プロローグ

始まりの接触

その日、ある国に天使が舞い降りた。

天使は軍勢となり、瞬く間に人の国を滅ぼした。


「入口に ---を立てよ」


その言葉を知り得なかった、数多の人間は塩となりほんの一握りのそれらを知っていた者だけが、命をつなぐ。

しかし、国が滅びた今、それも風前の灯火だろう。


天使の軍勢は数日の間に、世界のあらゆる場所に現れ、人々を消し去った。


黙示の日。

これは審判である。


敬虔なる信徒たちだけが光をまとって降り来る翼もつ者に、震えながらそういった。


これは、人間の 罪である。


と。




その日、人の世は終わりを告げた。






曇天からは今しも雨が降りそうだった。

とても天使の現れそうな天気ではない。

それらの出没と天気は関係のないことだが、似つかわしくない日にはなんとなく現れない気がしないでもない。


「ちょっとでかけてくる」

秋葉あきば、気をつけなさい!」

「わかってるよ」


気をつけようが気を付けまいが、天使に遭遇したら終わりだ。

すでに機能していない機動隊の装甲車の残骸が、割れた高層ビルの巨大な破片に潰されて破棄されていた。

比較的新しかった街並みは、耐えきれないほどの大きな地震にでも遭ったかのような有様だった。


破壊の爪痕は、あちこちに残っている。

人の姿はない。

天使と呼ばれる存在がこの町に現れ、消えるまで大して時間はかからなかった。


この国も、他の国同様多くの人が死に、形あるものは壊れた。

しかし、割としぶとく人間は生き残っている。

その意味もわからないまま。



天使のすべてが消えたわけでもなく、だが少なくなった代わりに闊歩するようになった者もいた。


異形の者……悪魔だという人もいた。


実際のところは何かわからない。

何せ、翼の生えた御使いですら何なのかがわからないまま国家の軍隊は駆逐されたのだから。

正しく言えば、それらが軍として機能する前にすべて終わったという方が正解だろう。

通信手段の多くが遮断された今、他の国の情報もあまり入ってこない。


しかしどこも似たような状態らしかった。

ただ、ライフラインにはあまり興味がないのかこの国で残った者は生活はなんとかしていける。

黙示録がどうとか、命数調整がどうとか、巷ではオカルトがブームになってまことしやかにささやかれているが、興味はあまりなかった。


これは平和ボケした日本人の、典型的な危機感のなさだろうか。

諦めだろうか。それとも適応?


いずれ今日を生きるしかないのなら、やることはあまり変わらない。

そんなわけで、用事があれば外にも出るわけだが……


(今日は嫌に静かだな……)


そんな人間は意外といるもので、それでも全く一人。という時はあまりなかった。

復旧ままならず、倒壊した建物だとかそんなものはもう見慣れたが、やはりあまりいい気はしない。


(天気って、大事なんだなぁ……)


黒く垂れこめた空を見上げてため息をついて、ひび割れたガラスのコンビニの角を曲がる。


「!」


そこで、遭ってはいけないものに、遭ってしまった。



大きな翼。

人間にはない、爬虫類じみたそれがついた、そのくせ人間にも似た肢体の巨大な影が、がれきの上にしゃがみこんでいた。


その向こうに、見てはいけないものが見える。

人の腕。

マネキンだと思いたいところだが、ボタボタとどこかぬめり気のある液体を流れこぼしていた。

何かが、文字通り八つ裂きにされているのだ。


ゆっくり影が振り返る。


ねじ曲がった角が二本、額から生えていた。

巨大な口の端が、自分を見て少し笑ったように見えた。

息をのむ。そうしないと悲鳴でも上げそうだ。

だが、逃げたところで無駄だろう。


武器はないわけではなかった。

唐突にカウントがゼロになった世界のどこかにあるという、終末時計。


その「世界の終わり」から数か月がたっていた。

生き残った人々には、武器の携行が許されところどころで応戦しようとしていた自衛隊の武器などを護身用に拾うものもいる。

自分もその一人だった。


ただ、距離が近すぎる。

逃げるための隙を作るくらいしかできないと思っていたが……

多分、終わりだな。興味ありそうだし。


ゆっくりと身体ごとこちらを向く「アクマ」に冷静とも恐れとも違う感覚をもって、その視線を受けた。

そして気づいた。

陰から振り返ったその腕に握られる細いマネキンのような白い腕。

液体はしたたっているが、緑色だ。


……人間のものではない。


『小僧、逃げないのか?』


ずん、と重い音を立てて悪魔ががれきの上から降りた。


「逃げたってあんたが追いかけてきたら瞬殺なんだろ?」


じりっと嫌なものが背筋を伝う。

冷静を装ったところで、身体的な反応はどうしようもないだろう。

足は少し震えそうだが、すくむほどではないしこれは全力で逃げろということなのだろうが、理性の方が勝ってしまった。


『興味がなければ、追わぬかもしれぬぞ』


それは考えていなかった。

どちらかというと遭ったら殺されるような話しか聞いていないので、なるほどと思う新鮮な発想である。

だが。


「いや、あるだろ。そういう目で見てる」

『…………』


ひょい、とソレは持っていた腕を投げた。

本人的には軽々とした動作だが


「うおぉっ!」


人間にしてみるとブンッ!という擬音がついていてもおかしくない勢い。

そしてグロテスクなそれは足元に転がってきた。

思わず避ける。


『それを食ったら見逃してやろう』

「いやいやいや、普通に無理だろ? どういう処遇なの! 普通にそれアクマ基準!?」

『……』


まずい、つい本音が出てしまった。

表情のない顔で黙りこくられると改めて怖い。

しかしソレは爬虫類にも似た口角を上げて、にやりと笑った。

そして、もう逃げることもできないだろう距離までやってきた。


『我らを悪魔と言うか。ではその腕は何かわかるな?』

多分、天使だろう。

天使の襲来と同時期に闊歩するようになった悪魔たちは、どうやら天使とは仲が悪いらしく天使を殺している姿がよく目撃されていた。

それがわかったのかアクマはしゃがみこむようにして見下ろしてきた。


『教えてやろう。真実を』

「……」


見上げる。

真実? そんなものを伝えて何になる?


『この国では冥途の土産というのだろう?』


あぁ、どちらにしても殺す気なのか。

途端に潮が引くように感情が消えていくのが分かった。

血の気が引く、というのはもうこんな世界ではみんな通り過ぎてしまったものだ。

だから、これは諦めという名の境地なのかもしれない。


『それともお前から聞きたいことでもあるか?』

「結局、俺を殺すのか?」


くっくっとくぐもった笑いが聞こえる。

アクマというのはこんなに気の長いものなのだろうか。もっと凶悪で狂暴なイメージがあったが。


『そうだな、殺して、この国を変えてやろう』



その日、自分だけが、おそらくは。

人類で唯一、その真実を知った。

瓦解しかけたこの国が、さらなる神魔の常代となることを。

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