第8話 √300分の苦悩

「すぴぃ……すやぁ……」


 照明をお互いの表情が確認できる程度まで暗くし、同じベッドまで誘導したのだが。


 やすらかな顔で眠る氷雨先輩に『かわいい』と思いながらも俺は内心で叫んでいた。


 寝るってそういう意味かよ!

「寝るってそういう意味かよ!」

「ふみゃぁっ!?」


 いけない、強く叫びすぎたせいで実際に口に出してしまったらしい。

 氷雨先輩は一時的に目覚めてしまったらしく、可愛く驚いてみせた。


「……すぴー」


 しかし、それも束の間。余程眠いのか、すぐ寝息を立ててしまう。


 そんな氷雨先輩の寝顔から癒しを享受しながらも、俺は未練たらたらに脳内で想いを綴ってゆく。


 分かっていたんだ。風紀にも厳しいはずの氷雨先輩が、同棲1日目にして『寝る』なんて。

 でも仕方ないではないか。300円の足りない部分を払うと言われたあとにそう言われたら。誰だって勘違いしてしまうだろう。


 ああもう、こんなことを思っていても仕方がない。起きるのが遅くて幻滅されるのも嫌だから早く寝るか。


 そう思い、氷雨先輩に背を向け、瞼を閉じて眠ろうとすると――ふみゅっ、という柔らかい感触が俺の背中を襲う。


 この魔力じみた感覚は、やはり。


 氷雨先輩の果実を思い出し悶絶していると、今度は背中から腹にかけて腕を回される。

 見ると、モコモコした生地が包む腕と、繊細な指先が見えた。


 間違いない、氷雨先輩の腕である。


 いや、これで氷雨先輩の腕じゃなかったら誰の腕だよ、ってなるけれど。完全にホラーと化すのだが!


 これ、氷雨先輩起きているのだろうか?

 ふと、そんな疑問を抱く。


 起きていて、「よーし、悶々としている和馬くんをからかってやりましょう!」みたいな感じで胸を押し付けたりしているとか。


 ありえそうな話だ。

 確認するために後ろを窺ってみる。


「すぴー……ふがっ! ……すやぁ」


 だらしなく口を開けているし、謎の『ふがっ!』という声も聞こえた。演技でここまではできないだろう。


 いったいどういう夢を見ているのだろうこの人は、などと思いながら再び目を逸らす。


 シャンプーなのかリンスなのかは分からないが、どことなくフローラルな香りが漂ってきてとても心臓に悪い。


 寝ろ、寝るんだ一谷和馬。

 寝るための暗示をかけて何とか寝ようとするものの、氷雨先輩はそうさせてくれなくて。


「む、ふぅ……」


 氷雨先輩は艶っぽい声を出しながら自らの豊乳を押し付け、さらに腕の力も強めてくる。

 月並みな表現をするならば、『抱かれている』という状態になるだろうか。


 寝ようと思っているのにもっと目が冴えてくるが、同時になぜか頭も冴えてくる。

 今ならば寝る方法も思いつくかもしれない。


 俺は先輩の感覚を存分に味わいながら思案を続け――気が付いたら寝ていた。

 時間にしたら約17分か18分ほどの、短い時間だった。



   ◇◆◇



「ふみゅ……ふぇっ!?」


 青色のカーテンから差す朝の日差しとともに私は目覚める。

 すると視界に映ったのはいつか和馬くんとのお泊りで着たいな、と思い買ったふわふわしたパジャマと。


「どうして私、和馬くんに抱き着いているの……?」


 細くも筋肉がついている、和馬くんの身体と、それに巻き付いている自分の腕。

 それと、彼の背中に押し付けられて柔らかく変形した自らの胸だった。


 なんてことをしてしまったのだろう。

 一瞬にして頭が焦りに支配されるが、ここまでの姿勢になるにはきっと何時間もかかるはずだ。


 何時間もかかっているなら、和馬くん知らないよね?


 という、なんとも自分勝手な結論に至る。でも、あながち間違っているとも思えない。


 ほっと胸を撫で下ろすと、次に浮かんできたのは「抱き着いてもバレなかったら何してもいいのでは?」などの邪な考えだった。


 和馬くんは幸い、余程眠いのかやすらかな寝息を立てて眠っている。

 太陽の光を受けて茶色の髪が輝いていて、どこか神秘性を感じさせた。


 可能ならばもう一度抱きしめたいところなのだが、それはバレてしまうかもしれないので控えておく。


 私がこれからやるのは。


「ごめんね、和馬くん」


 大胆かつ、小さな動きでできるもの。

 つまり――キスである。


 こんなことじゃないと、勇気も出せない私を嗤ってほしい。

 そのうえで愛してくれと願ったら幻滅されてしまうだろうか。


 罪悪感とドキドキ感、それに加え脳髄が蕩けてしまいそうな不思議な感覚を味わいながら、私は彼の柔らかい頬に唇を当てる。


「んっ……」


 その瞬間、和馬くんが吐息を漏らす。

 バレたわけではないと信じたい。けれど、幸福感のあまり動けない。


 たった一瞬のことにここまで心を動かされてしまうことになぜか快感を覚えつつ、無防備な彼の寝顔を見つめた。

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