12.「籠国の」天使

「やぁ、来てくれたんだ」


彼はそう言った。

継ぎ目すらない無機質な床に両膝をつき、その前で両の手首を拘束されている。

彼はただじっとそうしてうつむき、目を閉じていたが、目の前に人影が現れるともうとっくにそれを知っていたかのように、瞳を開くとゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。


「エシェル……その姿」


両膝をついて、見上げてきたその姿は、戦場で見た天使のものだった。

ただし、波だった動きを見せながら光の走る格子……おそらく鉄などよりもよほど堅牢だろう、の向こうで両手もまた、手首に術式と思われる実体のない枷をかけられ拘束されている。


「この牢は、霊的な力によってできている。人間が触れる分には問題ないけれど、彼らのような高次の存在には触れるだけで大きなダメージになる」


キミカズにそう言われて、忍があまりためらいを感じさせずに、だがゆっくりと手を伸ばす。確かにそれに触れても、握るようなしぐさをしても何も起きなかった。


「エシェル、すまない。僕にはまだ君をここから出す算段が思いつかない」

「構わないよ。逃げたところで何もないし。それより、ノイズが厳しいな」

「ノイズ?」


枷のせいかそれとも消耗しているのか、エシェルは顔を上げただけで他の動きを見せずにうっすらとそう笑みを浮かべる。その表情は、わずかな苦痛を帯び、苦笑に近い。


「この牢に流れている彼らにしか聞こえない音だよ。超音波のように僕たちには聞こえないし、何の害にもならない。けれどエシェルにとっては相当な耳障りな音が流れ続けているんだ」


耳障りな音にさらされ続ける。人間でも厳しい。というよりそれが24時間続いたら負担なんてものではないだろう。

そういう意味ではそれが目的でそうなっているのだろうが……


「どうしてそんなことを?」

「余計なことを考えつかないように」

「……人間にしてみれば雑音が耳元で鳴り続けているようなものだから、さすがの僕もこの状態で何かを考えろというのは、厳しい」


ただでさえ神経質なところのあるエシェルにとっては拷問に近いだろう。

実際、エシェルはいつもの涼しい表情とは違う表情(かお)をしている。

笑みは浮かんでいるが、どこか自嘲気味だ。


「……キミカズ……それってなんとかならないのか?」

「……」


キミカズも、考えてはいるだろう。さっき算段が思いつかないと言ったばかりだから。

表情は曇ったままだ。


「それ、聞こえるのエシェルだけなんでしょう? 神魔もここには入らないんだよね」

「? うん、それは」

「じゃあさりげなくオフにしておけばいいだけなのでは?」

「………………」


妙な沈黙が流れた。忍の、いつもの、それこそ日常モードオンなフラットな口調。


「忍、それができないからキミカズは……」

「いや、気づかなかっただけだよね? キミカズ、気づいてなかったよね? 考えすぎて足元お留守な感じ満載なんだけど違うかな」

「……違わない」


その言葉を聞いて、清明さんの表情が、清明さんではなくキミカズのそれになる。なんだか、目から鱗な感じで納得した感じになっている。


「……そんなことをしたら君が責任に問われるぞ」

「セキュリティ上、記録も徹底して『残されない』。僕が責任者だから、まず気づかれないだろうし……」


あ、これグレイゾーンに突入していく流れだ。


「始末書一枚のために、友人の苦しみを軽減してあげられないとか、どんだけ薄っぺらい友情ですか? というか」

「わかってる」

「「バレなければいい」」


おい。

忍とキミカズの方向性が完全に一致した。


「オレも出来るならそれは賛成だけど……大丈夫なの?」

「役所の仕事なんてそんなものなんだ。現場なんて上はろくに見ないし、現場は現場で固いだけでは仕事は進まない」

「いや、公言しないで。バレるの嫌なら黙ってやって」


『清明さん』が、光の檻の隅の方に手をかざす。何やら印、と呼ばれる手の動かし方を始めた。


「エシェルもここから出ようとは思っていないんでしょう?」

「あぁ、逆に大ごとになるだけだからね」

「終わったよ」


ほんの少しの間で、それは解除されたらしい。何も変わっては見えなかった。

けれど「見えない」だけで実際、音は消えたのだろう。エシェルの表情から、少し緊張が薄らいで見えた。小さく息をつく。


「確かにこれなら、術師がチェックでもかけない限り全然わからない感じ」

「全く、君たちは」

「人間舐めんなー。結構小賢しいんだぞ」

「小賢しいとか自分で言うなよ。他に言い方あるだろ?」


しかし、それでふふ、とエシェルの顔にいつもの笑みが浮かんだ。


「さすがに視覚的にわかりやすい手枷を消すことはできないけど。静かな環境に長くいた君のことだ。大分過ごしやすくなるだろう」

「あぁ、感謝する」


それから忍は牢の中に腕を差し入れてそれをひらひらと振った。


「結界なんだね。エシェルの方からは格子のこちらに手も出ない状態なんでしょう?」

「そうだよ。だから隙間は結構ある」

「でもさすがに入れるほどではない」

「いや、入ろうとしないでよ?」


してません、と忍。チャレンジしそうで怖い微妙な細さの隙間だ。横になって肩が通れば行けてしまいそうな気がする。

してないという割には、なんとなくやりたそうな気配も感じたが忍はエシェルを呼びながら手招きする。

呼ばれてはじめて立ち上がると、エシェルはこちらに近づいてきた。


「手、出して」

「手?」


拘束された両手を言われた通り上げる。忍は改めて格子の外から中へ、自分の手を差し入れるとそれに触れた。


「普通に触れる」

「忍、それは確認してからにしてほしかった。エシェルから人に触れたら、大変なことになるような処置がされていたらどうするんだ」

「そっか。完全に閉じ込められてるからそこまでされてないと思い込んでた」


エシェルの手に触れたまま、なんでもないように忍は言う。そして、オレとキミカズにも触れてみろと促す。


「……一体何が?」

「いや、エシェルの手ってふつうにあったかいよね。天使化すると何か違うのかなっていうのもあったんだけど」


それぞれが手を重ねる。

この友情っぽい演出は副産物なのか? 忍。


「天使としての感覚ってやっぱり人間と違うものなの?」


聞かれてエシェルは意味が分からないと言った感じを返した先ほどと少し違う、一瞬だけ弾かれたような顔をした。

それから、今度は静かな笑みを浮かべて、応える。


「いや? 人間を長くやりすぎたせいだろうか。温かいと感じるよ」

「そう、良かった」


言われてどこか穏やかな視線をエシェルはオレたちに返してくる。だが、自分からその刻を告げてきた。


「そろそろ行った方がいい。ここに来るだけでもあまり推奨は出来ないな。僕は時が来るまでじっとしているから……」

「時?」

「さして意味はない。しかるべき時があれば動けることもあるということさ。さぁ、もういいから」


そして自ら手を引いて、格子から離れるように数歩下がった。。

エシェル自身がこれ以上の接触を望んでいない。

だから、それがわかるから、オレたちはその場を去ることにした。


もう、来られることもないのかもしれないけれど……


通路を引き返す。振り返ると、エシェルはこちらを立ちつくしたままの姿で見送っていた。

その姿はオレに、いつかの、大使館でエシェルと出会った頃の、それを思い起こさせていた……

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