エピソード3-2年前

1.天使襲来-その時、人は

晴れた空。

ふいに影が落ちた。

まるで飛行船が通ったように。

ふと顔を上げる。次の瞬間、光が降った。


街。

変わらないはずの街並が一瞬にして、壊れた。

穿たれたアスファルト、ひび割れた建物、ショーウィンドウが凶器のように割れて飛ぶ。

悲鳴があちこちから響き渡っていた。



なんだ、これ……


俺は立ち尽くしたままそれを見ていた。

時間にしてほんの数秒だろう。

嫌に長く、そしてその光景は網膜に焼き付いて離れない。

翼のある人の姿をしたものが、あちこちに舞い降り、人を殺していた。

殺す、というのだろうか。

触れられた瞬間に何か、白い砂のようなものになって消える。

その広い道には小山になった白い砂があちこちに散乱し始めていた。


バサリ


それは大きな羽音を立てて舞い降りる。


「うわあぁぁぁ!」


ザっ

次の瞬間、前を歩いていたはずの男性が、悲鳴も上げきれないまま、すぐ目の前で砂になって消えた。


天使……


物語に出てくるそれにしか見えないその存在は静かに、見届けると静かに顔を上げる。

盲目のその下、『目が合った』。

背筋をぞっとしたものが走り抜け、そう感じた瞬間、俺は叫びをあげる間もなくそれに背を向け駆け出す。


逃げなければ。

追って来るかどうか、振り返ることすら許されない気がした。

けれど、どこへ?

天使の動きは緩慢というより優雅だった。

素早くはない。その翼を広げた移動速度を除けば。


背後で翼を打つ音がした。

俺は大通りからとっさに路地に入る。

狭い路地。空になったゴミ箱に身体が当たってそれは大きな音を立てて転がったが、路地の奥へと走った。

東京の街並みは、そうした狭い場所も多い。

そいつらは、翼が災いしてか、それとも手当たり次第であるのなら、近くにいる者から手をかけているのか、追ってはこなかった。

そのことに気づいたのは、だいぶ走ってからだった。


息が上がる。

暗い路地の突き当りで見上げるとそれが飛ぶ姿が目に入った。

少し手前にあった自転車にかぶせられていたカバーをはぎとって、被る。

こんなことでやり過ごせるかはわからないが、大通りからは悲鳴が絶えてはいなかった。

出て行ったら間違いなく殺される。

そこでじっとしている他はなかった。


路地に入ってくる気配はない。

あの天使のような化け物も、人間も。

悲鳴は近くなったり遠くなったりしている。

逃げ惑う人たちが捕まっているんだろう。

その声から、惨状は目に見えるようだった。


シートをかぶったまま片膝をついて、スマートフォンを取り出す。

少しの動きが、危険を招く恐れはあったが、確認をせずにはいられなかった。

俺は見慣れた通話記録へ折り返す。


コールが長い。

たったの3、4回でもそう感じる。


『はい』


聞きなれた声が出た。


「森か?」

『うん、どうかした?』

「今、どこにいる」


声は平静だった。ここで起こっていることはあちらでは起こっていないようだ。


『家だよ。今日は休みだから』

「今すぐカーテンを閉めて奥へ行け。絶対に外に出るな」

『? 何? どうかしたの?』

「すぐにだ……! 気になるならカーテンを閉めるときに外を伺ってみろ、何か見えたらすぐに避難するんだ、できるだけみつからないところに……」


『……何……あれ……』


あちらにも「それ」は現れたらしかった。

森のどこか呆然としたような声が呟くように聞こえる。

次の瞬間。


ガシャーーン!


通話越しにガラスが派手に割れる音がした。

シャッ!という音が同時に入る。


「森!?」


つい声を大きくしてしまう。はっとして、辺りの音を伺ったが、周りには何もいなそうだ。

できるだけ声を潜めるように、けれど呼びかけ続けた。


「森……森……! 無事なのか!?」

『司、まずいよ、あれヤバそう』


無事だ。

途中に入った音はカーテンを閉めた音だろう。

どこに移動したのか聞くと、両親の寝室のベッドの下だという。

避難のためにすぐに応えられなかったようだ。

ほっとしたのも一瞬だ。

一層声を潜めて聞く。場合によっては、ここから先、会話もできなくなる。


「さっきの音は? そこは平気なのか」


通話越しに向こうの周りの音を聞こうとするが、静まってはいた。


『多分隣。ベランダのガラス割られた。私はすぐにカーテンを閉めてきたけど……司はどこにいるの、大丈夫なの?』

「あぁ、とりあえず路地に避難できた。通りはまずい。まだあいつらがいるみたいで……当分、動けそうもない」

『そう……無事ならいいんだけど。通話は控えたほうが……いいよね』


隣に来ているとなれば危険なのは森の方だろう。

寝室は静かだが、息をひそめるような空気が伝わってくるのでそこで切ることにする。


「こっちは路地まで入ってくる気配がないから、そっちの安全が確認出来たら連絡してくれるか」

『わかった』


通話はそれで終わった。

とりあえず、でも無事だ。

両親の方も気になったが、親の心配までして無理に連絡を取るとリスクが上がるだけのような気がしてそのまま、黙って悲鳴が聞こえなくなるのを待った。


ただじっと。


息をひそめるようにして。



* * *


日が暮れると、途端に喧騒は止んだ。

それでもしばらく様子をうかがって、路地がすっかり暗くなった頃にようやく俺は動き出した。

周りに気を配りながら大通りを伺う。そこに、思いのほか人の姿があったので、それが「人」だということを確認してから、ゆっくりと、それこそ慎重にそちらへ向かう。


路地の入口から外を見るまでもなく、そこには『帰宅難民』となった人々が一様に、恐怖の表情を浮かべながらも駅の方向へ向かっていた。

ここから駅は近いので、そちらが見える。

多からず人だかりができている。

これでは交通機関はマヒしているだろう。例え数時間かかっても、歩いて帰る方が早そうだ。


夜になって、あの天使のようなものが姿を消したのは誰しもが理解できた。

だから、無事だった人が出てきたんだろう。

けれど、いつ「アレ」が出てくるのかわからない。

明日の朝、また現れるのかもしれないし、現れないかもしれない。


いずれ、大勢の集まる場所は逆に危険に思えて俺は路地を引き返して反対側の道に出た。

そちらも大差のない惨状だったが、人は少ない。

携帯を手に取って歩く。

連絡はなかった。こちらから確認を取るのが少し怖い。

今度は森の携帯ではなく、自宅の電話を鳴らそうとしたが、こちらの回線がパンクしているのかつながりそうもなかった。


仕方がないので、自宅へ向かって歩く。

人気のない公園を抜けるときに公衆電話を目にして、もう一度自宅へかけた。

こんな時は携帯は一斉に使われるので繋がらないというのは、何らかの災害が起こるたびに言われていたことだ。


数度コール音が鳴って、受話器の上がる音。


「森、無事か」

『うん、ごめん。どのタイミングでかけたらいいかわからなくて……』


そうだろう。

こちらは人の動きでわかったが自宅にいたら、アレが近くにいるのかいないのかは、おそらくわからない。


「人が動き始めた。日が落ちてからいなくなったみたいだ。しばらく様子を見ていたから遅くなったけど……」

『そっちはもう、いない?』

「あぁ、このまま歩いて帰る。少し急げば夜明け前につくと思う。……もし、アレが出てきたら避難最優先で動くから連絡できないと思ってくれ」

『自転車』

「?」

『ニュースで見たよ、人がたくさん消えたって。渋谷方面だったけど。多分、今の時間、駐輪場に残ってるのは持ち主居ないんだと思う。モラル云々言ってる場合じゃないからできれば見かけたらそれで帰ってきてほしい』

「そうだな、善処する」


この場合、善処と言っていいものか。

提案に苦笑すべきか、積極的に探した方がいいのか迷いつつも通話を切った。

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