第32話 異界へ続く道筋
「王子はまだ散策から戻らないんですか?」
シュナウトへデボラの冷たい声がかかったのは、王子がこの世界に戻る少し前のこと。
「すみません、考え事があるようで」
わずかに頭を下げてシュナウトが謝りをいれる。
「一日中部屋にいて何をそんなに考える事があるのかしら」
デボラはまだ機嫌悪そうにしているが、腰に当てていた手を体の前で重ね合わせた。
「すみません。お戻りになられたら声をかけます」
シュナウトはもう一度軽く頭を下げて見せる。彼のその仕草にデボラの眉がふわりと上がって嬉しそうな目になった。
王族に直接つかえる魔法使いが格下の者に頭を下げることなど滅多にない。赤髪の種族なら有り得ないことだ。
デボラが青の王子の下から配置転換を希望しないのは、こんな旨味を感じての事なのかも知れなかった。
「あなた方は食べれば終わりでしょうけど、こちらは後片付けがあるんです。こちらの時間を奪わないでほしいですね。ーーーまったく」
言いたいことを話し終えるとすっきりした顔でデボラは立ち去っていった。
彼女の姿が見えなくなってシュナウトは溜め息をつく。
(・・・・・・王子。いつ戻って来られるのですか?)
茜色の空ももう西に明るさをわずかに
(・・・・・・雨?)
雨など降っていないのに雨音がする。
さらさらと聞こえる音に目を向けたシュナウトは驚きを隠せなかった。
(王子!?)
消える前にユリキュースが座っていた椅子の上に光の粒が生まれて何かを形作っていく。
それはすぐに王子の姿になり光を失って人となった。
「ユリキュース王子!」
驚きながらも声を押さえて呼び掛ける。
ふだん触れることのない王子の肩にシュナウトは思わず手をかけていた。
(本当に、ユリキュース王子だ)
見たことのない魔法と微かに残る魔法の気配。それはシュナウトの知らない者の物だとわかった。
(いったい誰の? 標ではない・・・標は女で、これは男の気配だ。結界に触れずに行き来できるとはどんな魔法を使えば?)
敵なのか味方なのか、その人物が城の中にいるのか異世界にいるのかすら分からない。
(標にも魔法使いがついている? それは考えられる)
「シュナウト・・・・・・」
名を呼ばれて心が現実に帰る。
王子の目は潤み彼の頬には涙のあとがあった。
「なにが・・・あったのですか? あちらの世界に行っていたんですよね? 標となにかありましたか?」
声を落としつつ矢継ぎ早に質問しながらシュナウトは辺りに目を配る。
(誰にも見られていないようだ)
だがしかし、日が落ちかけて影が色濃くなった植え込みの中に隠れ潜む者がいた。赤髪の男がついと植え込みの向こうへ体を逃がす。
王子の身を案じるシュナウトはその事に気づけなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
亜結が手にしている包丁はトントンと軽快な音をたててはいなかった。
トントン ダンッ
トン スカッ トントン
それを目を細めて見ていた秋守がくすりと笑う。
「もぉ、笑わないでください」
恥ずかしくて口を膨らませる亜結に、秋守がとうとう声をあげて笑いだした。
「ごめん、ごめん。新妻の料理姿を見てるみたいだからつい」
ひとつのワードがくすぐったくて亜結は怒るよりデレてしまう。
(新妻って・・・わるくないかも)
にやける顔を必死で普通な顔に作ってみせる。頭のすみにユリキュースが居た。
押入れからは見えないとは思うけれど、でれでれしている姿を見られるのも気配が届くのも恥ずかしい。
「貸して、僕がやるよ」
「え? でも・・・」
「毎日じゃなくても亜結よりは数をこなしてると思う」
にっこり微笑む秋守の申し出に、亜結は城を明け渡した。
(ううっ、確かに私より上手い)
包丁を使い慣れているのは一目でわかった。母親ほどのスピードではなかったけれど、亜結よりスムーズに野菜をカットしていく。
「ふーん、良い旦那様になりそう」
少し悔しくてすねた声で言う亜結に秋守が笑った。
「人生なにがあるか分からないからね。奥さんが病気になったり離婚したり、単身赴任になることだってあるかもしれない」
気負いもなく秋守はそう言った。それは、道で猫の親子を見かけたと話すように、穏やかでやわらかい表情だった。
(こんな時の秋守先輩の横顔・・・好き)
ゆるんだ亜結の顔を見て秋守が「どう?」と言う顔をした。
「うん、奥さまも助かります。病気じゃないときにも作ってくれたりするのかな?」
「もちろん、ふたりでやった方が早いからね。・・・・・・毎日じゃないけど」
間を置いて「毎日じゃない」と言った秋守が、眉間を寄せて気難しそうな顔を作って見せる。
「もちろん、毎日手伝わせたりしませんよぉ」
「それって・・・・・・」
首を傾げて秋守が亜結の顔を見つめた。
「結婚前提のお付き合いだって思ってていいってことかな?」
秋守が亜結の目を覗き込むように顔を近づける。キスされそうな距離感に亜結の赤い顔が色を増した。
「あっ、き・・・切るのは先輩に任せます。その間にちょっと片付けをしますね」
真っ赤な顔の亜結がぱっと秋守から逃げた。
「こら、逃げるな。片付ける物なんてないじゃないか」
「私なりの完璧があるんですよ」
「部屋の中見たんだから今更じゃない?」
「いいんです。今更でも片付けたいんですよ」
秋守は振り向いて抗議をしたものの笑って流した。
亜結は秋守が背を向けているのを確認してそっと
押入れの中にはぽっかりと空間があいていてユリキュースの姿はなかった。ほっとする一方でなんだか淋しい気もする。
(ペンダントの力がゼロになったんだ)
そう考えるそばでふと思う。
(鞄と一緒に小箱を片付けたときに蓋を閉じた気がする)
ユリキュースがいつまでここに居たのか、秋守にキスされる前か後ろだったのかが気になった。
(誰とでもキスする女だなんて思われちゃったかなぁ・・・)
そんな女ではないと言いたい。
秋守とは付き合っているのだと伝えたかった。
(別に・・・ユリキュースとは些細な縁だし、どう思われたっていいけど・・・・・・)
石を飲み込んだみたいに心が重くなる。
(変なの)
(しまった・・・! ルガイ達の悪巧みを知らせる絶好のチャンスだったのに、私ったら何してるの!?)
悔しさに足でドンとひとつ床を蹴った。
「亜結?」
秋守に突然呼ばれて亜結はぎくりと彼を見た。
「今頃になって僕の腕前をくやしがってるの?」
的はずれだ。
でも、きょとんとした顔の秋守が可愛くて吹き出した。
(あぁ、先輩と同じようにいつでも会えて何でも話せたら楽なのに・・・)
ユリキュースも思っていた。
(もっと自由に標に会えたなら、あんな事もその出会いの中のひとつに過ぎないと思えるだろうに・・・・・・)
「遠い場所へと続く魔力の道筋を見た」
「どの国ですか?」
「国などではない。空間に潜り込んで先の見えない空間の向こうだ」
ふたつの赤い影が暗い廊下の片隅で話をしていた。
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