひんやりと冷たくて心地よい。
「普通の生き物はね、食事をしないと弱る」
寝たきりなので、彼女の視線から逃れられない。
瑠璃色の、星空みたいな双眸は僕を捉えて放さない。
「ねえ、いつから食事を取ってない?」
頭の中に言葉が響いて来る。
食事ってなんだ。
概念としては知っている。
畑から採れたものとか、家畜を火で焼いて、それを口に運ぶ行為。
僕には用意されたことが無い。
だから、取らなかった。何を食べるべきなのかも知らない。
「なにも教えられていないんだね」
額に当てられた手が、僕の上を滑っていく。
身体に触れられるのは好きでは無いけれど、これは嫌ではないなって思った。
僕から手を離した彼女が、何かごそごそしている。
「口に入れて」
動けない僕の口に、彼女は小さな手を突っ込んできた。
吐き戻しそうになったけれど、口を押さえられて思わず飲み込んだ。
「な……う、あ」
彼女がいるときはいつも声が出ないのに、僕の口から初めて言葉が漏れた。
そのまま、言葉と一緒になにかが身体の中からこみ上げてくる。
「そのまま吐き出してしまいなさい」
身体に任せて、身体の中から込み上げてきたものを地べたにそのまま吐き出す。
口から身体がひっくりかえってしまいそうになりながら、何度も口からわけのわからないものを吐き出すと、身体が少しだけ軽くなった。
もう、掻きむしりたくなるような熱さは消えていて、彼女と僕の間には黒いドロドロした液体がまき散らされている。
よく見ると、その中には白い骨の欠片と、銀色の短剣が混ざっていた。
「これは」
「あなたの両親と、あなたを縛っていた
ああ。
頭にかかっていたモヤが晴れていくみたいに、僕の中であの日のことが蘇ってくる。
赤い血。
銀で出来た剣と、トルネコの杭。
切られる銀狼の首が二つ。
僕を押さえつける大人たち。
首に嵌められている縄に手を添える。
「逃げちゃおっか」
瑠璃色の瞳。
今度はもう、目を背けない。
僕は、彼女の目を見ながら、首に付けられている縄を引っ張る。
でも、それは何か特別な力が込められているみたいに固くてちぎれない。
僕の手は、どんな太い骨も折れるし、大きな肉塊もちぎることが出来るのに?
「もう嫌だ。疲れた。終わりにしたい」
彼女の丸い瞳が、すっと細くなる。
薄い唇の両端がゆっくりと持ち上がった。
「君にどんな言葉を用意しても、君がそう言ってくれないと何も出来なかったんだ」
ああ、綺麗だな。そう思った。
彼女の指がそっと僕の首元に触れる。
さっきまでどんなに引っ張っても解けなかった縄は、燃え尽きた後の骨みたいにパラパラと散った。
「おいで、銀狼の子。人を
彼女の手は、僕の頭を撫でる。
身体が軽い。
食事をしたからかな?全部思い出したからかな。
「オオォォオオオーン」
腹の底から湧き上がる声。
遠吠えをした僕は、そのまま両手を地面に付けて彼女に身体をすり寄せた。
そうだ。僕の身体は、二本の足で歩くものじゃない。
僕の手は骨を取るためにあるものじゃない。
この四肢は大地を踏みしめて駆けるためのもの。
この口は骨を空へ
誇り高い一族である遠吠えを遠くへ響かせて、人間に畏怖を知らしめるためのもの。
この牙は、飾りじゃ無くて、立ち塞がる者を
「私は忌み払いの魔女、
初めて彼女の正体を知った。
瑠璃色の瞳が僕を見ている。
差し伸べられた手に、僕は
「メレナ、この村はどうなるの……?」
「君が去れば、悪霊が土地に満ち、近いうちに滅びるだろう。私たち夜の
ククッと肩を揺らして彼女は笑う。夜色をした長い髪が冷たい風に吹かれて靡いている。
村の方がガヤガヤとしてきたのを見て、僕は少しだけ考える。どうすればいいのかを。
「自らの両親を殺して、君の記憶を弄くった奴等を八つ裂きにしたいのなら手伝うけれど」
「逃げちゃおっか」
僕は、そう言って彼女の手に自分の鼻先を押しつけた。
一瞬だけ目を丸くした彼女が、楽しそうに頷いた。そして、彼女の細くて長い脚が僕をまたぐ。
背中に微かな重みを感じながら、僕は湧き上がってくる気持ちのまま再び空を仰ぎ見る。
生まれたての細い月が僅かに僕たちを照らしている。
「オオォォオオオーン」
涼しい風が僕たちをそっと撫でていく。
風になったみたいに僕たちは夜の闇に溶けながら駆けた。
忌み払いの魔女を乗せて、
「銀狼、君に贈り物をあげよう」
メレナは僕の背中に乗りながら楽しそうに言った。
彼女の靡いている髪は夜に溶け込んで先が見えないからすごく、すごく長く見える。
僕が頷くと、彼女は僕の首元に腕を回して額に頬を擦り付けてくれた。
「
初めての誰かからの贈り物。それがうれしくて僕はまた大きく鳴き声を上げる。
「名は、そのものを強くするからね。これからよろしくね、アウラル」
彼女に名前を呼ばれると、力がどんどん湧いてくる。
彼女となら、何があってもどこまででも駆けていける気がした。
「さあ、どこへ行こうか」
「月に届くまでだって走れるよ!メレナ!一緒に月まで行こう」
月に届くまで 小紫-こむらさきー @violetsnake206
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