第15話 300分の授業後、生徒会室にて

 氷雨先輩を300円で拾ってから、3日が経った。


 結局昨日のことはなかったことにされ、どこかぎこちなさを感じながらも、つつがなく日常は回っていた。

 それをお互いに望んでいたから、というのが主な理由ではあるのだが。


 早いような遅いような、不思議な感覚に見舞われながら俺は氷雨先輩がいるはずの生徒会室へ向かう。


「和馬くん、来たのね」


 扉を開けると、やはり黒いブレザーと赤いリボンをきっちり身に着けた氷雨先輩が黒い椅子に座って書類と睨めっこしていたが、俺が来るとぱっと顔を上げて明るい声とともに迎える。


「氷雨先輩、お弁当ありがとうございました。ものすごく美味しかったです」

「そ、そう? 練習した甲斐があったわ」


 俺の素直な感想にはにかむ氷雨先輩。

 そう、いつも学食かコンビニで済ませていた俺の昼食が今日から氷雨先輩の弁当に変わったのだ。


 何たる幸せ。もう一生分の幸せを味わったかのようだ。

 そんな俺の心象を察したのか、氷雨先輩はにこりと笑って手招き、囁いた。


「嬉しいことを言ってくれる和馬くんにはご褒美をあげなくちゃいけないわね」


 甘美な言葉を紡ぐ先輩の声は少し揺れていて、なめらかとは言えないものだったが確かな覚悟が感じられた。


 昨日のケリをつけるということなのだろうか。


 俺も覚悟を固め、氷雨先輩の次の言葉を待った。

 艶やかに口を開いた彼女の紡ぎ出したものは――。


「キス、してあげるわ」

「えっ!?」


 あまりにも予想からかけ離れていて、夢のようなものだった。

 氷雨先輩は俺の反応に満足げな笑みを浮かべ、物語を聞かせるように囁く。


「顔、ちょっと下に向けてくれるかしら」

「は、はい」


 少し足を折り、顔を下に向ける。これで氷雨先輩の唇と俺の唇がほとんど同じ高さになった。


 緊張からか、俺の肩に乗せた先輩の手が震えている。

 しかし、徐々に俺と氷雨先輩の顔は近づいてゆき。


 もうそろそろ当たると思われた――そのときだった。


「氷雨真雪はいるかァ!?」


 金色に髪を染め、耳に複数個ピアスを開けた、見るからに不良っぽい男子生徒が入ってきたのは。


「「(やっべぇ、どうしよう)」」


 当然俺たちの思考は被る。俺の場合はまだ何とかなるかもしれないが、氷雨先輩は『氷姫』で『生徒会長』なのだ。生徒会室で何してんだ、と糾弾されてもおかしくはない。


 むしろ、目の前の不良生徒ならば喜んで拡散しそうだ。


 フリーズする先輩の代わりに俺が何とかしなければ。

 そう思い至り、俺は咄嗟に声をあげた。


「会長! 急に倒れてどうしたのですか!? 過労ですかっ!?」

「ご、ごめんなさい、一谷くん。ちょっとした寝不足よ」


 氷雨先輩の意識が戻る。それと同時に俺の方針を理解してくれたらしく、上手く乗ってくれた。


 そのまま彼女は流れるような動作で立派な黒い椅子へ腰かけたので、俺もその近くにある椅子に腰かける。


「ああ、あなたなのね、雅多みやたくん。会長として見苦しいところを見せてしまったところ申し訳ないけれど可及的速やかに帰ってくれるかしら」

「あなたなのね、じゃねぇよ! さっさと俺の持ち物返してサッカー部の部費上げやがれッ!」


 氷雨先輩が敬語を使っていないということは、雅多とやらは高等部2年か1年というのが濃厚だろうか。ネクタイの色が赤色だ。中等部は緑色になっているからその見分けは容易である。


 だが、氷雨先輩だって年下または同い年だからといって誰に対しても敬語を使っていないわけではない。

 彼女は最低限尊敬できる人に敬語を使うのだ。もちろん、距離が近い人はまた別になるが。


 まったくもって尊敬できない人には年上だろうと敬語を外すこともある。

 よって、3年の可能性もあるのだが。


「あなた、今年に入ってから――つまり、この2ヵ月足らずの期間で5回も持ち込み禁止のものを持ってきていたわね。なのに返すとでもお思い?」

「俺のものは俺のものだろ! いいから返しやがれ!」

「18歳未満の人間が読んではいけないはずの本を持ってきたのよ? 返すわけないじゃない。それにもう――燃やしたわ」

「何やってんだ!」


 ダン、と執務机を叩く雅多。

 気持ちは分かるが、これは氷雨先輩が勝手にしたことではない。


 ゴミを見る目で雅多を一瞥すると、彼女は生徒手帳の見本を差し出し、ある一部分を指さす。


「ここ、第二条第三項に『持ち込み禁止物の取り扱いについて』と書かれているのよ。日本語すらまともに読めなさそうなあなたの代わりに読んであげると、ここには『反省の兆しがない場合、教員の同意を得たときに限り没収物を廃棄しても構わない』とあるわ。すでに合意は得ているから、私のやったことは何の問題もないことよ」

「んだと……?」


 さすがにスマホなどは通らないことが多いが、エロ本は前例もあることから通りやすい。

 5回で会議まで持っていくことは少ないからか、雅多は納得する様子もなく、怒りと動揺の空気を纏っていた。


 それは先輩の見抜いたのだろう。

 彼女はふっ、と嗤い。


「ああ、もしかして内容が分からなかった? ごめんなさい、あなたの貧相な語彙力を考慮していなかった私が悪かったわ。分かりやすく説明すると――」

「そんなもん聞いてねぇんだよ!」

「まぁそうよね。ほとんどの教職員があなたの性癖を知っているとわかったら、そりゃあ怒りたくもなるでしょう」


 本当なら1人だけの合意で済むことだからか、さらに目を丸くさせた。

 これまでは氷雨先輩も手間がかかることもあり、1人、多くて3人ほどで審議を済ませていたのだが。


 常習犯なのだろう。だから時間がかかってでもいろいろな人に審議をお願いして、了承してもらって。


 あまり服装検査、持ち物検査に関わっていなかったから俺は知らなかったが、これからは風紀委員と氷雨先輩にほとんど任せることはやめよう、と思ったそのとき。


「このっ――このクソアマッ!」


 ドン、と勢いよく執務机が蹴られる。

 傷ついていないか心配になったが、氷雨先輩は至極冷静な様子で発した。


「あなた、人にものを頼む態度を知らないの? とはいえ、もう没収したものはすべて焼却処分したから当たり散らすほうがいいのかもしれないけどね」


 でも、と氷雨先輩は続けた。


「私のなかで、あなたはサル未満の存在になり下がったけれどね」

「あぁ!?」

「それと、サッカー部の予算はあれが適正よ。うちの会計を舐めないでほしいわ」


 氷の刃。

 そんな表現が似合う眼光を、生徒会の執務机の価値を傷つかせた不良生徒に向けた。


「……ソが」

「何かしら」

「クソがッ! いいか、お前は後々俺にいい顔しなかったことを後悔するぞ」

「ご自由にどうぞ」


 最後に氷雨先輩を睨んで部屋を出て行く。

 しかし、氷雨先輩の睨みほどの凄みはなく、ただの敗者でしかなかった。


「す、すみません、俺、あんまり持ち物検査とかに参加していなくて」

「本来は風紀委員だけでやることだから心配しなくていいわよ。ただ」


 穏やかにはにかむ氷雨先輩から、温度が消えた。


「私、あいつらのこと信用していないの」


 春の陽気を乗せた暖かい風が窓から吹き込んでいるというのに、なぜかこの部屋が氷に包まれているような気がした。

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