第66話 夢の残り香
「・・・・・・はっ!」
ユリキュースの吐息が唇にかかる。その時になってようやく目が覚めた。飛び起きた瞬間、秋守の顔が浮かんだ。
「先輩・・・・・・」
そばで寝ているはずの秋守がいない。ただそれだけで不安がよぎった。亜結の目が自然に彼を探しはじめる。
「秋守先輩ッ」
「起きた? ・・・・・・どうかした?」
秋守と目があってすぐに首を横に振った。彼を見つめて、ただ黙ったまま。
台所から穏やかな笑顔を向ける秋守に安心した。でも、亜結は目を伏せた。
「あ・・・・・・ごめんなさい。私また寝坊しちゃって」
目を合わさないまま言い訳をする。亜結の手が触れた耳も頬も熱くはなかった。
(大丈夫。だいじょうぶ、落ち着け)
ひとつ息を吐く。亜結の様子を気にして秋守が見ていた。
「ごめんなさい」
「いいよ、お寝坊さん」
「何を作ってるの?」
亜結はすぐに秋守の横に並んで彼の手元に目を向けた。彼に顔を見せなくてすむように。
「ん? 適当に炒め物作ろうかなって」
顔を向けない亜結の様子を彼がうかがっているのがわかる。笑顔を向けた亜結はすぐに彼の手元へ目を戻した。ずっと秋守に顔を向けていられない。
「大・・・丈夫?」
変な寝言を口にしなかったかが気になった。
「ん? 大丈夫って何が?」
ちらりと様子を探った亜結へ秋守が探り返すような目線を向ける。秋守のほうが亜結より料理が上手い。この質問は妙だ。
「あぁ・・・・・・あの」
亜結は困って目を逃がした。
「昨日は遅くまで遊んだし。2日続けてお泊まりだと、自分の家みたいにはくつろげないかなぁ、なんて」
苦笑いをする亜結の口が早くなる。
「大丈夫。昨夜はおとなしく眠ったから」
秋守が意味深な目を向けていたずらっぽく笑った。
「これからしてもいいよ」
秋守が顔を寄せ声をひそめる。
「ん?」
「しよっか? 土曜だし、予定ないし」
そう言って、おいでと言うように両手を広げてみせる。彼のおどけたいたずらっぽい表情に心がなごんだ。でも・・・・・・。
「あ・・・・・・え? えっと」
亜結は秋守から後ずさった。夢の中で握られた手首をそっと隠す。さっきまで見ていた夢の気配が残っていていた。ユリキュースの甘い香りが移っていそうな気がして遠ざかる。
「嫌? んーーー。さては夢の中で浮気したな?」
眉間を寄せて怒った顔をつくった秋守が睨んで見せる。
(浮気!?)
「ちっ! 違うッ、違うよ。全然そんなんじゃないから」
「焦るとかえって怪しい」
慌てて言い訳をする亜結の鼻を笑いながら秋守がつつく。
「うっ、玉ねぎ臭ッ」
鼻を押さえて顔をしかめた亜結を秋守は笑って見ていた。
「小早川が話したって? 高校の時のこと」
野菜を切る作業を再開した秋守がさりげない声で質問をした。唐突な変化球に亜結は目を丸くする。
(小早川先輩と話したことをなんで知ってるんだろう)
トイレで聞いた虐めの話。彼女から聞いたことを亜結は秋守に言っていなかった。
「小早川先輩から?」
そっと尋ねると秋守は軽くうなずいた。
「小早川に謝られたよ」
「謝られたって・・・・・・どうして?」
話のつながりが見えなかった。小早川の話を聞くかぎりでは彼女は虐めた側ではなかった。
「ラインで虐めの話をふったら盛り上がって楽しかったってさ」
亜結は黙ったまま秋守の横顔を見つめていた。
「翌日、気づいたときにはリアルで始まってたって。彼女は何も言えずに見てたってさ」
小早川の十字架はこれだったのかと、亜結は彼女の顔を思い出していた。
「自分が発端だったって」
亜結に一瞬目を向けて料理を続ける。
「中学から仲良くしててさ、虐めの相談もしてたのに・・・・・・。笑えるよな」
そう言って笑った秋守の顔は少し悲しそうな笑顔だった。
火に掛けたフライパンに野菜を放り込み、じゅっと音を立てた野菜がフライパンの上で転がった。
「大学に入ってからも元カノの近況とか教えてくれてさ、元気にしてるって聞いて安心して。感謝してたんだけどなぁ」
そう言って彼はまた笑った。
相談をするほど信用していた友達。心配事を取り除いてくれていると思っていた一番身近な人が発端を作っていた。
「それで・・・・・・どうしたんですか?」
亜結の質問に秋守は目を向けなかった。
「それでって?」
「喧嘩とか」
昨夜の秋守と小早川の様子を思い返す。変な様子は感じなかった。
「責めたり・・・・・・した、の?」
秋守は黙って首を振る。
「責める資格は・・・・・・僕にはないよ」
「先輩」
フライパンの中の野菜が混ざりあって炒められていく。
「僕も虐めのきっかけを作った側だから」
フライパンに目を落としたままの秋守を亜結は見ていた。彼の手の内で味付けられた野菜がやわらかくなっていった。亜結が秋守の服に手をかけると、彼はようやく亜結の目を見た。
「なんだかほっとした。・・・・・・変だけど」
そう言った秋守の表情は思いの外やわらかく、亜結は次の言葉を待って見つめていた。
「皆が首謀者をかばってるみたいで、誰が指示してるのかわからなくて皆が疑わしくて・・・・・・。ずっと霧の中を歩いてるみたいだった」
前に虐めの犯人捜しをしたと秋守から聞いていて、小早川もそう言っていた。
「首謀者はいなかった。誰もかばったりしてなかった。フラグを見つけて群衆が群がっただけだった」
秋守が小さく笑う。
「どんなに探しても虐めの中心人物が誰だったかわからないのは当たり前だよ」
困ったような顔で秋守はまた笑った。
いない人を探してみんなを疑って孤立した日々。完成しなかったパズルのことを忘れたつもりでいて、欠けたピースの事が頭の隅に残っている。
「霧は晴れないけどモヤモヤは少し解消された」
秋守の声はさっぱりしていた。
探していたピースを見つけた。はめ込む先はもうないけれど、ここにあったのかと気持ちが落ち着く、そんな感じだろうか。
「朝からちょっとヘビーだったかな」
「ううん」
「小早川も肩の荷が下りた顔していたよ」
「・・・・・・そっか」
秋守は小早川もと言った。そんな彼へ亜結は黙って笑顔を送った。
「はい、あーん」
「ん?」
「味見」
言われるままに開けた口に野菜が投入される。
「おいひい」
「よかった」
おかずを皿によそう秋守が言った。
「僕は亜結を信用してるよ」
(信用・・・・・・してる?)
また唐突な言葉だ。
「もう誰かを疑うのは嫌だから」
信用しているということは疑っていないということ。秋守がわざわざ疑ってないと匂わせている。
「信用してるって? やっぱり寝言で変なことを?」
「やっぱり? ふーん、心当たりあるんだ」
罠にはめられたような気がしてぎくりとする。秋守は聞き流しながら皿をテーブルに置いた。
「夢の中で誰と会ってたんだろうねぇ」
秋守の顔がついと亜結を向いた。
「えっと、どんな夢だったかなぁ」
「夢の中に誰かいたみたいだよ」
秋守が目をそらす。やはりユリキュースの名前を口にしてたんだろうかと亜結の目が泳いだ。
「眉間を寄せて困ってるような苦しそうな顔してたから、亜結を起こそうかと思って腕を握ったんだけど」
「腕を握った!?」
妙にリアルだったはずだ。
「その時・・・・・・」
「そ、その時?」
食い入るように次の言葉を待つ亜結の目を秋守の目がとらえる。
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