第5話 300秒の奇跡
「お、おじゃましまーす」
ガラガラと扉を開け、風呂場のタイルを踏みしめる。
すると薄く立ち込めた湯気のなかから氷雨先輩の「あら」という明るい声が聞こえた。
「思ったより早かったじゃない。……さては、私の裸を一秒でも長く眺めていたかったのね?」
「そ、そんなことはないと思いますっ。先輩が早く来てって言ったんじゃないですか!」
内心でもかなり動揺していることが先輩にも伝わったらしく、彼女は妖艶に紡いだ。
「ふふっ。まぁ、今回はそういうことにしておいてあげるわ。……じゃあ、洗いましょうか」
そう言うと先輩は至極当然かのごとく俺の背後に回り、肩を押して腰掛に誘導する。
ドキドキしながら座り、シャワーの温度を確認し始めた背後にいる先輩をちらりと目で窺った。
ザザザ、という水の音が広めの浴室に響き渡る。
前方を見ると、湿気であまり明確ではないが俺と先輩の姿が見えた。
急に「ああ、俺は今先輩と風呂に入っているのか」と実感がわき始め、頬が熱くなってしまう。
「よし、これで完璧ねっ。和馬くん、熱かったり冷たかったりしたらちゃんと言うのよ?」
悶々としていると、先輩から達成感を滲ませた声色で声を掛けられる。
はい、と返事して固まっていると。
「うぉっ」
「あら、気持ちいい?」
予告されたものの、自分で掛けようと思っていないのにお湯が掛かったらびっくりしてしまい言葉にならない声が出た。
ニヤニヤとしていそうな先輩の声に、俺は素直に頷く。
さすが氷雨先輩だ。お湯加減まで完璧である。
俺が一種の感動すら覚えていると、そっと背中に指が当たる感覚が伝わった。
しかし、決して不快などではなく。むしろ柔らかく、優しさを感じられるその触りかたからは快感すら感じられて――。
「はっ。ご、ごめんなさい、和馬くん。和馬くんの背中がかっこよすぎて、つい関係ないのに触っちゃったわ」
「えっ、そうなのですか!? い、いえ、別に不快などではないのですが、なんと言いますか」
てっきり身体を洗うために触っているのかと思ったが、違ったらしい。
ちらりと氷雨先輩を見ると、その顔は林檎のように真っ赤に染まっていて。
それだけでも愛しいのだが、潤んだ瞳からは
俺のところの生徒会長、かわいすぎでは?
こう疑問に思ってしまうほど、今の生徒会長からは可愛さしか感じなかった。
あの濡れた髪に触れたい、眩いほど白い肩に触れたい。
そういった欲望が渦巻いていると、急に氷雨先輩は現実に戻ってきたようで。
「こ、こらっ。あんまり先輩のこと見たらだめよ」
ぷくりと赤いままの頬を膨らませながらささやかな抗議をしてみせた。
どうして真雪先輩はこんなにも可愛いのだろう。
「いやいや、先に俺の背中触ってきたのは氷雨先輩でしょう? 文句言わないでくださいよ。風呂に入ろうと言ったのも氷雨先輩ですし」
「そ、それはそうなのだけどっ」
ちょっとからかってみると、先輩は悔しさと恥ずかしさを混ぜたようにそっぽを向いてしまった。
それと同時に腕を組んでいる状態になってしまったので、俺としては非常に目のやり場に困る。
なので俺は視線を元に戻し、先輩の機嫌が直るのを待つことにした。
「……気を取り直して、洗うわね」
「は、はい」
氷雨先輩もこれ以上引っ張るのは得策でないと判断したのか、何事もなかったかのように取り繕う。
鏡越しに耳が赤くなっているのは分かっているのだが。
これからこのかわいい先輩とどう暮らしていくものか、という今更な疑問が湧きあがってきたので考えていると、唐突にぬるりとした感覚が背中に走る。
今度は声を出すのを必死に抑えたおかげで聞いただけでは何もなかったように思えるものの、今度は身体が跳ねてしまったので。
「あら、また気持ちよくなっちゃったの?」
「い、言いかたには気を付けたほうがいいと思いますね、俺は」
からかってやろうという意思をひしひしと感じる言葉を背後から投げかけられる。
しかし身体は俺が思っているよりも正直なようだ。
耳より少し下から囁かれるその声に、ピクリと肩が反応した。
その隙を先輩が見逃すはずもなく。
「言っているそばから反応しているようだけど? それに、先ほどからかなり焦っている様子ね。お姉さん声で分かるのよ」
「1歳差なのにお姉さんな感じで来ないでくれますかねっ……」
どんどん調子に乗り出す氷雨先輩に、俺は苦し紛れの反撃をする。
先輩は不利になっていく俺を弄り倒すかのように石鹸を器用な手つきでぬりたくっていきながら。
「あら、お姉さんはお姉さんよ? 1日でも早く生まれてたらお姉さん面することも可能っていうのが生徒会長の意見なのだから合わせなさい、副会長」
「なぜ強制されるのですか! あ、あとその」
「何かしら?」
さりげなく胸を押し付けているのだ、この生徒会長。
風紀委員の指導マニュアル作るのこの人のはずなのだが、仮にバレたらどうするつもりなのだろうか。
だが、そんな懸念すらどうでもよくなるほどに、ふにょんとした魅惑の感覚を与えるこの現状は破壊力が凄まじい。理性が崩壊しそうだ。
これならお姉さんなれるわ、などと思っていたが返事をしなければさらに俺の立場は弱くなってしまう。
「胸が当たっているのですが……」
「ああ、ごめんね。でも、和馬くんなら大丈夫よね?」
全然大丈夫じゃないです、氷雨先輩。
内心で思いっきりそう叫ぶ。
なぜ大丈夫ではない状況なのかは詳しく言わないが、氷雨先輩よ、どうか下半身だけは見ないでくれと心のなかで祈っていると。
「にゃふっ」
「ひっ、氷雨先輩っ!?」
浴槽の床に膝をついていたのが悪かったのだろう、滑ったようで、氷雨先輩は俺の身体にひしっと抱き着く。
幸い俺が勢いに巻き込まれてそのまま転がることはなかったものの、先輩が俺の身体の横から顔を出してしまう体勢になってしまい。
「お、おっきいわね……」
「感想を言う前に元の位置に戻りましょうか、氷雨先輩」
ばっちりと隠したかったものを目撃されてしまった。もう学校行きたくないと思ったが先輩は家にいるのだ。
一刻も早く先輩がこの光景を忘れてくれますように、と願いながら俺は精神統一に励んだのだった。
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