第9話 300日続く朝、初日
「ひさめ、せんぱい……?」
氷雨先輩が幼子を見守るかのような慈愛の籠った目で、俺の顔を見つめていたので彼女の名前を呼んだ。
もしかしたら、すべて夢なのではないかと思い。
「あら、起きたのね」
夢ではなかった。
彼女の声が雪のように俺の心に降り注ぎ、溶けてゆく感覚が走る。
300円で300泊すると言い、一緒に風呂へ入ったのは嘘ではなかったのだ。
昨日の記憶が鮮明に蘇るとともに、俺は飛び起きる。
「す、すみません先輩。やっぱり俺、起きるの遅かったですか?」
「今は9時くらいだから、休日にしては遅くはないわよ」
「よかった……」
大寝坊するかと思ったから、まだ9時だと聞いて安心する。
もっともいつもは8時や7時に起きているから寝坊といえば寝坊なのだが。
実際、あのままだったら大寝坊していたことだろう。
いやぁ、よかった。先輩が俺にキスする夢を見て。
あまりにも現実離れした内容だったもので、目が覚めた。
さすがに11時、12時になってしまうと「こいつ休日ダメダメかよ……」と思われてしまうかもしれないからな。
もともと、俺は先輩に比べて仕事ができるとは言い難い。
そのうえで悪いイメージを持たれてしまっては一巻の終わりである。
とはいえ、そんな夢を見てしまったこともあり先輩の顔を見ると変な気持ちになってしまうのだが。
「わ、私に何かあるかしら?」
チラチラと先輩のことを見たり逸らしたりしたせいで、先輩にそう聞かれてしまった。
内心ドキッとしながら、俺は怪しまれないように言葉を紡ぐ。
「い、いえ。なんでもありません。……そのー、休日の朝に見る先輩はかわいいなぁ、と」
「そ、そうかしらっ?」
嘘をつくときは本当のことを混ぜるといいと聞いたことがあるので、後半に本当のことを付け足す。
さすがにこれは不快だと思われてしまうだろうか、と懸念もよぎったが、次の瞬間に放たれた言葉でそれは吹っ飛んだ。
予想よりはるかに嬉しそうな表情を浮かべる氷雨先輩に「ええ、ものすごく」と返す。
「じ、じゃあ私、精いっぱい朝ごはん作ってくるわ! 和馬くんのために、最高のごはんを!」
「え、いいのですか?」
「任せなさいっ!」
咄嗟に出た俺の問いに、氷雨先輩は快活な笑みで答える。
氷雨先輩は五科目の成績だけでなく、実技科目でも高い評価を得ているらしい。
つまり、家庭科もトップクラスなのである。
そんな氷雨先輩の料理が食べられるなんて、と期待感が膨らむなか俺はあることに気が付いた。
「食材、そんなになくね……?」
単純かつ致命的な言葉が、一人きりの部屋に浸透する。
もう遅いかもしれないがこれだけは言いに行かなくてはならない、と部屋を飛び出しキッチンへ。
昨日話したリビングからキッチンが見えるはずなのでまっすぐ向かってくれているはずなのだが。
その予想通り、氷雨先輩は長く、よく手入れされていることが分かる艶々した黒髪を上のほうでひとつに束ね、朝食の準備に取り掛かろうとしていた。
「ひ、氷雨先輩。今更かもしれませんが、俺、あまり自炊を積極的にするタイプではなくてですね。食材が――」
「安心なさい。これだけの食材があれば朝食程度なら大丈夫よ」
急いできた俺をなだめるように、にっこりと笑顔を向ける氷雨先輩にいつも以上の尊敬を覚える。
まな板の上を見てみると、玉ねぎの残骸や人参、ちょっとしなっているほうれん草などが置いてある。
食べられるのか審議が必要なものまであったが、氷雨先輩ならばうまくやってくれることだろう。
安心した旨と感謝の言葉を伝え、俺は洗面所へと向かった。
◇◆◇
「美味しそう……」
「そうでしょう、そうでしょう! なんてったって、私が腕によりをかけて作ったのだからっ!」
ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす先輩。
しかし、その気持ちも充分に理解できた。
あんなゴミみたいな食材からこんなにも美味しそうな料理ができるなんて。
机の上に並べられた、ご飯、味噌汁、玉子焼き、肉野菜炒めを見て感動しながら先輩に感謝の念を伝える。
朝ごはんは自分で作ることも多いのだが、ここまで美味しそうなものを作った覚えはない。
それに最近自炊することが少なくなっていたので、感動の度合いが大きくなっていることが分かる。
光り輝いているかのような米粒を凝視し、「これ本当にウチにあった米なのか?」という疑問を米自身に問いかけていると。
「ふふっ。喜んでくれたようで何よりだわ。ささ、冷めないうちに食べて?」
「はいっ。いただきます!」
先輩が苦笑しながら食べるよう勧める。
俺はそれに従い箸を取り、白い光を放つ米を一口運ぶ。
すると、口の中にほのかな甘みと炊き立ての米特有の温かい印象を与える香りが鼻を抜けた。
まるで高級な米のような味と香りに目を見開き、玉子焼きをほおばる。
その瞬間、店のような味が体中を包み込むかのような感覚に襲われた。
上質なダシの味と香りが見事に俺の食欲を満たし、また増進させてゆく。
氷雨先輩は、プロなのか?
思わずそういったことを聞いてしまいたくなるほどのクオリティを誇る味であった。
次に味噌汁を口に含む。
柔らかな口当たりのダシと味噌の味が合わさり、これまた次から次へと啜りたくなるような味であった。
これが味噌汁の頂点なのか。
俺はそう確信した。おそらく料亭だろうがこれは無理であろう。
15年ちょっとしか生きていないが、これ以上の味に出会えない気がした。こんな料理が食べられるならば一生家にいてほしいくらいだ。
「ってそれ、結婚じゃねぇか!」
「わぷっ!?」
思わず叫んでしまうと、対面で味噌汁を啜っていた先輩が吹き出してしまった。
氷雨先輩にとっては何の脈絡もなかったからな。仕方ない。
「ご、ごめんなさい」
幸い飲み込んだあとだったようで大事には至らなかったようだ。これから気をつけなければ。
「いえ、俺のほうこそ訳が分からないことを言ってすみません」
謝罪の言葉を入れ、メインディッシュである肉野菜炒めへ箸を伸ばす。
醤油をメインの味付けとしたその料理は海外に行ってしまった家族のことを思い出して。
どこか温かい気持ちを抱きながら、俺は先輩にひとことだけ告げた。
「先輩。――とても、美味しいです」
「そう、安心したわ」
先輩は、春の陽気で氷が解けるときのような笑顔を浮かべ、言った。
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