第14話 300ミリリットルの甘いソーダ

「こちら『らぶらぶ♡ピーチソーダ』です」

「ありがとうございますっ」


 無表情でアレな商品名を口に出す店員さんに尊敬の念を覚えながら、軽く頭を下げる。

 満面の笑みで淡いピンク色のソーダを差し出すこよみを睨みながらも、受け取った。飲まなかったら帰してくれなそうだし。氷雨先輩のバイト決まらないだろうし。


 誰が聞くわけでもない言い訳を並べていると、氷雨先輩が口を開く。


「見たところ、2人で飲むとして1人あたり300ミリリットルってことかしら。これで1000円は高いわね」

「もう、ゆきちゃん先輩、そんなこと言ったらだめですよ! カップルがイチャイチャするために頼むんですからっ!」


 あんまり怒ってなさそうに、いたずらっぽい笑みを浮かべながらそこまで言い、もっとも、と付け足す。


「それが分かっているから、恥ずかしいんですよね?」

「……っ。何のことか分からないわ」


 図星だったらしく、先輩はあさっての方向を向いてしまった。

 控えめに言って抱きしめたいな、なんて思いつつ俺は言う。


「氷雨先輩、とりあえず飲みましょう。バイト先確保したいですし……その、俺も先輩と飲みたいですし」

「そ、それなら仕方ないわね。飲みましょう」


 その途端、ほんの一瞬だけだがこよみの顔が痛々しいものへと変わる。

 だが、次見たときにはにこっと笑顔を浮かべていて。


 それが気になったものの、俺の見間違いという線もありうる。深く突っ込むのは得策ではないだろう。


「あ、一応言っておきますが同時に飲まなきゃいけませんからね。ストローの口はふたつありますし」


 人差し指を立てて、めっ、とするこよみには痛々しいという表現はまったく似合わない。

 やはり見間違いか、と思い俺は口を開いた。


「では氷雨先輩、飲みましょう」

「そう……ね」


 俺はどこか不自然な動きでグラスを互いの胸のあたりまで持ってくる。

 これをするために俺と氷雨先輩を隣に座らせ、こよみだけ対面側に座ったのだろうか。


 さすがに考えすぎか。


「く、口付けるわよ」

「了解、です」


 互いの口調が初対面以上にぎこちなくなる。

 だが、その口調とは真逆に俺たちの顔の距離は近くなってゆき、氷雨先輩の黒髪が俺の顔に触れるまでになった。


 花のような甘い香りが鼻孔をつつき、グラスに注がれた桃色の液体がちょっとずつ減ってゆく。

 しかし確かに2人で飲んでいて。


 氷雨先輩の白い肌が、液体がストローを通る様子がとてもよく見える。

 それは氷雨先輩も同じで、俺たちの目が合った。


 瞬間、俺たちは同時にストローから口を離す。

 まだ、先輩の甘い香りが離れないでいた。


「ひ、氷雨先輩っていい匂いしますね」


 先輩の残り香と何か言わなくてはという空気感から、俺はセクハラまがいのことを口にしてしまう。


 慌てて別の、もっとソフトな言いかたにしようと口を開きかけたとき、先輩の声が耳に届いた。


「……嬉しいわ。和馬くんに『いいな』って思ってもらえるようにずっと、お手入れ頑張ってきたから」

「本当ですか?」


 氷雨先輩が紡ぎ出した、喜びのあまり眠れなくなる言葉が本当か信じられなくて問いかけてみる。


 返ってきたのは――ゆっくりとした、頷きだった。


 自分でも妙に口角が上がり、心が嬉しさに震えていることが分かる。

 気づかないうちに氷雨先輩を抱きしめようとしたそのとき、明るくも意地悪な色を含んだ声が飛んできた。


「ゆきちゃん先輩かっわいー!」

「あなたこの場に存在していたのね」

「せめて存在は認めてっ?」


 声の主はこよみだった。

 氷雨先輩に無慈悲極まりない言葉を掛けられて『ガーン』とショックを受ける表情を浮かべている。『ガーン』の部分は実際に言っていた。


「いつか殺すわ……」

「氷雨先輩、せめて法律は守ってください」

「法律を侵すことじゃなくて復讐を止めてくれないかなぁ?」


 本当にやりかねない声音だったので、先輩が犯罪者になってほしくない一心で言う。

 こよみに関してはとりあえず氷雨先輩がキレそうなことはしないでほしい。誰にでも攻撃的なわけではないから。


 だが、今回はナイスだこよみ。危うく氷雨先輩を抱きしめてしまうところだった。


 それが不満なわけではないが、踏み込んだらもうもとには戻れない気がして。

 今更何を言っているんだ、という話ではあるが。


 そんなことを考えていると、氷雨先輩がぽつりと呟いた。


「和馬くんに、抱きしめてもらいたかったなぁ」


 店のBGMにかき消されてしまいそうな声。

 なのに、俺の心にはグサリと突き刺さった。


 これは、氷雨先輩から逃げてしまったことになるのだろうか。


 そんな疑問が頭から離れてくれなかった。


「はいはい、もうさっさと飲んでくださいよバカップルさんたち」

「「やっぱりいつか復讐する」」

「かずくんまでっ? まぁでも死ぬよりかはマシですかね!」


 ぱぁっと笑顔を浮かべるこよみとは異なり、俺と氷雨先輩の顔はドリンクを飲むために互いに向き合っていて。


 お互いに、顔が林檎のごとく赤くなっていた。



   ◇◆◇



「和馬くんとふたりっきりでショッピングできると思ったらひどい目に遭ったわ……」

「いやほんと、氷雨先輩はよく頑張ったと思いますよ」


 その後『ちゅーしてくださいっ!』と言われたので(先輩が)ありったけの力を使いこよみに腹パンを食らわして帰ってきた直後の一言だ。あのときは氷姫を通り越してヤンキーだった。


 ドリンクはすべて飲み、料金もすべて払ったのでセーフだろう。無理やりではあったがバイトの許可ももらえたし。


「次会ったときなんて言われるか心配だわ」

「いつも通りだと思いますがねぇ……」


 いつもウザいので大して変わらない気がしたので言う。

 すると先輩の憂鬱そうな顔がほんの少し明るさを取り戻した。


「そ、そうよね。……ところで和馬くん」

「何ですか?」


 氷雨先輩は俺に向き合い、祈祷するかのように手を組んだ。


「一度だけでいいの。だから、私のこと『真雪ちゃん』って呼んでくれないかしら?」


 上目遣いに俺を窺う目には、不純なものが何ひとつなくて。

 その魅力にうんともすんとも言えないでいると、勘違いしたのか先輩がわたわたと手を振り出した。


「え、えっとね、ほら、柔路さんは私のことを『ゆきちゃん先輩』って呼ぶことになったじゃない? だから、ちょっとくらい和馬くんも下の名前で呼んでくれてもって思ったの。わっ、ワガママ、かしら?」


 つらつらと並べ立てられる言い訳のような言葉に、思わず吹き出してしまう。

 俺は無意識のうちに氷雨先輩の頭に手を置いて、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「ワガママではありません。むしろ、ちょっとくらい甘えたって罰は当たらないと思うよ――真雪ちゃん」

「んぁ……っ!」


 氷雨先輩の白い耳が赤くなったとき、俺はやっと彼女の頭に手を置いていたことに気づく。


 咄嗟に手を離すが、時既に遅し。

 氷雨先輩が俺の胸にダイブしてきた。


「ひ、氷雨先輩っ?」

「呼びかた」

「真雪ちゃん」


 一度だけって言ったのに、の言葉はぐっと堪える。

 先輩の頭の熱が胸に伝わり、何だか俺の頭まで熱くなってきそうだ。


「かずまくんのばかぁ……」

「バカですみません」


 俺の腰に氷雨先輩の手が回った。

 心臓の鼓動が大きくなっていることを感じながら、あてもないので再び彼女の小さな頭に手を乗せる。


 俺の手を乗せたら、もっと氷雨先輩の頭が小さくなったような気がした。


「……かずまくん、好き」

「……俺も好きです、真雪ちゃん」


 小さく呟いた先輩に、俺も同じように返す。

 火のごとく熱くなる彼女の頭を、俺はいつまでも優しく撫で続けていた。

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