通勤ラッシュ篇(2)
『余はこの程度では揺るがぬ』
「閣下のように強靭な方はそれでも良いかと」
いずれ、よろめくスペースすらないのだから、左に大きく揺れたら放っておけば次の瞬間、右に戻っている。
確かに、変に抵抗しようとするより楽かもしれない。
「ですが、先ほどのように扉が空いたら、押されるままに降りるのがスマートですね。一切の抵抗は必要ありません。むしろ勝手に運んでくれます」
どういうラッシュの乗り切り方してきたのお前。
なんとなく苦手感しかなかったが、次の駅でドアが開いて、忍の言うとおりにすると、確かに楽だった。
勝手に体が動いてくれる。
『余はスマートに道を譲れたか』
「2度目にしては素晴らしいです」
相変わらず、周りの人たち顔色悪いままだけどな。
「ちなみにあそこにいる方のように、変に力が入っていると通勤ラッシュが苦痛に変わり、かつ彼はラッシュ慣れしていない地方出身者であろうことまで推察できます」
余計なマンウォッチングが始まっている。
そこには頑なにつり革につかまって、押してくる人たちを降りようとしないで、やり過ごそうとしているフレッシュマンと思しき男性の姿があった。
『なるほど、確かにあの姿はスマートではない』
スマートに通勤ラッシュをこなすって表現自体がすでにおかしいんだよ。
『他の者は熟練の動きと言った風だな。このような短い時間でこれだけの数の者が入れ替わるというのは、すさまじい統制だ』
いえ、誰も統制していません。
『指揮官はどこにいるのだ?』
いえ、個人の学習能力のたまものです。
「指揮官はいませんが、運転手なら先頭車両にいますよ」
「ラッシュとは関係ないだろ、それ」
つい口が出た。
しかし今日の閣下はすっかり体験にはまっているのか、怒る気配が(昨日に比べたら)全くない。
『この車両を動かす者か……それも見てみたいな』
余計な要望が増えた。
「そういえば、私がラッシュにそこまで苦痛を覚えないのは常に先頭車両に乗っていたせいもあるかも」
「そうなの?」
ふと、思い出した様子。
「先頭はつまり、壁でしょう? ドアが開くたびに動かなくて済むし、運転手さんの手元見たり、正面の風景見たりしてる内に目的地に……」
端が楽なのと同じ原理だな。
納得した。
「そういえば、階段下から乗ると、他の駅でも階段付近のことが多いな」
「だから特に混雑するんだ。移動に便利だから」
『つまりこの車両は、特別混雑する車両でもあると……?』
「……」
黙。
「先ほど申したように、先頭車両などでは通勤ラッシュ体験はすぐに終わってしまいますので」
取ってつける忍。
「物足りないよりは良いかと」
『うむ』
そうだな、閣下がそれを体験したいって言ったんだもんな。
抜かりはない。
『並走している緑の車体は何なのだ。同じ方向に同じ時間で進むのならば、無駄ではないのか?』
「ずっと先ですが行き先が変わりますし、客の少なくなる日中はこの車両は快速と言って、主要駅のみ止まる仕様になります。……止まらない駅に降りる人が乗り換えるためにも必要ですね」
やはり実体験のあるラインを選んでよかった。
こんな質問、ふつうに初乗りで答えられないし、そもそも考えない。
魔王様は日本で覚える余計な知識がいっぱいだ。
品川―高野輪ー田町ー新橋と何度か乗降を繰り返した頃。
「……」
忍がふいに黙り込んだ。
「?」
ちょっと離れているから上くらいしか見えないオレには何が起こっているのかわからなかったが……
「!?」
司さんがいきなり動いた。
と言っても、司さんのすぐ近くにいた男の手を掴んでひねり上げた程度の動きだ。
「っ 何をするんだ!」
「警察だ」
何事?
ベレト閣下はもちろん、黙って揺られていた周りの人もその声の方を見る。
「……」
男の顔色は見る間に紙のように白くなった。
「生憎、別の任務に就いている。次の駅で鉄道警察に渡すか否か。どうする?」
男の顔を見ながらそう聞いたのは、忍に対してのようだった。
「時間のロスがもったいないな、混雑時だし」
そう言って忍は人差し指ほどの小さな端末を取り出し、男に向ける。
カシャ。
明らかにシャッター音がした。
「情報局の犯罪予備軍データベースに加えておく。私、相手でなくても二度目はないから気を付けたほうがいいですよ」
男は忍のことも関係者と理解したのかうぅ、と呻きながら人波をかき分けるように無理やり奥に消えた。
「あぁ、痴漢されたの?」
『痴漢とは』
「異性の身体に相手の了承なく意図的に触れる行為です」
相手が悪かったな。
「男性が女性に、というパターンが多いですが逆のことも稀にあり……いや、表ざたにならないだけで実は多いの?」
「俺に聞かないでくれるか」
司さんは男がいなくなったことで空いたスペースに移動する。
確かに、イケメンでも痴漢をすれば捕まるだろうが、美女が痴漢で捕まったという話は聞いたことがないな。
「ともかく、こういった混雑した車内でよく起きます」
『そのような輩は、燃やしてしまえばいいではないか』
「………………人間には発火機能はついておりませんので」
そういう問題じゃねーだろうが。
『同じ男として、そなたは何も思わぬのか』
オレぇ!!?
確かに、確かに司さんみたいなことはできないけども……
そこで比べられても!
しかし周りの男性陣はみんな顔面を蒼白にしている。自分が聞かれている気になっているんだろう。
申し訳ないが連帯感的な意味で、むしろ心強い。
「いや、その、そういう輩は大体、声も上げられない弱い女性を狙う卑劣な輩が多く……」
ってか、お前、声も上げられないタイプか?
はたとして顔を上げ、忍を見た。特に表情は変わっていない。
「単独で痴漢をする男性は得てして小心者が多い気がします。大抵、触れてきたら手を払えば二度目は来ません。秋葉の言うように、声があげられないタイプだけ被害にあうというのはそういうことでしょう」
『ならば手を払ってやればよいではないか。シノブは今、わざとそれをしなかったのか?』
「一人の時ならそうしますが。冤罪も問題になっており、痴漢と誤認された男性は人生を壊されることもあるのです」
自分が痴漢されているのに、周りを気遣う余地は普通ないんだよ。
「ですので、個人的には何らかの形で犯人を特定してから鉄道警察につきだす等の対応はしたいところですね。今回は司さんがいたので」
さすがにくん付けはまずいと思ったのか、下の名前で呼びつつもさん付けになっている。
この場で使うべき気の回し方なのかは、謎だ。
「自分的には腕をひねり上げるのは無理なので、ちょっとすかっとしました」
そして、ありがとう。と遅ればせながら礼を言う。
ちょっと呆れたような司さんの
「閣下は運がよろしい。痴漢の目撃はもちろん、警察がそれを抑える場面などめったに見られるものではありません」
ていうか、お前がその場面を目撃して喜んでいるっぽく見えるんだが、気のせいか?
『これも通勤ラッシュの功罪というわけか……』
功罪ってこういう時に使うんだっけ?
どうでもよくなってきた。
そして、次は東京のアナウンスが流れる。
ベレト閣下、降りる。
司さん、そのままドアの横に残る。
『……ツカサは降りなくともよいのか』
「あそこはコーナーですから、あの場所が取れると人の流れに関係なく動かないで済みます」
「……」
自分のことを事例に説明されてめちゃくちゃ複雑そうな顔してるぞ。
というか、まさかそのごく自然な動きを疑問に思われるとは思ってなかったのだろう。
なんとなく、一緒に降りたほうがマシだったという雰囲気が見て取れる。
再び乗車。
「……そういうと、オセロのコーナーみたいだね」
「白黒反転はしない」
その切り返しにどれほどの気持ちが込められているのか、オレには計り知れない。
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